忘却の罪 Ⅰ

「とにかく、名前はわかってよかった」


 言いながら、名代とともにいた年嵩の青年が柔和に笑って、銀色のメダルを手渡してきた。


 そのメダルの表には、鷲の顔と翼、前足も鷲のそれで、身体と後ろ足、尾が獅子の異形__鷲獅子グリフォンと呼ぶらしい__の意匠が彫られている。そして裏には彼が言う名前が彫られていた。


「__ロンフォール・レーヴェンベルガー卿」


 それが自分の名前らしい。


 青年が言うには、これは龍帝従騎士団の証で認識票を兼ねているメダリオンなのだそうだ。


「そうでしたか……やはり貴方が……レーヴェンベルガー卿」


「やはり?」


「ええ。実は、もしかしたら、と心当たりがあったもので」


「ほう」


 名前はわかったもののロンフォールは失意の中、彼らに前後を挟まれた形で連れられながら、さまざまな彼らの会話を上の空で話を聞いていた。


 そうした様子を察したのか、年嵩の青年が名前を呼んだらしかった。


 視線を向ければ、彼は柔和に笑みを大犬に向ける。


「そして、彼はシーザーか」


 毛足の長い白い大犬は、首輪が隠れていてそこにも同様のメダルが付いていた。


 かなり歩いたようにも思われるが、突きつけられたことの大きさに、それさえも記憶に霞んでいる。


「覚えは?」


 いいや、と首を振るしかない。


 名前がわかれば、何かしら思い出せるものもあると期待をしていただけに、ため息が零れる。


 先頭の向こうに、周囲を大きな常緑樹に囲まれた大きな岩が見えてきた。それを見て取って、背後の青年の向こうをふと振り返る。


 草原にいたときは鬱蒼とした印象があった森だったが、入ってみれば比較的明るい。しかしながら、草原との境目あたりよりも奥へと至るにつれ、緑が濃くなっていく。


 その濃さの中にあって、立ち枯れたように見える森の木々は、よくみればやっと芽吹いたばかり。枝や、ところどころにある常緑樹の濃い緑が幾重も重なって見えたから、外から見た時、鬱蒼とした印象を覚えたのかもしれない。


 道無き道の地面を覆う落ち葉は湿っており、滑りやすい。しかもその層は分厚いため、すねの中ほどまで埋もれさせるから、歩きにくいことこの上ない。


 シーザーも歩きにくいらしく、若干、飛び跳ねるようにしていた。脚の優美な絹のような毛には、落ち葉が絡みついてしまっている。


 踏みしめる音以外に、色々な音がある。木々がぶつかって起こる音。鳥が枝を揺らす音。枝が落ちる音__そうした音に驚きながら歩けば、足をとられそうになる。その度、寸でのところで槍を持った青年が腕を掴んで助けてくれた。


 間違いなく、自分は独りで先ほどの場所まで戻ることはできないだろう__もっとも、戻れたとてどうしてよいのかわからないのだから、戻る意味もないのだが。


「犬種はドラクセン・ウルフハウンドか。格式高い血統を使うつもりか、龍帝従騎士団は」


 ロンフォールの傍近くを歩く大きな犬は、四足だというのにその背中はロンフォールの脚の付け根に達する。立っていても、少し手を下げて伸ばせば、優美な曲線の背中に簡単に届いてしまう。それほどの大犬。


「ドラクセン・ウルフハウンド?」


「この国の北部を起源にしている犬種のはずですが……少し、整理しましょう。導師の命とは申せ、いくらか我々にもそのぐらいの権利は許されるだろう」


 年嵩の青年が答えている最中、リュングが足を止めた。その目の前に、あの大岩があった。


 大岩は人よりも大きな一枚岩が奇跡的な重なりで作り上げた小屋のような構造をしていた。


 その空間の中央には、腰掛るのにちょうどよい大きさの石が、焚き火の跡を囲うように置かれている。


 さあ、と座るように促された場所は、その石のひとつであった。


 ロンフォールが腰掛けたのを見守ってから、年嵩の青年は手にしていた長槍を目の前に横にして置く。そして、湿気を孕んだ枯葉に濡れることを躊躇せず、恭しく膝をついて礼をし、もう一人の青年もそれに倣った。


「順序を違え申し訳ございません。私はシキョウにございます、レーヴェンベルガー卿。以後、お見知りお気を」


「あ、いや……その……」


 どう返していいのか分からず困っていると、シキョウが上品に柔和に笑んで顔を上げた。


 彼は長い黒髪で、肩口よりやや下あたりで後ろに一つ結わえにしている。


 髪を結わえているところから伸びる輝きは、金の細かい鎖に時折挟まれた紫や緑の綺麗な玉石ぎょくのもの。それは頭の上に向かって伸びている。辿っていくと濃い緑の布の額当てをしていて、そこに引っ掛けているらしい。額当ての眉間にも小指の先ぐらいの大きさの紫の石が縫い止めてある。


 瞳の色はその紫より青みがかっていて、柔和な雰囲気の中にも力強い印象を与え、侮らせない雰囲気がある。


「すみません、覚えがないかもしれませんが、これが騎士殿への我々なりの礼儀ですので。__こちらの方は導師の名代でリュング殿」


 紹介された紅玉の瞳の青年は、同じく黒髪ではあるがこちらは短髪。両の目尻にそれぞれ米粒ほどの白い石が2つずつついているのが印象的だ。


 それ以外は、シキョウより地味であまり印象的な特徴はないように思える。表情もシキョウに比べ、豊かなようには思えない。


「名代……」


 さきほどからあった言葉であることを思い出し、その言葉を反芻しながら、首から提げていたメダリオンを元に戻そうとするが、いかんせんどうやって戻せばいいか分からず考えあぐねていると、シキョウが元通りに戻してくれた。


「ありがとう」


 これはすんなりと無意識に出た言葉だ。


 それに対して、シキョウは一瞬驚いた表情を見せてから照れたように微かに笑み、すでに石に腰掛けていたリュングの近くに腰を下ろした。


「いえ。__まず、レーヴェンベルガー卿、ご自身の立場はおわかりで?」


 騎士団の証とその制服__それも見慣れた感覚を覚えている制服を着ているのであれば、それの指し示す答えはひとつ。


「……その……龍帝従騎士団の人間……」


「他には?」


「そうだな……」


 答えてみたはいいが、確信がない。そこへ畳み掛けられて、腕を組んで考えてみる。しかし、一番古い記憶として蘇るのは、草原でただひとり目覚めた瞬間のこと。


「では、龍帝とは?」


 龍帝従騎士団の中にもあるその響きは、単体でも耳に慣れている心地がするが、果たして何を指すのかは思い当たらない。首を傾げるしかなかった。


「……この国は?」


「……」


 するり、と答えが出ると期待して口を開けるが、予想に反していっかな言葉が紡げない。


 そうして愕然とする。


 __本当になにも覚えていないのか……俺は……。

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