英雄のジオラマ
げんまえび
1日目
行商のパブロが来ない。
燦々と太陽の降り注ぐ午後。大きく広い窓の外に広がる自前の小さな家庭菜園を眺めながら、俺はため息をついた。時刻は午後2時。パブロの到着を待ち始めて、3日目の昼になる。
そろそろ観念して、自分から動き出す頃合いなのかもしれない。来ないものを来ないと嘆いて待っているだけではどうにもならないし、とにかく一度、麓の村まで降りてみよう。
そう考えた俺は、玄関先に掛けられていた外套と帽子を手早く身に付けると、普段から荷造りして置いてある旅立ち用のリュックを背負った。外に出ると、心地よい風が森の空気を纏って吹き抜ける。帽子が飛ばされないように、もう一度深く被り直して、荘厳たる山岳地帯の丘陵を、俺は一人、麓の村へ向けて歩き出した。
季節はいよいよ秋口に差し掛かり、見慣れた山林はそろそろ葉を落とし始めて、冬の準備にかかる頃である。村に向かって伸びている唯一の道にも落ち葉が敷かれ始めていて、注意を払って歩かなければ道を見失いそうな様相だった。道を踏み締めるたびに鳴る、乾燥した葉が砕かれるパリパリとした音を楽しみながら、ゆっくりと前へ進む。
村に下りて日用品を調達したら、戻りがてら道の整備をすべきかもしれない。なんせ、月に一度の割合で家を訪ねてくれる行商のパブロを除けば、この道を使って村と家とを行き来するのは俺しかいないのだ。したがって、この道がなくなって一番困るのは俺なわけで、整備をする必要があるのも俺だけなのである。
忙しくなるなぁとこれからの予定に想いを馳せながら、歩くこと1時間ほど経った頃だったろうか。視界の先に、人影が現れた。まだ豆粒ほどの大きさだが、この道を使ってこの山を登って来る人間なんて限られている。
ゆっくりとした足取りで、こちらに向かって歩いて来るその姿に、俺は思わず声を上げた。
「パブロー!お前、遅すぎだぞー!」
人影が、歩みを止めた。
そのまま動かなくなってしまった人影に、俺は首を傾げる。
パブロの奴、一体何を立ち止まっているのだろうか。
筋骨隆々とはいかないまでも、しっかりと筋肉のついた足腰が自慢で、二言目には「俺は行商人だからな。」が口癖のパブロにとって、この山の踏破は一つの武勇伝だ。周辺の山々の中では一等険しく、旅人でも迂回する山岳。パブロが、その頂上近くに居を構える俺を顧客として受け入れたのは、一重に自身のプライドが故だった。数いる行商人の中でもパブロだけが、この急勾配を乗り越えて、家に商品を届けてくれる。だから、この山道を上がって来るのはパブロ以外にいないのである。
妙に思いながらも、俺は声を張り上げながらどんどんと人影へ向かって歩みを進める。
「約束から3日過ぎてるぞー!何かあったのかー!」
そうしてだんだんと距離が近づいて、顔が識別できるほどになって、俺は思わず足を止めた。
「パブロじゃない……?」
そこにいたのは、見知らぬ男だった。煤けた服にマントを纏っているが、そこかしこが破れたり解れたりしていて、そこだけ見ればまるで浮浪者のような出立である。ただ、燦々と降り注ぐ太陽を照り返す臙脂色の髪が、青々と広がる山林の中で一つ、光り輝いていた。
「夢ではないのか。」
男が口を開く。何を言っているのかよく分からない。
男は数度瞼を瞬かせて、何度も何度も俺の姿に目を凝らす。山間を抜けていく強風に、彼の纏っていたマントがバサリと音を立てて翻った。チラリと、腰に帯びた剣が見える。すぐに風は収まって、マントは再び彼の体を覆ってしまったが、一瞬だけ見えた剣の鞘がやけに汚れていたことを考えれば、彼はどうやら戦闘を生業にしている類の人であるらしかった。
「えっと。」
ここで見つめ合っていても仕方がないと、俺は口を開く。
「麓の村から来られたんですか?俺、この上に住んでて……。」
「こんなところに人がいるなんて……。」
会話が噛み合わない。
呆然とした様子で、男が歩み寄って来る。
「あー、そうですよね。びっくりしますよね、こんな山奥で他の人に会うと。でもここも住めば都っていうか、結構住み良い感じで。えーっと……。」
そのままこちらへと詰め寄ってきた男は、両手で力強く俺の腕を掴むと、勢いよく倒れ込んできた。突然のことに踏ん張る準備もできなくて、俺も男と一緒に地面に尻餅をついた。
「えっ、何!?重っ!重い!お兄さん何!?」
パニックになって声を上げるが、男はピクリとも動かない。初めは野盗か不審者の類に襲われたのかと思ったが、どうにも男の様子はそれと違ってどうもおかしい。ジタバタと動かしていた体を止めて、男の顔を覗き込んでみる。
男は死んだように目を閉じていた。そして、微かに聞こえて来る呼吸の音。
「スー……。」
「寝てんじゃねぇか!ちょっとお兄さん!こんなトコで寝ないでお願い!俺、用事があんだって……頼むよ……!!」
俺も鬼じゃない。見知らぬ不審者とはいえ、行き倒れた人を放置して村に降りるなんて、そんな寝覚めの悪いことできるはずないじゃないか。この山は一応山らしく、獣とか出るのだ。
騒いでも叫んでも起きない男の安らかな寝顔を前にして、俺は思わず天を仰いだ。
連れて帰るか……。
片道1時間の道のりを、今度は男を背負いながら引き返す。倍以上の時間をかけて辿り着いた我が家は、出た時と同様、山林の中にちんまりと佇んでいた。鍵の掛かっていない木造りのドアを乱暴に蹴り開けて、俺は家の中へと入る。負ぶった男をなんとか両の手で支えながら玄関で靴を脱ぎ、粗末なリビングを抜けて狭い寝室へと向かう。踏んだ床がギィギィと嫌な音を立てるが、今はそれに構っている暇はない。最低限、踏み抜かないようにだけ注意しながら、俺は男をベッドへと寝かせた。
「ちょと失礼しますよ。」
すやすやと眠っている男の腰に手を回して剣を外す。そして、寝苦しくないように外套の前ボタンを外して、彼が起きないようにそっと脱がせた。襤褸の外套の下から現れたのは、それはもう美しい刺繍の施された立派な装束で、俺は思わず息を飲む。
竜の皮を鞣したジャケットに、妖精の紡いだ綿で織られたシャツ。初めに目を奪われた刺繍は、おそらくエルフによる意匠だ。彼の身につけている全てが、希少価値の高い、高価なものばかり。だが同時に、その全てが酷く汚れて、焦げて、所々破けていた。
さて、彼は一体何者なのだろうか。ただの冒険者が、こんな立派な身なりをしているはずがない。
何かの理由で家を飛び出してきた貴族か、それとも対魔戦線に嫌気が差して脱走してきた騎士か、もっとそれ以外の何かなのか。まあ何にせよ、厄介ごとには変わりない。
服と同じように煤けてしまった顔を、せめて濡れた布で拭ってやろうと思った俺は、彼の腰から取り上げた剣を壁へと立てかけると、ゆっくりと物音を立てないように寝室から出た。
家の裏に流れている湧水を桶で汲んで戻って来ると、男は目を開けてベッドから体を起こしていた。扉を開けて現れた俺を、不思議そうに見る。
「あ、よかった。起きたんですね。」
「ここは……?」
「俺の家。とりあえず、まだ寝てて下さい。これで顔拭いて。」
事態が把握できずに目を白黒させている男の前に、水に浸して固く絞った布を差し出す。おずおずと受け取った男は、そのひんやりと冷たい手触りに目尻を下げる。少し緊張が解れたようだった。
男が座るベッドの横に、リビングから持ってきた椅子を置いて準備完了。俺はそこに座ると、改めて男の方へと向き直った。
「で、お兄さんはなんでこの山へ?何か用があって来たんですか?」
「驚かせてしまって悪かった。まさか、こんなところに人がいるとは思わなかったんだ。」
「確かに、滅多なことではこの山に人は踏み入らない。普通はこの山を迂回する地道を通るからな。ってことは、お兄さんは迷子ってわけじゃないんだな?」
「君は、この山に住んでいるのか?1人で?」
「んんんー!」
要領を得ない男の返事に、俺は思わず唸り声を上げる。この男、聞いていることに答えやしない。どうしたものかと頭を抱えて、そしてふと思い当たった。
よし、喋ろう。
どうにも悪い人には見えないし、俺の身の上を喋れば、そのうち彼も事情を話してくれるかもしれない。もし、万が一、この男がそれでも事情を明かさなかった時は、問答無用で家から放り出せばいいのだ。目が覚めた以上、俺が面倒を見てやる義理もないし。
「俺の名前はマルク・ルロワ。画家だよ。もともとは王都に住んでたんだけど、数年前にこの山に引っ越して来たんだ。だから、ここに住んでるのは俺一人。険しい山だから、用事のない人は誰も上がってこないし、俺も用事がなければ山を下りない。悠々自適のスローライフだ。」
「マルク……。そうか、君はずっと山にいたのか。」
「ん?」
男の妙な言い回しが引っかかって、俺は眉を寄せた。男は俺の不審そうな眼差しに気がついて姿勢を正すと、今までの胡乱な態度が嘘のように、真摯な瞳でこちらを見る。
「失礼しました。俺はロバート。ロバート・ラッセルです。この度は行き倒れていたところを助けていただき、大変ありがとうございました。」
急に殊勝な態度で謝辞を述べ始める彼に、俺はたじろいだ。
「いいって、いいって。別に大したことしてないよ。それでその……、聞いてもいいかな。」
「はい、なんなりと。」
「ラッセルさんは、どうしてそんな格好でこの山に来たんですか?」
そんな格好、という言葉にラッセルさんは自分の服を見て、たった今顔を拭ったばかりの濡れ布に目をやった。真っ白だったはずの布は、埃と泥で茶色に変わっている。ボロ切れのようになった己の外套がベッドの脇に落ちているのを見つけて、ラッセルさんはため息をついた。
「実は、仕事で失敗して……。取り返しのつかないミスをしてしまったんです。それで……。」
「逃げて来たんだ?」
「はい。それで、相談なのですが。」
ラッセルさんの歯切れの悪い言葉に、何だか嫌な予感がした俺は、ヒッと短い悲鳴を上げて席を立つ。言われる前に断ってやろうと、俺の口から「ダメです!」の言葉が出る前に、ラッセルさんが捨てられた子犬のような表情でこちらを見上げた。
彼の寂しげな顔を見てしまった俺の喉が張り付く。その一瞬の隙をついて、ラッセルさんが言った。
「ここに俺を置いてください!力仕事はできます。家事も、自信はありませんが一通りは出来るつもりです。身辺警護と、あと魔獣狩りなどは得意です。」
「待って待って待って。ダメなんだ。」
詰め寄って来るラッセルさんを、心を鬼にして跳ね除けると、ラッセルさんはしょぼくれたトドのような顔をして
「ダメですか……。」
と俯いてしまった。その哀愁漂う姿に心を打たれて、俺は思わず言葉を重ねて弁解する。
「ラッセルさんがダメとかそういうのではなくて、ここはもうすぐ食料がなくなるんです。」
俺の言葉を聞いて、顔を上げたラッセルさんだったが、何故か彼の表情が険しい。
「食料がなくなるとは、どういうことです?」
「月に一度、行商が食料と日用品を持って来てくれるはずなんですけど、今月はどういうワケか、約束の日になってもやって来ないんです。このままじゃ、家の備蓄はあと4日ほどで底をつく。だから、ラッセルさんを家に置くどころの話ではなくて、俺も一度山を下りなければいけないんです。」
「それはダメです。」
ラッセルさんの強い否定の言葉が室内に響く。彼は硬い表情のまま、縋るようにこちらを見つめている。
「ダメって、どういうことですか。」
「いや……、村へ至る道は危険で……。そう、ここに来る途中で大きなワイバーンの巣を見かけたので、今下りるのは危険だと思うんです。」
「あー、言われてみれば今は繁殖期か。」
茜飛龍は秋の初めごろに番い、冬に向けて新しい巣を作る習性がある。今年は、人踏み入らぬこの山を見初めて、新たな棲家の準備をしているのだろう。村と家との往復ルートを潰されたこちらにしてみれば業腹なことこの上ないが、これもまた自然と共に生きる上では仕方ないことである。
「確かに、繁殖中の飛龍の巣に近づくのはやめた方がいいな。」
「でしょう。でしょう。」
ラッセルさんが首振り人形のように頷く。
「かと言って、食料がないことには変わりないし……。」
うんうんと首を捻っていると、一つの妙案が頭の中に閃いた。
「あ、じゃあ、ラッセルさんが俺の護衛をしてくださいよ。身辺警護と魔獣狩りが得意だって、さっき言ってましたよね。」
「ええっ!?」
どこにそんな驚く要素があった?そう問いただしたくなるオーバーリアクションでラッセルさんが仰反ると、しばらく戸惑うように虚空を見つめた後、唐突に「いたたたた!」と足を押さえて痛がり始めた。
「突然足が痛い!」
「突然足が痛い!?」
「知らない間に山中で足を捻ってしまったようです!とても痛い!これではルロアさんを護衛することなど満足にできそうもない!」
「た、大変だ。すぐに村に行ってお医者さんを呼んでこないと。」
「あ、治りましたね。すっかり元気です。」
「治っちゃったか。」
「はい、治りました。ですがしかし、いつ再発するとも分かりませんし、こんな状態でワイバーンからルロワさんを守るなんて、とてもではないけど言い切れません。ですので、村に下りるのは諦めましょう。ね。」
「はー……。」
そんな言い訳が通用するか、と思いつつも、どこか彼の必死さを尊重してあげたい自分もいて、これだから他人というのは厄介である。俺は大きくため息をついて、もう一度、ベッドの上から必死でこちらを見上げて来る男を、片目でチラリと見る。
悪い人ではなさそうだ。
話の内容と、彼の服装には齟齬があるが、悪意は感じ取れない。
「なんか、訳があるんだな?」
「はい。」
「そして、それを俺には言えない。」
「……そうです。」
夕方の紫陽花のように俯いてしまった彼は、ギュッと強く両手でシーツを握りしめた。
山奥に篭って早4年。会う人といえばパウロだけ。それも月に1回、2時間ほどで帰っていくわけだから、人との交流はほぼ無かったに等しい。そんな孤高の4年間で、俺は随分と、他人との関わり方を忘れてしまったようだ。捨て猫を拾って来てはいけないし、怪しい人を家に上げてはいけなかったというのに。
「1週間だ。」
「えっ。」
向日葵のように、ラッセルが顔を上げる。
「備蓄してる食料が残り4日分。これに外で育ててる野菜を足して1週間。最長でもこれだけしか保たない。1週間待って、その間に行商人が来なければ、俺は1度山を下りる。これ以上は譲歩できないよ。」
「そう……、ですね。はい。今は、それで。」
なんだか今「1週間後にまた考えればいいや。」って副音声が聞こえた気がした。一体彼がどういう理由で、俺を麓の村へと行かせたくないのか、未だ以って理由は全く分からないが、結局のところ彼を家に置くと決めたのは俺だ。ならば、やるべきことが沢山ある。
「よし、そうと決まれば、とにかく日があるうちに畑に行くか!ラッセルさんはどうする?もうちょっと寝てる?」
「いや、一緒に行きます。家主ばかりを働かせるわけにはいかないです。」
「正直、来てくれると助かります。男2人分の野菜って結構な量を収穫しなきゃだしねぇ。」
はて、今日採れそうな野菜は何があっただろうか。秋だからなぁと畑の様子を思い浮かべていると、ベッドから降りて床に足をつけたラッセルさんが、物言いたげにこちらを見ているのに気がついた。
「どうしました?」
「どうぞ、俺のことはロバートと呼んでください。何も事情を話さない男を、何も聞かずに家に置いてくれる人に、姓で呼ばせるのは忍びない。」
「気にしなくてもいいのに。でもまあ、考えてみれば、しばらく一緒に暮らすのに、ファミリーネームと敬語じゃ、肩が凝って仕方ないかも。じゃあ、俺のこともマルクで。これからよろしく、ロバート。」
「ああ。ありがとう、マルク。」
差し出された手をガッチリ握って、固い握手を交わす。
小さな扉をくぐって外へ出ると、山は相変わらず、親しげな顔で俺を出迎えてくれる。木立ちが秋風に吹かれて爽やかな音を立て、夏に比べると幾分か柔らかくなった日差しは、岩陰をじっと伸ばしながら照る。木の葉が数枚、目の前を通り過ぎて空へと舞い上がった。
「すっかり秋だなぁ。」
眼前に広がる自前の畑を見渡しながら、俺は季節の移り変わりに目を楽しませる。そうこうしているうちに冬がやって来て、気がついたら春が訪れ、またあっという間に夏になる。これだから、山の人間は忙しい。
体を屈めて扉をくぐったロバートが、俺の隣に立つ。山の眩しさに目を細めた彼は、しかし、じっとどこか遠いところを眺めているように見える。
「山頂からは、下の様子が見えるものとばかり思ってた。」
心ここにあらずといった様子で、ロバートが呟く。
彼の言う、「下」というのは村のことだろうか。
「この山はいくつか連なってる連峰の中の1つで、村にいく道も、こう……。」
指先で、虚空に線を描く。まるでラクダのコブのように、曲線が幾度も波打っているような形。
「小さいながらに何回か隆起していて、地図で見るよりも村までの距離が長いから、ここから村は見えないんだ。んで、村を挟んですぐ反対側にもまた山があるだろ。ここから見える、あれ。」
真っ直ぐに指を指すと、ロバートがその先を視線で辿る。眼前に聳え立つ緑の壁。
「あれが邪魔して、その向こうにある街は見えない。見えれば絶景だったろうと思うけどねー。そうなれば、ここは観光スポットになってて、俺は住めなかったんだけどさ。」
「そうか。」
彼はじっと、見えるはずのない村の方から視線を外さない。山間を吹き抜けていく強風が、ロバートの臙脂色の髪を、音をたてて煽った。風に紛れた木の葉のカケラが頬に当たって、その微かな痛みに、俺は思わず目を瞑る。
強風が鼓膜を打ち付ける音を聞きながら、俺はふと、そういえば最近鳥の声が聞こえないなんて、そんなどうでもいいことを考えていた。
「とりあえず火急の問題として、ベッドがない。」
夕食を食べ終わった後の皿を片付けながら、ロバートは目を丸くしてこちらを見た。ロバートがもともと着ていた、薄汚れて擦り切れていた服は、先ほど着替えて一応洗って干している。今彼が来ているのは俺の服で、心なしかズボンの丈が短い。ちょっと傷つく。
リビングの小さな食卓机に頬杖をついていた俺は、彼の視線を受けて思わずたじろいだ。
「床で寝るよ。毛布はある?」
「ブランケットみたいな、薄いやつなら1枚ある。お昼寝に使うやつ。」
「じゃあそれでいい。俺はリビングの床で寝るから、マルクは気にせずに寝室を使ってくれ。」
何でもないように提案するロバートの笑顔に圧されて、俺は一も二もなく頷いた。もともとロバートは客ではないし、必要以上にもてなすつもりもなかったが、こうも言い切られてしまうと、それはそれで罪悪感が湧いて来る。
頷いた顔が微妙に硬っていたのか、俺の戸惑いを察したロバートが、困ったように微笑んだ。
「もともと野宿は慣れてるから、気にしないで。」
「慣れてるんだ……?」
「ずっと旅をしていたんだ。人生の半分くらいは野宿だったんじゃないかな。あんまりベッドで寝た記憶がない。」
「冒険者?」
「うん、そうだ。」
嘘だ。ロバートの服装は、冒険者の稼ぎで買えるようなものではない。どちらかといえば貴族の次男坊で、前線に送り込まれるのが嫌で尻を捲って逃げてきたと言われる方が納得できる。とてもではないが、定住せずに移動を繰り返す旅人の身なりではないのだ。
だが、今はその話に乗ってやる。そうでもしないと、彼の人となりすら掴めそうになかった。
「じゃあ、冒険者として雇われた仕事で失敗したの?何したんだ。」
「ちょっと色々とねぇ。」
皿を片付け終わったロバートが俺の正面に座る。
「マルクはどうしてこの山に住んでるんだい?」
「仕事がしやすいから。」
あっけらかんと言い放つ俺の言葉を聞いて、何が面白いのかロバートはクスクスと笑い声を漏らした。
「画家だっけ?」
「そう。ここをアトリエにして、もう4年になる。この家も、もともとは避暑用のコテージとして作られたんだけど、山が険しすぎて誰も買い手がつかなくて、放置されていたところを格安で買ったんだ。来た当初は大変だったな。片付けと草むしりから始まって、絵を描くどころじゃなかった。」
「山を描いているのか?俺は絵に明るくないけど、風景画が専門ってことなのかな。」
「うん、まあそんなとこ。適当に、好きなもんを描いてる。」
「羨ましいな。」
何が羨ましいのだろうか。言葉の意図が分からなくて、不愉快だった。麓の村で聞いた話によると、山に篭って絵を描く俺のことを、村人は皆「極楽とんぼ」と指差して笑うらしい。人との付き合いを断ち、世を捨てて、己がしたいことにのみ打ち込む生活を、誰もが妬みながらも見下しているのだそうだ。この男も、そういった類の人間なのだろうか。
「俺、もう仕事に戻るわ。」
そう言って席を立つ。これ以上彼と話していると、酷く下劣なことを口にしてしまいそうだった。
「寝室の方で絵の続きを描くから、ロバートは勝手に寝てくれ。毛布は後で持って来る。リビングにあるものは自由に使ってくれていいから、絵の邪魔だけはしないでくれよ。」
「わかった。おやすみ。」
穏やかに頷くロバートには返事せず、俺は腰を上げる。そうして一言も挨拶を交わさずに、寝室の扉を閉めたのだった。
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