夜の研究
吉城カイト
前編
「人は人に影響を与えることもできず、また人から影響を受けることもできない」
―――太宰治
ボクはこの夏休みに一人の人間と出会った。否、一匹の猛獣と出会った。出会ってしまったのだ。ボクとしては決して望んだ出会いではなかったし、
まったく興味のそそられない序章になってしまったが、それでも良ければこのまま話を読み進んでほしい。
読んでいるあなたにも影響がでてしまうかはどうかわからないが。
**
四月から大学生となり都市部で一人暮らしを満喫していたボクは、夏休みになんとなく実家へと戻る予定でいた。予約した高速バスが駅のホームに来るまで一時間小の暇を持て余していた。
駅中のマックに滞在してコーラを注文する。ポケットから出したスマホでツイッターを確認した時だった。平日だったからか店の中はさほど混んでいなかった。というかボク以外にマックで暇をつぶしていた奴はいなかったように思えた。だからこそ店に近づいてくる奴は気配で察すれたはずなのに、ボクは一人の女性が接近してくるのに全く気付かなかったのだ。
「相席を希望していいですか?」
すぐそばに来るまで彼女の存在を認識しなかったのだから、当然ボクは話しかけられているとは思わず、二、三度の質問の末、肩をたたかれてようやく気付いたのだった。
「っ、……はい?」
見たことのない人だった。いや、ここで友人や知人が声をかけてきたのは理解できるのだが、やはり記憶にない他人がボクという個人に会話をするだけでは飽き足らず、相席を望むというはいったいどういう理由があって生まれる状況なのだろうか。
彼女は紺色のスーツを身にまとい、結構長めの黒髪を肩のあたりで軽くまとめていて、黒い縁なしの眼鏡をかけていた。座っていたボクが彼女のことを見上げるのは当然として、それを踏まえたうえで、彼女は一般的な女性の平均身長をあきらかに超えるくらいすらりと通った背丈だった。
「―――面白い目をしていますね」
「は?」
「ええ。実に興味深い目です。まるで他人を値踏みするかのような目です。知らない私に警戒している目です。自分のテリトリーにたやすく侵入してきた私を睨みつけるかのような目です」
この会話からして、第一印象は奇妙な人だと思った。静かにボクのことを分析してくる彼女のことを気持ち悪いと思った。
「え、あ、すみません」
「なぜ謝るのですか?」
自分でもなぜこの人に謝ったのかわからない。ただとにかくこの場から離れたいと思った。この意味不明で理解不能な彼女から逃げたいと思った。
半分以上も余っていたコーラをつかみ、席を立ち上がろうとしたのだが、瞬間で彼女に腕をつかまれて椅子に戻されてしまった。
「……」
先ほどの脱走が失敗した以上、強硬手段に出るのは無駄だと判断し、適当に話を聞いて離れることにした。なお無言で会話の拒否を主張したが、それはあっさりとスルーされてしまった。
「さて」
彼女はボクに笑みを浮かべて言った。口元は笑っているのが、しかしその微笑みはどこか胡散臭いものだった。まるで笑った仮面をつけているようだ。
「あなたは現在夏休みを満喫している学生さんですね? しかし私のような教員には休みというものは存在しないのです。常に研究の題材となるものを探しているのです」
この一方的な会話でようやく彼女が何者かということが分かった。教員、研究、おそらく大学教授なのだろう。どこの大学かは知らないが。
「それで私は勤めている大学であなたを見つけました。休み時間誰ともかかわらず、授業中も班活動で無言を貫いているあなたを見つけたのです。そして私は興味を持ったのです。誰ともかかわらずに人間は生きていけるのかと」
身振り手振りを交えてさも世界の理を主張するかのように言ってきた。どうでもいいが、この人はどうやらボクの通う大学の教授らしい。
「いや、あの、悪いんですけど、僕は好きで一人でいるんで。あと、誰ともかかわらずに生きてはいけませんよ」
あっさりと正論で片付けてしまおうと思っていったのだが、彼女には意味のないことだった。というか最初から僕の話を聞いていなかった。
「それであなたには私の研究に協力してほしいと思ったのです。ええ、もちろんタダでとは言いません。そう、短期休暇のアルバイト代とし報酬を用意させていただきます。」
ずいぶんと勝手な話だ。そもそもボクには彼女の研究に付き合う義理なんてない。だがバイト代が出ると聞いて少しだけ、ほんの少しだけ耳を貸してしまった部分があることを認めざるを得ない。
「バイト、ですか」
「ええ。日給二万の三日間でどうでしょう? 占めて六万円。学生にとってはかなり魅力的ではないですかね? いやしかし、あなたがどうしてもというのならばここからさらに値段の交渉を受け付けても良いですよ。今のところ私はお金に苦労しているわけではないのです。食費や雑貨類など削れるところはいくらでもありますからね」
ますますきな臭くなってきた。ここまでボクに執着している様子を見ると、どうにも警戒してしまう。まさか臨床実験やボクの体を使うんじゃないだろうな。
そうなればどんなにお金を積まれても断るという選択肢しかないのだから。
「安心してください。あなたが危惧していることは何一つないでしょう。ええ、ただ私の実験のモニターになってほしいだけなのです。実のところ、実験対象は手に入ったのですが、それを手なずけるだけの技量が私にはなかったのです」
「はぁ……」
ますます意味が分からなくなってしまった。
実験対象がすでにいる? ボクがモニター?
疑問は湧き出るばかりだったが、彼女の誘いを受けるにしろ受けないにしろ聞いておきたかった質問が一つだけあった。単なる好奇心は身を滅ぼすというのに、やめておけばと後悔しても既に遅い。
「あの、あなたは何を研究しているんですか?」
「気になりますか? ええ、勿論教えてあげますとも。人間の人生に影響を与えるものの研究、影響なしではどのようになるのか、関係性の拒絶が引き起こす存在は何か、まあ、つまるところ端的に言うならば」
すると、彼女は口元をゆがめ、眼鏡を右手の中指で押し上げてこう言った。
「夜の研究、ですよ」
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