晦ます地底湖の道 Ⅳ

 ロンフォールは、犬の体に回していた腕に力をこめて、さらに抱き寄せた。


「控えろ、スレイシュ」


 鼻息荒いスレイシュへ、一際低く、さながら唸るように言い放ったのは、左腕を庇う子響であった。


 唸るような声ではあるが、腹の底から出している声のようで、明瞭である。何か、痛みとは別の何かを孕んだその声。


 肘を曲げ、左手首を持って、腕全体を腹に押し付けるようにしながら痛みを抑え込み、彼はゆらりと立ち上がる。


「この御仁こそ、導師の言の葉に過(あやま)たず。いかな理由があろうとも、導師の宣下なく屠ることなど言語道断」


 はっきりと、低く強く言い放たれる言葉。


 これまでの柔和な彼とは思えないほど苛烈な気配で、ロンフォールは思わず息を飲んだ。


 そんな子響が手負いであることに気付いたスレイシュ。彼もまたロンフォールと同様に、刹那の間の出来事で、気が付いたのがこの時だったのだろう。


 その驚きに加え、子響の声と気配に圧され、スレイシュは助けを求めるように、名代であるリュングへと視線を向ける。


 リュングは目を伏せ、諫めるかのように静かに首を振った。


「この男も、この男なりに、問題がある」


「問題……?」


「忘却の罪だ」


 その言葉に表情を固くし、言葉を逸した様子のスレイシュ。


 リュングはそれを認めつつも、言葉を続ける。


「どういった経緯で現在に至るのか……導師へ刃をむけた前後のことも気がかり。バンシーも有さないのだ。とにかく私は名代として、導師の言葉通り、里へと招き入れる。その後は導師に従うまで」


「でも__!」


「聴けぇッ!」


 怒号を発し、スレイシュの言葉を遮ったのは子響である。


 ビクッ、と体を強張らせたスレイシュは、年上の2人を交互に見た。


 その怒号は、ロンフォールも、そして狗尾シーザーでさえも身構えるもの。柔和だった彼が、これほど苛烈な覇気を発するとは思いもよらなかった。


 ひとつ呼吸を整えてから、子響に変わってリュングが口を開く。


「もう決まったことだ。お前がどうこう騒ごうが、一任されている名代の私の決定には従ってもらう」


 スレイシュは、怯みながらなおも食い下がる気配を見せるのだが、それを制する、よいな、と続く子響の言葉には、有無を言わさない響きがあった。


 口を一文字に引き結んで言葉を飲み込んだスレイシュは、いかにも不服そうな表情でロンフォールを睨みつけてから、リュングへ姿勢を正し小さく礼をとった。


「お前は先に戻り、気を鎮めよ」


 行け、と指示を受け、スレイシュはグッと気持ちを堪えるように腰の得物から手を放し、踵を返して闇へと消えていく。


 苛立ちを顕にするようなその足音が、遠く聞こえなくなるにつれ、場の張り詰めた空気が綻び始める。そうして、ロンフォールが小さくため息を零そうとしたときだった。


「あ__」


 とても近い位置で短い叫びとともに、水に何かが落ちる音がした。


「ワグナス!」


 いち早く声を上げたのは、リュングだった。


 先ほどワグナスがいた場所に、その姿はない。代わりに、立っていたはずの近くの水面が激しく乱れ、必死に水から顔を出そうとするワグナスが見えた。


 一瞬、何事かわからなかったロンフォール。その瞬間、力が緩んだロンフォールの腕の中から、シーザーはするり、と抜け出、周囲には見向きもせず、まっすぐにその溺れるワグナスへ走っていく。


 そして、迷うことなく、勢いをそのままにワグナスの落ちた地底湖へと飛び込んだ。


 子響もそちらへ向かって駆け寄ったが、その間に、シーザーは顔だけを出し、流されているワグナスへ泳ぎ着く。


 シーザーは回り込んで懐に入り、その際、首にワグナスの腕をまわさせ、無理に流れに逆らわず、近くの岸部に向かって泳ぎはじめる。


 リュングと子響は狗尾の先を読んで、彼が目指しているあたりの岸で待機した。


 やがて浅瀬に近づくと、脛のあたりまで浸かり足元を確認しながら同じ方向へ進んでいた2人は、さらに深みに確実な足元を見出し、流される彼らに向かって進む。


 子響はその際、纏っていた外套を器用に右手だけで外し、岩盤に放った。そして、腰まで沈んだところで手が届き、シーザーに掴まっていたワグナスの体を掴んで陸へ上げた。


 上がるや否や、子響は放っておいた外套で、ずぶ濡れになって震える小さな体を包む。


「あ、足が……槍を取、りに行こう、として……滑って……ごめ、んなさい……」


 ガチガチ、と震える唇と歯が邪魔をして、言葉がうまく続かない。


「謝らなくていい。怪我はないか? 痛いところは?」


 問いに対して首を振って答えるワグナスの体を、リュングは抱きしめた。


「立たせたところが悪かった。下がらせたとき、よく見ずに……。すまなんだ」


 濡れた地面は滑りやすい。ただでさえ、表面が滑らかなのだから、なおさらである。


 抱きしめて温められているリュングを尻目に、シーザーはロンフォールの近くへ歩み寄って身震いをし、水気を飛ばす。それは1度では足りぬようで、3度ほどしても、まだ水が滴っている。


「狗尾は、救助もできるか……」


 ひとりごちて言いながら、子響は落ちた槍を拾う。


 槍を携えワグナスの元へいくと、身をかがめ、槍を肩に預けて空いた右手で小さな頭を軽く撫でる。


「咄嗟に動けず、すまなかった」


 いいえ、と答えるワグナスは、目の前の負傷した左腕が目に留まる。


「あの犬が、助けに行くとは思わなくて、それに驚かされてしまってね」


 ちらり、と少年は白い大きな犬を見る。その瞳には、怯えの色。


「あの犬が怖いかい?」


「怖いけど……助けてくれたんです……だから、その……わからない……」


 素直なワグナスに、子響は苦笑を浮かべた。


「あの大きな犬は、シーザーという名前でとても利口なんだ。だから、あのレーヴェンベルガー卿を守ろうとした。__わかるね?」


「でも……」


 ワグナスが言いよどんで、子響の左腕に視線を移す。


「この左腕、喰い千切られていても可笑しくはなかった。あのぐらいの大きな犬であれば、顎の力は強力だからね。でも、ちゃんと状況を理解して放したんだ。これは、うんと賢くないとできないことなんだ。むやみに恐れることはない」


「……はい……」


 それにね、と子響は言いながら、槍を右手に持って、すっと立ち上がる。


「__レーヴェンベルガー卿は、記憶をなくしておられる」


「忘却の罪ですね……さっき仰っていた……」


「そうだ。そんなレーヴェンベルガー卿のことを知る、唯一にして大事なお友達なんだ」


 ワグナスは犬とその主を交互に見る。


 ロンフォールはあの怯えた目を見るのが恐ろしく、罰の悪さもあって、身をわずかに引いて目をそらした。


「私の見立てだと、仲間として認識してもらえれば、君自身も守ってもらえるはずだから」


 え、と驚きの声を彼は上げた。


 これにはロンフォールも驚いて、視線を子響の向ける。


「__本当ですか?」


「ああ。現に助けてもらっただろう。それに、私が言ったことに、これまで間違いがあったかい? __そうだ、君は、駆けっこが得意だろ?」


「はい」


「あの犬はね、とても足が速い犬種なんだ。すぐには無理だろうが、仲良しになれば、駆けっこの勝負もできるだろう」


 その言葉をきいて、顔が明るくなるワグナスは、元気よく頷いて犬へと顔をむける。


 シーザーはその視線をまっすぐ見返して、胸を張って頭を上げ、威圧する呈である。だがそれは、わざとやっているように、ロンフォールには見えた。


「さ、さっきはありがとう……」


 シーザーは応えるように、濡れた尾を1度大きく振った。


「これから、僕らの里で一緒に暮らすんだって。だから……もう少し、仲よくなろうね」


 ですよね、とリュングと子響に振り返る。


 ロンフォールも同様に彼らを見た。


 彼らの導師に危害を加えた自分を受け入れてくれる、というが、嘘のようでまだ実感がわかない。


 本当にいいのか、と問うためにも、彼らを順に見たのだ。


「そうだ」


「そうだよ」


 ロンフォールはその2人の言葉に、膝の力が抜けてその場に座り込んでしまった。


「どうして……」


「導師は、貴方がどういった存在なのか___おそらく、何もかも承知で、連れて来いと仰ったのだから、気にすることはない。無碍に命を奪うこともなさらんお方だ」


 足元に落とした視界がぼやける。瞬くと、ぱらぱら、と水の粒が服に落ちてしみを作った。


「__本当に、ごめん……」


 謝罪の言葉が自然と零れたが、その謝罪には感謝の気持ちも内包されていた。

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