ある夜の小さな事件2

 ペディは一息でビールを飲み干すと、静かに瓶をテーブルの上に置き、液体が流れていく道を確かめるかのように片手で自分の腹をさすっていた。


「さっきの口ぶりだと、それが初めて飲むものってことか?」


 隣の席からジョニーが声をかけてくる。

 ペディは手を止めて彼を見た。


「厳密に言えば、ロールアウト前に一通りの飲食に関するテストは済んでいます。ですがそれは私の意識が入る前のことです」

「回りくどいな。要するに、あんたの主観ではこれが初体験ってことでいいのか?」

「そうですね。自意識を持った状態での飲食テストが私の役目のひとつですので」

「ふーん。それで、感想は?」


 いつの間にか、ジョニーがペディに向ける視線は和らいでいた。

 話を聞くうちに、彼女がまだ生まれてからそれほど経っていないということが分かってきたからだ。

 警察気取りのいけ好かないGSというイメージは薄れ、初心うぶな少女を見守るような感覚が無意識のうちに彼の中に生まれつつあるのだった。


「体の中を異物が通過していく感覚は、どちらかと言えば不快ですね」

「なんかロボットみたいな感想だな。GSは皆そんな感じなのか?」

「いえ、諸事情により私が特別に若いためだと思います。先輩たちからも言葉が堅いと、よくからかわれます」


 若干恥ずかしそうにうつむくペディを見て、ジョニーは意外そうな顔をした。


「へえ、驚いたな」

「何がです?」

「先輩のGSはあんたみたいにお堅くないのかと思ってね」

「どちらかと言えば、ジョニーさんみたいな感じですよ」

「ジョニー? ……ああ、俺のことか。それはなんとも……イメージが崩れるな」


 ジョニーは軽く首を振り、持参していたグラスの残りを飲み干した。

 氷とグラスが触れてカランという高い音が響いた。


「おかわりをくれ。彼女にも同じものを」

「……かしこまりました」


 カウンターの向こうでマスターは一瞬何か言いたげな顔をしたが、ジョニーの有無を言わせない態度を見て開きかけた口を閉じた。

 背後から、彼の仲間たちと思しき連中の困惑するような息遣いも聞こえてきたが、ジョニーはそれらも全て無視していた。

 どうやら今この店に揃っている面子の中では、彼に対して正面から苦言を呈することができる人間はいないようだった。


「これは?」


 ペディの目の前に出されたグラスには、琥珀色の液体が三分の二ほど注がれており、大きな丸い氷が一つ入っていた。


「ハーフロック。銘柄は伏せるが俺のおすすめだ」

「なぜ私に?」

「よちよち歩きのお嬢さんに奢りたくなっただけだよ」

「はあ。それはどうもありがとうございます」


 よく分かっていない様子でペディはグラスを手に取ると、先ほどのビールと同じようにぐっと一息で飲み干してしまった。


「ふむ。蒸留酒ですね」

「いい飲みっぷりだが……なってねえなあ」

「はい?」

「マスター、もう一杯くれ」


 再び目の前に置かれたグラスを、ペディはますます不思議そうに見つめる。


「いいかいお嬢さん、ウイスキーは一気飲みするもんじゃない。ゆっくりと味と香りを楽しむもんだ」

「なるほど。飲み方にも作法があるんですね」

「そういうこと」


 ペディはジョニーが飲むのをじっと観察してから、それを真似るようにして自分のグラスを口に運んだ。


「どうだい?」


 ジョニーが尋ねる。

 ペディはこくりと小さく喉を鳴らして、一口分のウイスキーを飲み込んでから、少し考えるような仕草をした。


「強いお酒ですね。水で薄められる前のアルコール度数は恐らく40%程度。少なくとも10年以上は熟成されているものと推測します。原料は大麦と……」

「待て待て、誰が成分分析をしろと言った」

「しかし、では他に何を言えばいいのか」

「味の感想だよ。初めて飲んだものの感想を……」


 と、そこでジョニーは何かに気づいたように、ペディの顔を覗き込んだ。


「ひょっとしてあんた、味覚はないのか?」

「いえ、味覚……というか、味を感じ取るセンサーは実装されています。ただ、それを私がどう解釈して受け止めるか、という部分が完全に未知の領域でして」

「ややこしいな。つまり?」

「つまり……まだよくわからない、ということになりますね」

「なんだそりゃ」


 大げさに肩をすくめて見せるジョニーから自分のグラスへと視線を移し、ペディはそれを目の高さまで持ち上げて軽く揺らした。

 暖色の照明が透明な氷と琥珀色の液体を通過し、彼女の瞳に波打つような光を投げかけている。


「ただ、とても美しいとは思います」

「美しいだって?」

「見た目の色もそうですが、シンプルなのに変化していく複雑な香りがします。時間を凝縮したような味は先人の知恵と歴史を想察させます。それらが一つのグラスの中に収まっているというこの構図を、私は美しいと感じます」

「……なんだ、分かってるじゃないか」


 ジョニーは苦笑いを浮かべて、美味そうにウイスキーを一口飲んだ。


「これでいいんですか?」

「ああ、それでいいんだよ」


 ペディは何やら腑に落ちていない様子で軽く首を傾げつつ、先ほど学習した飲み方で、琥珀色の液体をちびりと口内に流し入れた。

 舌と鼻腔のセンサーはきっちりと口内に入り込んだ異物の情報をコアへと運ぶ。

 ほんの少しの会話によって経過した短い時間と、それによって少しだけ変化した自分の心によって、味の受け止め方もまた変化していくことをペディは感じていた。

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