うみべのおうち

ささなみ

うみべのおうち

「この家は、昔は『海』にあったそうです」

 そう話すと、その人は微かな微笑みを浮かべて言った。

「ずっと東に行けば、今も『海』があるんだよ」

 そう教えてくれた人は、東へ向かったきり帰ってこなかった。



 今日も夜が来た。わたしは胸に分厚い本とガラスボウルを抱え、肩から水筒を提げて玄関に向かう。

 玄関の扉を開ければ、そこには今日も見渡す限り一面の砂の海が広がっている。

 東の空には月クラゲが浮かんでいて、星屑が降り注いだ後の白い砂をあかるく照らしている。遠くのほうには砂漠ジラさばクジラが悠々と泳いでいるのが見える。

 何だか目が潤んで、ぱちぱちと目を瞬いた。もう見慣れた風景に、なぜこれほど胸を締め付けられるのだろう。

「テュルト」

 足元に向かってそうっと呼びかけると、テュルトはすぐに立ち止まった。テュルトがしゃがむのを待って、わたしも腰を下ろす。本を脇に置き、水筒に入れた飲み物をガラスのボウルに注ぐ。あたたかな色の液体が、ボウルの底にとろりと広がっていく。焼いて削った琥珀の粉を溶かして、星を散らした星屑ダージリン。

「はい、どうぞ」

__ありがとう。

 テュルトがモソモソとお礼を言った。皺だらけの首を器用に伸ばしてボウルをくわえ、一滴も溢すことなく地面の上に置く。


 テュルトというのは亀だ。テュルトの甲羅は優に十メートルはあって、わたしはその上に建つ家に住んでいた。物心ついたころにはわたしはテュルトの上に住んでいて、家族の顔すら忘れるほどの長い年月を、テュルトと二人で過ごしてきた。

 昔はこの家で喫茶店を開いていたこともあるが、今ではわたし以外の人間に出会うこともほとんどなく、いつしかただの家になった。

 コップに自分のぶんの紅茶を注ぐ。

「テュルト、まだ海には着かないの?」

 テュルトは首を捻って私を見て、ヴォオオと鳴いてみせる。

「まだまだなんだよね。分かってるよ」

 わたしは笑ってテュルトの甲羅を撫でる。甘い香りの紅茶をひと口啜ると、夜気に触れて冷えた体が芯からあたたまっていくのがわかった。

 月クラゲが、だんだん東のほうへと沈んでいくのを二人で眺める。こうして東のほうを見ていると、たまにどうしようもなく悲しい気持ちになる。

 ずっと『海』を、この一面の砂に代わる水を、探している。そんな気持ちに取り憑かれている。

 わたしはまだ、海を見たことがない。


 この世界には、『夏』が来ない。あるときまでは『海』もないと信じていた。

 どこまで行っても一面の砂の世界で、わたしとテュルトは__正確に言うとテュルトだけだけど__一日も休むことなく東に向かって歩く。

 東へ東へとずっと歩いていけば、海に辿り着くと教えてもらった。東からは太陽が昇ってくる。そのはじまりの場所には、きっと海がある。


 『海』がまだ存在していることを教えてくれたのは、喫茶店の常連だった男の人だった。わたしとテュルトしかいないかのようなこの一面の砂世界の中では、たまにふらりと喫茶店を訪れる彼だけが、家族を喪って久しいわたしにとって唯一の『人間』だった。

「××さんは、『海』を見たことはありますか?」

 もう名前も思い出せない彼に、ある日そう尋ねたことがあった。

「いや、ないね。アロマさんは?」

 カウンターで流星群珈琲を飲んでいた彼は、カップを口に運ぶ手を止め、両手を膝の上に置いた。

「ないです。けど、この家は__テュルトは、昔は『海』にいたそうです」

 わたしはそのとき砂漠ジラの砂糖吹きから手に入れたお砂糖を瓶に詰め替えていた。きらきらと瓶に落ちていく砂糖の滝の向こうで、あの人が微かな笑みを浮かべるのが見えた。

「ずっと東に行けば、今も『海』があるんだよ。テュルトを連れて行ってあげたらどうだい」

 そう教えてくれたあの人は、あるとき東へ向かうと言って姿を消したきり、待てど暮らせど帰ってこなかった。


 あの人がいなくなって、どれほどの時が経っただろう。

「ねぇ、テュルト」

 わたしは毎晩家の外に出て、テュルトと話すのが日課だった。その日も甲羅の上でうつ伏せに寝転び、頬杖をついてテュルトに呼びかけた。

「東には、本当にまだ『海』があるのかな?」

 わたしは『テュルトを連れて行ってあげたらどうだい』という、いつかのあの人の言葉を思い出していた。テュルトは砂の上に横たえていた首をもたげて、じっ、とわたしの目を見詰めた。

「行ってみたい?」

 テュルトは静かに頷いた。

__アロマは?

「『海』は見てみたい。わたしは『夏』も知らないんだよ」

 テュルトがおもむろに立ち上がった。

「テュルト、どうしたの?」

 面食らうわたしに、テュルトはヴォオオと鳴いてみせた。

__東へ行こう。海を探しに。

 そうして、わたしとテュルトの長い長い旅が始まった。


 毎晩外に出て、テュルトと話すことは欠かさなかった。テュルトの甲羅の上は、家の中と同じくらい居心地が良いのだった。

 テュルトは少しずつ、海にいた仲間の話をしてくれた。砂漠ジラにそっくりなクジラという生き物の話はとても珍しく、わたしは何度でもその話をせがんだ。

 わたしはよく甲羅の上に寝そべったまま眠ってしまい、そのたびにテュルトは巨大な身体を優しく揺すって起こしてくれた。

 家にある本の中から、テュルトに物語を読んで聞かせることもあった。何かを探したり、追いかけて旅に出る話が多かった。わたしはそれらの物語に、密かに自分を重ね合わせた。テュルトが特によく聞きたがる物語は、昔々まだ夏があったころ、へんてこな家に住んでいた女の子の話だった。


 昔々、まだ夏があったころ。あるところに女の子がいました。

 女の子は家族と一緒に砂のおうちに住んでいて、たくさんの観葉植物に囲まれていました。女の子は幸せでした。

 しかし、砂でできたおうちは、長い年月の間に少しずつ、少しずつ崩れていきます。


『海辺の街は過疎化しないんだよ』


 女の子の父親は、口癖のように女の子に言って聞かせました。

 女の子は、お父さんとお母さんと一緒に、毎晩あったかい紅茶を飲んで眠りに就きます。


 そんなある日、お父さんがいなくなりました。


『お父さんは海辺の街を探しに行ったのよ』


 お母さんは女の子にそう言って聞かせました。本当は死んでお星さまになったのですが、まだ小さい女の子には本当のことは黙っていようと考えたのです。


 夏が来ると、砂のおうちはとてつもなく熱くなりました。女の子とお母さんは観葉植物のひんやりした葉っぱに体をくっつけて、暑い夏を過ごします。

 来る日もくる日もそうして過ごすうち、ついにお母さんが暑さのあまり倒れてしまいます。


『海辺の街に住んでいれば……』


 お母さんは女の子にそう言って、静かに息を引き取りました。


 女の子は一人になってしまいました。砂のおうちは日に日にやせ細り、たくさんあった植物も、おうちに入りきらずにお別れしていきます。


 ある日、おうちのすぐ傍で、砂漠ジラがざぱん、とブリーチングをしました。

 小さく小さくなっていた砂のおうちは、ひとたまりもなく吹き飛ばされてしまいました。


 とうとう家もなくなった女の子の傍には、鉢植えの観葉植物が一つだけ。

 女の子はその植物と一緒に、海を探す旅に出るのでした。


「この子も海を探しに行ったのよ。わたしたちと一緒ね」

 見つけられたのかしら、と心配そうに呟くと、テュルトは首を伸ばし、安心させるように頬ずりをしてくれるのだった。


 来る日も来る日も同じ景色が続き、旅に出てから何日経ったのかもわからなくなってきたころ、テュルトに異変が起き始めた。

 しょっちゅうくしゃみが出るようになり、すぐに立ち止まっては目をしょぼしょぼさせるようになった。

「テュルト、大丈夫? 休みましょうよ」

 不安になったわたしがそう提案しても、テュルトは首を横に振り、休むことなく歩き続けた。

 そうしているうちに、今度は首が赤くなって、あかぎれができた。わたしは休まず歩き続けるテュルトのために軟膏を作って、あかぎれに塗ってあげた。テュルトは気持ち良さそうに目を細め、心なしか足取りも軽くなったような気がした。

 しかしそれは所詮その場しのぎでしかなく、くしゃみも目も首も、症状が治まることはなかった。

「ねぇテュルト、お願いだから休みましょうよ」

 首に薬を塗りこみながら懇願するわたしに優しく頬ずりして、テュルトはヴォオオと鳴いた。

__いいんだよ。私はとても長生きをしたからね。

 もう、充分に生きたのだ。その慈愛を湛えた目が語っていた。

「もういいよ、歩かなくていいよ」

 わたしは必死でテュルトに訴えた。それでもテュルトは歩き続けた。

__力尽きるまでに、海へ還りたいんだ。

 くしゃみで鼻をグズグズさせながらも、テュルトの決心は揺るがなかった。


 ある晩、テュルトの剥がれた甲羅を元通りに貼り付けていると、月クラゲが地平線に沈むときのような、細やかに伸びていくザザーッという音が微かに耳に届いた。月クラゲはまだ空高く昇っているのにいったい何の音だろうと不思議に思っていると、テュルトがピクリと首を竦めて立ち止まった。

「どうしたの?」

__海の音がする。

 テュルトが囁くように言った。

「えっ?」

 半ば悲鳴のように声を上げて、わたしは甲羅の上で跳び上がった。

「どこ? どこなの?」

__もうすぐ、すぐ近くだよ。

 テュルトは穏やかに囁いた。一歩一歩踏みしめるように歩を進める。わたしは息を潜め、近づいてくる『海』を待った。


 『それ』は、白くあかるい砂の向こうに、黒くあかるく広がっていた。少しずつ、少しずつ姿をあらわしてくる『それ』は、星屑をめいっぱいに撒き散らしたみたいにきらきらと輝いていて、絶えず細やかな音色を発し続けていた。

「……『海』なの?」

 わたしは恐る恐るテュルトに耳打ちした。

__海だよ。私が生まれた場所だ。

 テュルトは前足をそっと海に浸した。ちゃぷん、と小さな音がした。ふうと安心したような息をついて、上半身を海の上に横たえる。

__ああ、懐かしいな。生き返るようだ。

 ちゃぷちゃぷちゃぷ、と小さくかわいらしい音が幾重にも折り重なり、遠くの海の音と合わさり伸びていった。

 ふと顔を上げると、少し向こうの海辺に白い建物が立ち並んでいた。『海辺の街は過疎化しないんだよ』__物語の中のお父さんのセリフが蘇った。

 涙が溢れた。良かったね、テュルト。ありがとう、テュルト。言葉にならないまま、泣きながらその首や甲羅をめちゃくちゃに撫でた。テュルトは優しく、いつものように頬ずりをしてわたしの涙を拭ってくれた。


 わたしはテュルトと一緒になって鼻水をズルズルさせながら、今まで読んだ物語を二人で一緒に読んだ。すべての物語を読み終えるのには、丸三日を要した。

 物語が終わると、テュルトは満足気にヴォオオと喉を鳴らして、わたしに頬ずりをした。そしてまた、海の上にそっと身を横たえた。

 気持ち良さそうに前足を伸ばして、

__アロマ、夏の匂いがするよ。

と呟いて目を閉じた。


 それきりだった。わたしが何度名前を呼んでも甲羅を叩いても、テュルトはもう目を開けることはなかった。

 わたしは涙が枯れるまで泣いた。泣きすぎて、海の水が涙と同じ味になってしまったころにようやく、わたしは泣くのをやめた。涙と風と砂と、乾いた甲羅の匂いがした。

 テュルトが眠るように死んでから三日目に、わたしは白い建物を訪ねてまわった。建物には人っ子一人いなかった。

「海辺の街は過疎化しないなんて嘘じゃない」、わたしは小さく呟いた。

 わたしはまた毎晩甲羅の上に出て、星屑紅茶を飲みながら物語を朗読することを日課にした。

 やがて海の上に眩しい球体が昇り、海をギラギラと照らすようになった。星が星屑にならずにそのまま落ちてしまったみたいな輝きで、テュルトの甲羅はあたたかくなるのを通り越して熱くなった。

 さらに月日が経つと、テュルトの甲羅からはさまざまな植物が生えた。アグラオネマ、ガジュマル、シダ植物、ポトス、マングローブ、椰子の木。優しく柔らかな甲羅の上に、ありとあらゆる観葉植物が生えた。

 いつまで経っても、白い建物に人間が戻ってくるような気配はちっともなかったが、もう長いこと誰にも会っていなかったので、半分どうでもよくなっていた。

 わたしは椰子の木の木陰に座って、今日もテュルトと読んだ物語を読み返す。暑い光が降り注ぎ、海の遠くのほうではクジラが悠々と泳いでいた。


 テュルト、今ならわかるよ。夏の匂いがする。

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うみべのおうち ささなみ @kochimichiko

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