第1話
――苦しいときもいつも見上げれば大っきな雲があって、アタシはそれに向かって歩いて行くんだ。
高校に入って、うまれてはじめて彼氏が出来た。
彼はyoshiって言って、本名はヨシノブっていう。
彼はその名前を嫌って、名前を書くときいつもきまってローマ字でそう書いた。
テストのときもそんな調子だから、yoshiは一学期の中間試験は全部0点だった。
「いいのいいの。どうせ白紙だし」
先生の赤いペンで右上に大きく0と書かれた答案を机の上に並べて、彼はまったく気にしていない様子でそう言ったので、赤点をとらないように必死で勉強したアタシは少し呆れてしまった。
yoshiは中学生のときに全国大会にも出場したバスケの名選手で、身長は180センチもある。
勉強よりもスポーツに力を入れるうちの高校にスポーツ推薦で合格した彼は、アルファベットの小文字が全部書けなかったり、割り算が満足にできなかったりするけれど、学校は別に彼に勉強なんか求めていないからいいのだと彼は言った。
アタシがyoshiのことをはじめて意識したのは、5月に行われたクラス対抗のスポーツ大会だった。
教室の隅の席で大きな体をいつも窮屈そうにして座っていた彼が、すらりと伸びた長い手足で華麗にダンクを決めるのを見て、アタシはyoshiの彼女になりたいと思った。
友達の美嘉とメイと凛に頼んで、部活終わりのyoshiを呼び出してもらって、156センチのアタシは、放課後の体育館の裏で、頭ひとつ分高い場所にある彼の顔を上目使いで告白した。
yoshiは返事をするかわりに、アタシの唇にキスをした。
それがアタシのファーストキスで、その日からアタシとyoshiは恋人になった。
yoshiは隣町の中学の出身で、彼も自転車通学だった。
アタシの家は、彼が通学に使う道からそう離れてはいなかった。
だからその日は並んで自転車に乗って帰った。
返事のかわりにキスをするくらい大胆なくせに、彼はとても無口ではずかしがりやだった。
彼が何か喋ってくれるのを待っているうちに、一言も言葉を交さないままアタシの家に着いてしまった。
「アタシの家、ここだから」
そういうと、
「そう」
とだけ、彼は言った。
うん、とわたしは言った。
「それじゃあね」
アタシが自転車を車庫に片付けるのをyoshiはずっと見ていた。
「俺、つまんないだろ。しゃべんないから」
アタシの背中にyoshiはそう言った。
yoshiは中学のとき何度か女の子に告白されて付き合ったことがあるのだけれど、どの女の子とも長く続かなくてすぐに別れ話をされてきたのだと言った。
「そんなことないよ。アタシはyoshiと並んで自転車に乗ってるだけでドキドキして、楽しかったよ」
アタシがそう言うと、yoshiはほっと胸をなでおろしたように見えた。
小さな声で、よかった、と彼は言った。
アタシの彼はとてもかわいい人だった。
毎朝いっしょに登校したいねとアタシが笑うと、次の日の朝、yoshiはアタシを迎えに来てくれた。
yoshiは堂々とアタシの家の玄関のチャイムを鳴らして、そのくせドアを開けたママに何も話せずにいたらしく、
「あなたと同じ高校の制服の男の子が来てるけど」
と、不審そうにママはまだ寝起きで頭もボサボサのアタシの部屋に言いに来た。
あわてて手櫛で髪を整えてパジャマのまま玄関に向かうと、yoshiが困った顔をして立っていた。
どうしたの? って尋ねると、
「毎朝いっしょに登校したいって言ってくれたから」
と彼は言った。
「朝練、あるから。こんな時間になっちゃうんだけど」
yoshiは、アタシを迎えに行くか、通りすぎてそのまま学校に行こうか考えながら、アタシの家のまわりをぐるぐると何周も自転車で回っていたそうだ。
迎えに行こうと決めてチャイムを押したのはアタシが出てくるものだと勝手に信じて疑わないでいたからで、それなのにママが出てきちゃったものだからびっくりして何も喋れなかったそうだ。
アタシ、おかしくて笑っちゃった。
「待ってて。すぐ準備する」
彼を見上げたアタシに、yoshiはアタシの頭をくしゃくしゃっとして、八重歯を覗かせて笑った。
夏服に替わったばかりのセーラー服を着て、自転車を車庫から出そうとすると、
「後ろに乗ってけばいいよ」
yoshiはアタシを自転車の後ろに乗せてくれた。
アタシは彼の腰に腕をまわしてぎゅっとしがみついた。
「朝練、遅刻しちゃうからちょっと急ぐよ」
yoshiはそう言って、勢いよくペダルをこぎはじめた。
背が高いからかっこよく見えるだけ。
バスケが上手だからかっこよく見えるだけ。
あんまりおしゃべりじゃないからかっこよく見えるだけ。
高校でできたアタシの友達は真っ先に彼氏を作ったアタシをひがんで、そんな風にyoshiを酷評してくれたけれど、美嘉もメイも凛もアタシのシアワセを祝福してくれた。
美嘉たちの言う通り、yoshiはよく見るとそんなにかっこいいわけじゃなかった。
ほら、アタシはあんまりサッカーには詳しくないんだけど、Jリーグの選手にあんまり顔がかっこいい人がいないのに、かっこいいってサポーターの女の子たちにキャーキャー言われて、写真集まで出してる選手がいるのと同じ。
キスだって上手じゃない。
彼の十六歳の誕生日にはじめてエッチをしたときも、彼は自分が気持ちよくなることしか考えてないから、アタシはただ痛いだけだった。
だけどyoshiの彼女だっていうだけで、女の子はみんなアタシを羨んでくれる。
アタシにはそれがとても気持ちよかった。
それがアタシの初恋だった。
yoshiから、彼の友達のナナセって子が、アタシの友達の美嘉のことが好きらしいという話を聞いたのは一学期の終わりのことだった。
バスケ部の練習が終わるのを、マネージャーでもないのに体育館の中で待つのがアタシの日課になっていた。
汗ばんだ肌に、夏服の生地の薄いセーラーが張り付いて、アタシは下着が透けて見えていないか気にしながら待っていた。
「ナナセくんてどの子?」
練習終わりの、ナイキのタオルで汗を拭うyoshiにスポーツドリンクを渡してアタシは聞いた。
長い前髪をまっすぐ目の上に垂らした男の子をyoshiは指差した。
「うちのリバウンド王」
と、yoshiはアタシにナナセを紹介した。
ナナセはyoshiよりもずっと背の高い男の子だった。
「でかいだろ。190センチもあるんだ」
180センチのyoshiの顔を見上げるだけで首が痛くなったりするのに、それよりも10センチも高い場所にナナセの顔はあった。
アタシは、どんな高い場所を飛んでいるボールも彼は捕まえてしまうだろうと思った。
小麦色に焼けたyoshiとは対照的に、ナナセはとても色が白かった。
「バスケだけじゃなくて勉強もできるんだぜ。
期末試験、学年で十位以内だったもんな」
yoshiはナナセとよほど仲がいいのか、いつも無口なくせにまるで自分のことのように彼のことを自慢した。
ナナセは長い前髪のせいで口元しか表情はわからなかったから、yoshiの紹介に照れているのだと気付くのにアタシは随分かかった。
「美嘉ちゃんとは同中だったんだって。中学んときから好きだったんだよな」
yoshiにそう訊かれてナナセは首を何度も縦に振った。
yoshiはアタシのことを麻衣、アタシの友達のことを苗字ではなく下の名前を「ちゃん」付けで呼ぶようになっていた。
付き合い始めたばかりの頃は、アタシの名前を呼ぶのも「さん」付けで、恥ずかしそうにしていたのに、成長したなって思う。
ナナセは手でVサインを作ると、
「中二から好きだった」
と言った。
「告白しなかったの?」
今度はアタシが尋ねると、ナナセはまた首を何度も縦に振った。
「美嘉には噂になってた男がいたから」
そう言った。
アタシは美嘉から中学時代の話をあまり聞いたことがなかったけれど、中学生なんてそんなものだ。
早い子は中学生のうちにバージンを捨ててしまうけれど、ほとんどの女の子は誰と誰が付き合ってるとかどこまでしたのかとか、そんな噂話をして三年間を過ごしてしまう。
「告白すればよかったのに」
アタシがそう言うと、ナナセはぶんぶんと首を大きく横に振った。
「そんなこと、できない」
彼もyoshiと同じでとてもシャイな男の子なのだ。
だからふたりは気が合うんだろうと思った。
「でも、とうとう告白する気になったんだよな」
yoshiにそう言われて、ナナセは大きくうなづいた。
「こんなヤツだから直接告白なんてできそうにないから、電話がいいと思うんだ」
yoshiの言葉にあわせて、ナナセは何度もうなづいた。
「麻衣さ、美嘉ちゃんのケータイの番号、知ってるだろ? 教えてあげてほしいんだけど」
yoshiはアタシにそう言った。
美嘉に許可もとらずにそんなことをしてはいけないと、わかっていた。
だけど言い訳になってしまうんだけれど、そのときのアタシは、ナナセの二年越しの片想いを応援してあげたいという気持ちでいっぱいだった。
それに、ナナセから電話で告白をされた翌朝に、美嘉がどんな顔をして学校に登校してくるのかが見たかった。
だからyoshiにそう言われたアタシは、すぐに鞄からケータイを取り出して、アドレス帳にあった美嘉のケータイ番号を読みあげた。
ナナセは練習終わりでケータイを持ってなかったけれど、11桁の番号を一度聞いただけで覚えてしまった。
本当に頭がいいんだな、とアタシは思った。
yoshiはナナセに何度も、今夜美嘉に電話をかけるように話した。
「こういうのは早い方がいい。お前はもう二年も待ってるんだから」
yoshiは口酸っぱく何度もそう言って、ナナセに覚悟を決めさせた。
「明日美嘉ちゃんに彼氏ができる可能性だってあるんだぞ」
最後はほとんど脅迫するようにyoshiは言った。
「そ、それは困る!」
ナナセはとてもあわてて、そう声をあらげた。
アタシはそれはないと思ったけど、笑ってふたりのやりとりを見ていた。
そのとき、アタシもyoshiもナナセも笑っていて、これからアタシに起きることを誰も想像してなかったと思う。
次の日の朝、アタシは美嘉がいったいどんな顔をして登校してくるのか楽しみにして、教室で待っていた。
朝練のあるyoshiといっしょに登校するアタシは、アタシと彼の分の鞄を持って毎朝一番に教室のドアを開く。
バスケとアタシのことにしか興味がないyoshiは、もちろんのことながら課題や予習を一切しない。
わたしは朝のその時間に、その日提出の課題や、予習してこなければいけないものを、彼の鞄からプリントやノートを取り出して、彼の下手くそな字を真似して、わたしのプリントやノートから書きうつしてあげるようになっていた。
登校してきたクラスメイトたちひとりひとりにアタシは「おはよう」と挨拶する。
そんな風に何人かのクラスメイトたちを出迎えた頃、メイと凛が楽しそうにおしゃべりしながら教室に入ってきた。
ふたりの席は、アタシのすぐそばだ。
いつもなら笑顔でアタシに飛び付いてくるはずのふたりが、アタシの席の横を通りすぎていった。
「おはよう」
アタシはふたりの背中に声をかけた。
ふたりは一度だけアタシを振り返り、席に鞄を置くと、
「あんた大変なことしちゃったね」
メイはそう言いながら、凛はそんなメイの後ろにくっついて、アタシのそばにやってきた。
「大変なこと?」
アタシには何のことかわからなかった。
「よりにもよって、ナナセに美嘉のケータイ番号教えるなんて、美嘉に何されても知らないよ」
メイはアタシにそう言うと、にやにやと笑いながら席に戻っていった。
「ごめんね」
と、凛は何か知っているのかアタシにそう言って、あわててメイのあとを追った。
席につくとふたりはまた楽しそうにおしゃべりを始めた。
誰が決めたわけでもなかったけれど、美嘉はアタシやメイや凛のグループのリーダーだった。
美嘉は、始業ベルと同時に教室にやってきた。
美嘉の席はアタシの前の席だ。
「お、おはよう」
アタシはそう声をかけたけれど、美嘉から返事はなかった。
美嘉は鞄をどん、と机に置いて、アタシを振り返った。
美嘉は笑っていた。
だけどその笑顔が作り物だということはすぐにわかった。
美嘉とは高校に入ってからのまだ短い付き合いだけれど、それが怒っているときの顔だとアタシにはすぐにわかった。
「麻衣、話があるの。ちょっと付き合ってくれない?」
「でも、これからホームルームだし……」
「いいからついてきなさいよ」
美嘉はアタシの腕を痛いほど強く握って、引っ張った。
「痛いよ、美嘉」
「うるさい」
アタシは美嘉に連れられて、廊下を早足で歩き、
「おい、これからホームルームだぞ」
すれちがった担任の棗先生がアタシたちの背中に言った。
アタシは片手で、ごめんなさいのジェスチャーをした。
棗先生は二七歳で、教師になって五年目もたつのに、童顔のせいでいまだに教育実習の大学生にしか見えない人だ。
いい加減で適当で、朝礼の校長先生の長話をアタシたちといっしょになってあくびをしながら聞いているような、ちっとも先生らしくない人だった。
先生たちからの評判はあんまりよくないらしいけれど、アタシたち生徒からはすごく人気がある。
アタシも棗先生に少しだけ憧れていた。
後でちゃんと謝らなくちゃ。アタシはそう思いながら美嘉に腕を引っ張られながら廊下を歩いた。
「どこ行くの?」
「屋上」
アタシたちの学校は三階建てで、一年生は校舎の三階に教室がある。教室は二年生になると二階に、三年生になると一階になる。
「日本の古き良き時代の風習、年功序列ってやつだな」
と、棗先生は、入学したての頃、三階まで階段を登るだけで朝からヘトヘトになっていたアタシたちにそう言った。
美嘉は屋上に続く階段に足をかけた。
「屋上への立ち入りを禁ずる」
階段には柵があって、そんな張り紙がされていた。
美嘉が柵を乗り越えたので、アタシも柵に足をかけた。
「屋上なんて鍵かかってて入れないよ」
「いいの。鍵なら職員室から借りてきたから」
美嘉はスカートのポケットから鍵を取り出して見せた。
たぶん先生たちの目を盗んでこっそり持ち出してきたのだ。
「ねぇ、ゆうべナナセ君から電話あった?」
鍵をドアノブに差し込んだ美嘉にアタシは聞いた。
ドアが開いて、アタシは美嘉にどんと背中を押された。
はじめて登った学校の屋上は、見上げると大きな夏の雲があった。
「電話があったからあんたを怒ってるのよ。よりによってあんなヤツにあたしの番号教えるなんて」
あんなヤツ?
メイや凛も、同じことを言っていた。
「どういう意味?」
美嘉は何もわからないでいるアタシに、中学生のときに起きた事件について教えてくれた。
美嘉が中学時代のことをあまり語りたがらなかったのは、その事件のことがあったからだった。
美嘉が中学二年生のとき、体育の授業から教室に戻ってくると、彼女のセーラー服に白い液体がいっぱいついていたことがあったという。
男の子の精液だった。
その事件は学校中に知れわたるほどの大事件になったという。
外部からの侵入者か、あるいは内部の者の犯行か。学校中でいろんな噂が流れたけれど、そのときは犯人は結局わからなかった。
すると今度は音楽の時間に、美嘉がリコーダーを吹こうとしたところ異臭がした。
おそるおそる分解すると中にべっとりと精液が詰まっていたという。
その後も何度も美嘉の鞄や、教科書、筆箱や弁当箱などが次々と同じ被害にあった。
美嘉や彼女の両親は警察に通報しようとしたけれど、学校は事件が表沙汰になることを恐れて、校長や教頭や担任の先生が菓子折りをもって美嘉の家を訪ねてきて、通報だけはしないようにと何度も頭を下げて揉み消そうとしたそうだ。
そして事件が起きた日は、必ず体育の授業がある日だということ、毎回体育に出ずに保健室で寝ていた男の子がいることがわかった。
それがナナセだったそうだ。
ナナセもyoshiと同じで、ふたりは県大会で戦ったこともあるバスケの名選手だった。事件は教師たちによってなかったことにされ、彼もスポーツ推薦でこの高校に入学したのだという。
アタシにはナナセがそんなことをするような男の子には見えなかった。
けれど、彼は中学二年から美嘉のことが好きだと言っていたし、美嘉には噂になっていた男の子がいたから告白ができなかったと言っていた。
自分の気持ちをどう抑えたらいいのかわからなくてそんなことをしてしまったのかもしれないなと思った。
中学生の男の子は大変だ。
だけど、いくら好きだからと言ってもしてはいけないこととしていいことがある。
「あいつ、電話であたしに何て言ったと思う?」
美嘉の問いにアタシは答えることができなかった。
「やっと繋がることができたね、ってあいつそう言ったの。気持ち悪くてすぐ電話を切って着信拒否したんだけど。今度は非通知でかけてきて、その次は家の電話から。最後には公衆電話からかけてきて。今度こそ繋がってくれるよねって」
美嘉は非通知の電話も、ナナセの家の電話も、公衆電話もすべて着信拒否したそうだ。
その後で事件のことを思い出して、一晩中トイレで吐いたと美嘉は言った。
「友達のケータイの番号、勝手に他人に教えるなんてことフツーはしないよね。あんたにはちょっと罰ゲームをしてもらおうと思うんだ」
美嘉は屋上のフェンスにアタシを追い詰めて言った。
「罰ゲーム?」
アタシが尋ねると、美嘉はまた作り笑いでアタシに笑いかけた。
「そう。罰ゲームって言ってもそんな大したことないけど。あたしと麻衣の仲だもんね。あたしの言うことをしばらくの間聞いてくれたら許してあげるから」
罰ゲームについては後から詳しく教える、美嘉はそう言うと、踵を返して階段を降りていった。
アタシはしばらくの間、その場で呆然と立ち尽くしていた。
一限目の始業ベルが鳴るのを聞いて、アタシは教室に戻った。
美嘉はその日一日中、ケータイをいじっていた。
授業時間も休み時間もずっと。
休み時間になると、廊下で誰かと電話をしているようだった。
きっとアタシへの罰ゲームに何か関係があるのだ、とアタシは思った。
「どうしたの? あんまり元気ないみたいだけど」
不安そうにしていたアタシに、yoshiが声をかけてきた。
アタシは何でもないよと笑った。
うまく笑えていたかどうかわからなかったけれど、yoshiはそう、とだけ言って、席に戻って行った。
yoshiはたぶん、ナナセが中学のときに美嘉にしたことを知らない。
じゃなかったらアタシに美嘉のケータイ番号をナナセに教えるように言うはずがなかった。
夏の大会はもう始まっていた。yoshiもナナセも一年生でふたりだけレギュラーをとって試合で活躍していた。地区予選を順調に勝ち進んでいた。
今はyoshiにはバスケに集中させてあげたかった。
アタシと美嘉の問題にyoshiを巻き込みたくなかった。
だけど今思えば、もっと早く、そう、このときyoshiに相談していたら、ひょっとしたらアタシはあんなことにはならなかったかもしれない。
アタシは一日中上の空で授業を聞いていた。
右耳から入ってきた言葉が、脳に伝わらずに、そのまま左耳から抜け出てしまっているかのように、先生たちの言葉が何も頭に入ってこなかった。
「加藤さん」
「加藤さーん」
棗先生の現国の授業で、
「麻衣ちゃーん」
アタシは先生に三回名前を呼ばれるまで、あてられていることに気付かなかった。
クラスメイトたちはそんなアタシを見てくすくすと笑っていた。
アタシはあわててまわりを見回して、教科書を皆と同じページを広げて立ち上がった。
立ち上がったのはいいものの、何を聞かれたのかわからなくて困ってしまった。
「あの、なんですか?」
逆に問い返したアタシを棗先生は怒らなかった。
先生が誰かに怒ったり叱ったりするところをアタシは見たことがなかった。
先生はそういう人で、笑いながら「座っていいよ」と言ってくれた。
次にあてられたのは美嘉だったけれど、美嘉はケータイに夢中で立つことも返事もしなかった。
先生はやれやれといった顔をして誰かを指名することをやめてしまった。
六限目の授業が終わって皆が帰り支度を始める頃、アタシもいつもと同じように放課後をyoshiがバスケの練習をする体育館で過ごすつもりで荷物をまとめていた。
yoshiもそのつもりだったらしく、アタシに声をかけようとしたけれど、
「yoshi、あんたの彼女、今日借りるから」
美嘉がアタシとyoshiの間に入ってそう言った。
「行こう。麻衣」
美嘉はまた作り笑いの笑顔でアタシに笑いかけた。
「う……うん。ごめんね、yoshi」
yoshiはぽかんとした顔でアタシたちを眺めていた。
アタシと美嘉の後ろをメイと凛がついてくる。
これから罰ゲームがはじまるのだ、とアタシは覚悟を決めた。
「あんたにはしばらく、あたしたちのお小遣いを稼いでもらうことにしたから」
美嘉は高校のすぐ近くにあるファミレスでそう言った。
あたしたちはそれぞれドリンクバーを頼んで、美嘉はコーヒーを、メイはアイスティーを、凛はオレンジジュースを飲んでいた。
アタシはカップにあったかいカフェラテを注いだけれど、一口も口をつけずにいた。
「おこづかい?」
アタシはオウム返しに聞き返す。
アタシたちの高校は、アルバイトはよほどの家庭の事情がない限り禁止されていた。
隠れてコンビニやファミレスでバイトしている子もいるけれど、学校から離れているからと安心していたら担任の先生が客としてきちゃって一週間の停学になった子が一学期の間に何人もいた。
「でも、みんなのおこづかいを稼ぐって言ったって……」
今からバイトを始めたとしてもお金がもらえるのは夏休みの終わりになってしまう。
「だいじょうぶ。ちゃんとすぐにお金がもらえる仕事だから」
美嘉は笑ってそう言った。
日雇いのバイトだろうか。
だったらすぐにお金をもらうことができるけれど、15歳の女の子に力仕事なんて無理だし、ティッシュ配りとかビラ配りだろうか。
だけど一日働いて一体いくらになるんだろう。
五千円とかそれくらいにしかならないような気がした。
「一回一万五千円から三万円てとこだよね」
メイが言った。
「うん、それくらいが相場だと思う。よくわかんないけど百年に一度の大不況なんでしょ今。そんなにお金もってる大人いないでしょ」
美嘉が笑って言う。
凛はうつむいてストローをくわえたまま黙ってふたりの話を聞いていた。
肩が少し震えているように見えた。
一度だけ顔をあげて申し訳なさそうにアタシを見た。
とても嫌な予感がしていた。
そのとき、美嘉のケータイが鳴った。
「もしもし」
美嘉は男の子と話すときにだけ使うかわいい声で電話に出た。
「うん、今ね、ガストにいるから。うん、ひとりだよ。どれくらいかかりそう? 五分くらい? うん、わかった。じゃあ、待ってる。え? 目印になるようなもの?」
美嘉はアタシを一度だけ見た。
「髪はふたつくくりで、前髪がそろってて」
美嘉は電話の相手に、アタシの髪型を説明してた。
「緑南高校の制服着てるから。うん、セーラー服だよ」
美嘉はアタシの鞄についたパンダのぬいぐるみを手にとった。
yoshiとおそろいで買ったぬいぐるみだった。
アタシのはフツーのパンダで、yoshiのはパンダの白と黒が逆になっている。
アタシの宝物だった。
「学校指定の鞄にパンダのぬいぐるみつけてるからすぐにわかると思うよ」
そう言って、美嘉は電話を切った。
「五分くらいで来るって。最初のお客さん」
美嘉はいつものトーンでアタシに言った。
「一時間か、二時間くらいかな。
わかんないけど、あたしたち、あっちの席であんたが帰ってくるの待ってるから」
美嘉はメイと凛を促して、三人はグラスとレシートを持って店の奥の席へ移動した。
「ねぇ、最初のお客さんって何? アタシ、これから何すればいいの?」
アタシは美嘉に尋ねた。
だけど、そのとき本当はアタシももうこれから何をさせられるのかわかっていた。
「ウリに決まってるじゃん」
馬鹿じゃないの、と美嘉は楽しそうに笑った。
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