ラミラ・アグレダ・ビリェガス 3
「ラミラ嬢」
頭の中が可愛いで埋め尽くされていた私の耳に、声変わり前の少し高い声が届いた。うっ、声も可愛い。
気を抜くとにやけてしまいそうになる顔の筋肉を必死で制御して微笑を取り繕い、声をかけてくれたレグロに目を向ける。少し困ったような微笑に変化しているのを見て、今は初対面かつとんでもなく失礼な顔合わせというか押しかけをしている状況だということを思い出した。
(ど、どうしよう。どうしたら良いのかしら!?お母様のことをいきなり謝罪しても大丈夫?そういうのは雑談してからそれとなく話を持っていくもの?でもそれとなくってどうしたら……あああ会話の糸口が見当たらない!)
自分の方を向きはしたものの、引きつった笑顔のまま黙り込んでいる私の対応は最悪だろう。もし自分の客がこんなのだったら、私ならさっさと叩き出す。
だけど数回目を瞬いたレグロは不快そうな表情をするでもなく、ただ少し困ったように首を傾げただけだった。
「そんなに緊張しないでください。なんだか僕がいじめているみたいではないですか」
ほら、お茶をどうぞと少し温くなったお茶を勧められる。正直緊張で味も温度もよくわからないのだけれど、この場で王子様に勧められたお茶を飲まないという選択肢は私にはなかった。
とはいえ、機械的に流し込んだだけのお茶にも多少は意味があったのだろう、私の鈍い感覚を味と香りが刺激した。
「あ、これ」
「気に入りましたか?」
「気に入ったというか、アリシア……えっと、ゆ、友人の家でよく出てくるお茶と同じだなと」
「なるほど。少しでも馴染みのあるものがあって良かったです。このお茶、香り高いのが良いと母が好んでいるので、ここでは大抵このお茶なのですよ」
安心させるように穏やかな口調のレグロに励まされ、ついでにアリシアを思い出させるお茶に少し肩の力が抜けた。
教師からお茶の種類と特徴も多少学んでいるとはいえ、すべて覚えられるほどに何杯も飲むわけにもいかないから、私が識別できるのはいつもアリシアのところで出されるお茶だけ。それも、きちんとお茶会の形式を整えた場ではなく、アリシアの私的な時間にお邪魔したときに出されるお茶だけだ。
(だって、お茶会の時はその時々に合わせたお茶に変わるんだもの)
気候やお茶菓子、招待客に合わせて毎回お茶を選んでいるとは聞いているし、毎回おそらく違うお茶なのだろうとはぼんやり分かるものの、同じことが自分にできるとは思えない。いずれは自分がもてなす側になるのだから、できるようにならなければならないとは思う。思うけれど……アリシアが特にお茶の話題を出さないのに甘えていることは否めない。
前途多難だな、と自分の思考に心の中で溜息を零して、我に返る。
肩の力を抜くどころかうっかり現実逃避してしまったが、今はレグロと会話中だった。
(な、何の話をしていたかしら。お茶?お茶よね、そう、お茶)
動揺を示すように揺れた水面を隠すように一口飲み込んで時間を稼ぐ。そうしてお茶お茶と脳内で繰り返してばかりで何も言葉にならない私をじっと見ていたレグロは、「んー」とほんのり唇を尖らせて目を伏せた。えっ、何それかわいい。
「ラミラ嬢は、やっぱり普通の貴族令嬢とは違いますね」
「っぅええ!?そ、そんなことありませんわよ!?」
声が盛大に裏返った。
無駄に大きな声だったせいで天井の高い部屋によく響き、ほんのわずかながら残響すら残したその声に、目の前のレグロはもとより壁際に気配を消して控えていた使用人や衛兵たちすら呆気にとられている。気がする。
(きっ、消え去りたい……!)
誰がどう見ても令嬢らしさなどかけらもないだろう。アリシアも、アリシアの友人たちも、みんなきゃっきゃうふふと穏やかに笑っていて大声を上げるなんて有り得ない。しかもちょっとおかしなお嬢様言葉になった気もする。消えたい。
強張った表情のまま、レグロに向けていた視線を外すこともできず硬直する私に、驚きから回復したレグロが柔らかく唇をほころばせた。しょうがないなぁ、とでも言いだしそうなその変化は、別の人物を想起させるくらいそっくりで。
ふっと、安心してしまった。
「はは、ラミラ嬢は本当に素直ですね」
『ふふ、ラミラ様は本当に素敵ですね』
貴族というのは皆似たようなことを言うのだろうかと考えながら、気づかぬうちに力んでいた指先から意識して力を抜き、ゆっくりと息を吸った。
(吐く方を長く)
気づかれているかもしれないけれど、気づかれないように気をつけて深呼吸をして、もう一度改めて視線を上げる。透き通った青色を初めてしっかりと見つめることができた。
「それ、褒めてません、よね」
下手くそな敬語を気にした風もなく、ことりと首を傾げたレグロはゆっくりと一度瞬きをした。
「まぁ褒めてはいませんが、貶してもいませんよ。ただの感想です。……気に障ったのなら申し訳ありません。ですが、せっかくこうして話をする時間を設けたというのにまともに話ができないようでは勿体無いですし、かといって僕もラミラ嬢のような方の緊張を解くのは不慣れなもので」
「それは、こちらこそ気を遣わせてしまって悪……申し訳、ありません」
「もしかして敬語は不慣れですか?」
「………お恥ずかしい限りです」
気にしていないのかと思った矢先に突っ込まれ、さっと頰に朱が走る。いい加減ちゃんと敬語で話せるようにならなければと思っているのだけど、どうにも羞恥が先走るというか、話す内容を考えていると敬語まで意識が回らないというか。
今まではいつも隣にアリシアがいたから、多少敬語がおかしくても目こぼししてもらえたし、敬語がわからなくなってもすぐ隣に完璧なお手本がいたから落ち着いていられた。だけど今も、そしてこれからも、そんな心強い味方がそばにいるという状況ではないことの方が多くなる。苦手だ何だと言って逃げ続けるわけにはいかないだろう。
居心地悪く唇を引き締めたのをどう見てとったのか、口端に笑みを残したままのレグロがぽふりと長椅子の背もたれに背中を預けた。見た目にわかりやすい、気を抜いた姿勢だ。
「では僕に対しては敬語でなくても構いませんよ、婚約者ですしね。と言っても、僕がこのままでは気を使うでしょうから僕も敬語を外しますが、よろしいですか?」
「えっ、ええ。……ありがとうございます」
「はは、こちらこそありがとう。ほら、ラミラ嬢もゆっくりしなよ。どうせ父上たちの話し合いは時間がかかるんだ、いつまでも気を張っていたら疲れてしまう」
「え、ええ……?」
可愛らしい顔と声はそのままに、姿勢だけを崩してのんびりとお茶を口にするレグロをまじまじと見つめる。こんなにあからさまに気を抜いた姿なんて、振りですら見るのは初めてのことだ。以前はいつだって、身だしなみにも言動にも行動にも隙がない、完璧な王子様だったから。いっそ人間味がないくらいに完璧だった。
もしかしたら、以前も見せてもらえていなかっただけで本来の姿はこっちなのかもしれない。
あるいは、私の緊張を解くためにわざと気を抜いたふりをしているのかもしれない。
どちらにしても新鮮な姿であることに間違いはなく―――幼い子供の姿であることも加わってめちゃくちゃ可愛い。えっ、どうしよう、かわいい。いつもユーアがお嬢様可愛い尊い素敵すぎるとか言っているのが全く理解できなかったけれど、今ならその気持ちもわかるかもしれない。それくらい可愛い。すごい。かわいい。
ぼけーっとカップを持ったまま動かずにいたら、音もなくカップを戻したレグロと目が合った。どことなく困っている様子だ。
「な、何か」
「ラミラ嬢が嫌なら断ってもらって良いのだけれど、せっかくこうして時間を設けてもらったことだし、会話ができればいいなと思って」
「会話」
「そう。僕は婚約者殿の人となりが知りたい。……僕との婚約を望んだのは君の母君だと聞いているけれど、君自身は僕には興味ないかな」
そう言ってこちらを伺うような上目遣いをする。なんてあざとい。可愛い。
「興味がないなんて、ありえませんわ!……ごめんなさい、気を遣わせてばかりで。それと、今日のことも本当に、迷惑をかけてごめんなさい」
「今日?」
謝られるようなことがあっただろうかと首を傾げるのに、お母様と共に突撃訪問したことだと申告する。私もお母様に聞かされたのは直前だったとはいえ、適当に言い包めて止めることができなかったのは私の力不足。きっとアリシアだったら、止められていると悟られないくらい自然に訪問を諦めさせることができただろう。つくづく、アリシアとの差を実感して気が滅入る。
……でも私はアリシアにだって欠点はあると思うのよ。そりゃ容姿は極上だし頭もいいし貴族としての振る舞いは完璧だけど、完璧すぎて付け入る隙を与えてくれない。言い方を変えると可愛げがない。ちょっと失敗したとしても自力で誤魔化したり挽回したりできているから、その失敗すらわざとじゃないかとすら思えるもの。
(なんて言うか……踏み込ませてくれないのよね。線を引いている感じ)
それが貴族の友人関係なのかもしれないけれど、残念ながらそれを違和感なく受け入れられるほど、私は貴族になりきれていない。
(きっと、アリシアなら―――)
と、落ちそうになった思考を軽やかな笑い声が遮った。
「あはは、なぁんだ、そんなことを気にしていたのか」
「そんなことって。だって、わたくしは身分としてはこの中でも一番低いし、言葉遣いどころか礼儀作法だってまだまだで……せめて慣例くらいは守るべきでしょう?」
「ふふ、まあその心意気は素晴らしいけれどね。広間での様子を見ていれば君が母君に引き摺られてきたことくらいはわかるし、母君―――時の魔女殿が一国の慣例程度に頓着しないというのも理解している。だから今日の件については君が気にする必要はないよ、みんな分かっているから」
だから気を楽にして良いということだろうけれど、そう言われて、はいそうですかなんてすぐに切り替えるのは無理。だってレグロがそう言ってくれたところで他の人みんなが同じ考えてとは限らないし、そもそもアリシアもユーアも慣例を無視するような行動には難色を示していたから、一般的には受け入れがたいことのはず。
(ああでも、王族の言葉を突っぱねるのも良くなさそう……ううう、正解がわからない)
むぐむぐと言葉を続けられずに唇をひくつかせる。難しい。貴族の会話は本当に、難しい。
「気にしないでと言われても気にするかな。うーん……それじゃあ話を変えよう。初対面だからやはり趣味とか好きなものとかでどうかな。ラミラ嬢が僕に何か聞きたいことがあるならそれでも良いよ」
「え」
聞きたいこと?
また気を遣わせていると落ち込むより先にその誘惑に耳を大きくしてしまった。
まずは無難に好きな色とか好きな食べ物飲み物動物植物季節と天気お気に入りの場所があるならそれも聞きたいあと思い出の場所とかあるなら聞いてみたいし良く利用しているブティックとか気に入っているお店があるならそれも知りたいもちろん普段何をしているのかも教えてもらえるなら教えて欲しいけどやっぱり何よりもどういう女性が好きかっていうのが一番気になる。
一拍の間に脳内を駆け巡った煩悩を振り払い、一度強く目を瞑った。
「しゅ……趣味は」
「最近は翻訳本の読み比べかな。西大陸の言語をある程度読めるようになったから、原本を取り寄せて自分で訳してみたり色々な訳者の解釈を比較したりしてる」
「へ、へえー」
いきなりなんか別世界の話が出てきた。
えっ、西大陸?言語体系が全く違う西大陸の言語を覚える必要があるの??しかもそれを趣味ってどういうこと?ちょっと私の頭では理解が追いつかない。
「北方諸国も文化が違ってまた面白いけれどね」
「北方……ごめんなさい、わたくし、あまり外国のことは詳しくなくて」
「そうなんだ?時の魔女には国境なんて関係ないと聞いていたから、てっきり色々な国に行ったことがあるのだと思っていた」
「そういう魔女も多いけれど、わたくしはあまり。おか……母がずっと眠ったままだったから、放置して遠出するわけにもいかなくて」
「ああそういえば、母君が眠っていたからなかなか顔合わせもできなかったと聞いていたな。そうか、ラミラ嬢がずっと母君のそばに付いていたんだね」
「ええ。最近はオルティス伯爵がお手伝いを手配してくださったから、以前よりは母を見ている時間も少なくなっていたけれど」
まぁ、本当に寝ているだけだったから放置していても問題なかったと思う。普通の昏睡状態だったら食事とか、あとは筋肉が衰えないように定期的に動かしたりとか?そういうのが必要だったのだろうけれど、お母様の場合は眠りについた時のまま時間が止まっている状態だったから、食事などは何一つ必要なかった。普通に一晩寝ただけとでも言うかのごとく、本当に普通に起きてきたもの。
そう。あくび混じりに起きてきたと思ったら、「よーしラミラ、明日婚約者に会いに行くわよー」とか言い出したのよね……。うっかり寝言は寝て言えと返しそうになったわ。
つい先日のことを思い出して目が据わりそうになった。
「でもひとりで遠出をするのは少し怖かったから……あといろいろ勉強することもあったし」
「そういえばライムンドから聞いたけれど、家庭教師がついているんだってね。ごめんね、本当なら王家が手配をするはずだったのだけど、母君からは突然連絡がこなくなったし、君たちがどこに住んでいるのかは僕らにも秘匿されていたからこちらから連絡も取れなくて」
「何から何まで、母がご迷惑をおかけしております……」
それってつまり毎回お母様からの一方的な連絡だったということかしら…。
私とレグロの婚約を取り付けるために王宮とやりとりしていたのは予想していたけれど、まさかそんな一方的なものだったとは思いもしなかった。今日の非礼が通常運転だったとか衝撃が過ぎる。
頭を抱えそうになるのを堪えながら代わりに深々と頭を下げ、欠片も悪いと思っていないであろう母に代わって胃痛を引き受ける。家に帰ったら文句を言おう。
「ふふ、気にしなくていいって。そんなことより、ほら、他に聞きたいことはある?」
「それじゃあ……」
でもその前に、お礼を言ったほうが良いかもしれない。
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