第21話 喧嘩

 あっと思った時には遅かった。思えばすべてが裏目だったのだ。

 南三局一本場、天馬の手はこうだった。


<天馬 手牌 ドラ2ソウ>

 ②③④⑤⑥⑨⑨⑨筒 11234索


 ①-④-⑦ピンのテンパイ。しかし、役がなかった。

 リーチをかけなければ出アガリ不能。

 ゆえに天馬は河から視線を外し、リー棒を取った。


「リーチ!」


 ちゃら……とリー棒が涼しげな音を立てた。


(アガればリーチドラ1、逆転だ)


 もうその時に、すべては終わっていたのだろう。

 

 次の順、天馬はツモってきた1ソウを放った。


「ロン」


 その手の威力は、天馬から思考を奪い去るに充分だった。


 一九①⑨19東西南北白發中


 純正国士無双――。


 わかっていた。天馬にもわかっていたのだ。

 いざとなれば雨宮には、タネはわからないがイカサマの手段があることは。

 しかし、目先のテンパイと勝ちに目を奪われ、雨宮への注意を怠っていた。

 結果、放銃。


 天に昇れど、天に届かず……。


 天馬、撃墜。



 オーラス、雨宮が手を倒した。


「ロン。タンピン」


 もう役や点棒の移動に意味はない。

 天馬は立ち上がると、見上げてくるシマに一瞥もくれず出て行った。


「ククク……ハハハハハハ……!」

「やったぁぁぁぁぁ生き残ったぁぁぁぁぁぁ!!!」

「あっぶねええええ超びびったっ!!!!!」


 三人三色の歓喜を噛み締めている雨宮たちを冷めた目で眺めながら、シマは新しいタバコをくわえた。カガミがすかさずジッポライターを添え点火する。


「ありがと」

「いえ」

「な、言っただろシマ」


 シマが面倒くさそうに視線を向けると、顔中しわくちゃにして笑っている雨宮の顔があった。


「あいつはなにもできやしない」


 ぼふぁ、とシマの吐き出した紫煙がたちこめ、彼女の顔を隠してしまう。


「それでも」


 その向こう側にあるのは焦りか怒りか、あるいは……


「逆転への切札は、残ってる」


 灰色の闇の中で、二つの瞳が濡れたように輝いていた。


 やめだ。

 もう、やめだ。

 天馬は休憩室のベッドに腰掛け、うな垂れていた。もう何度目になるだろうか、ここに来るといつもピンチになっている気がする。

 しかしそれも、もう終わりだ。

 そもそも無理だったのだ、三人相手に麻雀なんて。

 誰よりも早くテンパイし、しかも点棒でトップを取らなければならない。

 相手は誰かがテンパイすれば(点棒状況にもよるが)サシコミ可能で、しかも危なくなったら国士無双。

 まさに無敵だ。手の打ちようなし。

 終わったんだ。もう。


「はは……」


 天馬はドサッとベッドに身を預けた。天井の木目を見るでもなく眺めながら、誰に言うでもなく呟いた。


「諦めるのって、スゲー気持ちイイ……」

「ふうん、そうかな」


 眼球をごろりと転がすと、ちょうどシマが扉を閉めたところだった。

 負けたというのに、ひょこひょこと気安く近づいてくるその人懐こさが、いまはなぜか無性に腹立たしかった。


「どうしたの?」


 水槽の亀を覗くようにシマは負け犬の顔を見下ろし、その頬を緩ませた。


「俺は……ダメなんだ……」


 声とも息ともつかないぼやきが、天馬の口から流れ出す。


「なにをやってもうまくいかない……

 がんばろうって思っても……

 まるで……ちょうど俺がやる気を出した時を見計らったみたいに……

 不運が襲ってくる……。

 畜生……。

 俺が……俺がなにしたってんだよ……」


 シマの笑顔は、凍ったように張り付いたままだ。


「君は、なにもしてないよ。

 そう、なにもしていないから負けたんだ。

 勝ちの目はあったのに、自分のマヌケさで潰した」


 見る見るうちに、天馬の心に憎悪が湧き上がった。理由も正当性もない、単なる憎しみ。

 ダメだ、抑えなくては。そう思った時には言葉が溢れ出していた。


「おまえに……

 おまえに俺のなにがわかるんだよ……!

 おまえはいいよな……なんでもできるんだから。え?

 かわいいし、才能あるし、なんでもできるんだろ。

 人から嫌われたり、ひどい目に遭わされたことなんてねえんだろっ!

 わかるわけない……おまえなんかに……

 どうして俺ばっかりこんな……こんな目……。

 俺はただ……普通でいられればよかったのに……」

「それは、無理だよ」

「……なんで……」

「普通なんてのは、まやかしだ」シマは唄うように言う。「みんな一緒なんて、嘘っぱちだ」

「一人一人、人間、命、場所、現象、出来事、流れ、男と女、君とわたし。

 別物だ。同じにはなれないし、そうあらなきゃならない道理もない。

 自分は自分だよ。どこまでいっても」

「それは自分がハッキリしてるやつの言い分だよ……。

 俺にはないんだ……自分なんて……」

「君は死のうとしてた」

「は……?」

「妹さんのためにさ、線路の縁まで行って。

 本当に弱い人は、あの場所には立てない。

 家に帰って言い訳しながら寝ちゃうのが関の山。

 でも……

 でも君は……

 あの縁に立てたんだよ。

 なんの得にもならないのに……人のために。

 それが自分じゃないなら、なに?」


 天馬は体を起こすと、子どもがいやいやをするように頭を振った。


「違う……違う、違うんだ。おまえは誤解してるんだ……。

 俺はそんなに大層なやつじゃないんだ。卑怯者なんだ……

 雨宮の言うとおり、肝心なところでヘマをする、どうしようもないヤツで……」

「関係ない、誰かがなんて言ったかなんて」


 言葉が胸に染みる。


「やめろ……」


 怪我を癒すための消毒液のように……。


「そんなもの信じなくていい」


「励まそうとか、やめろっつってんだよッ!!!!!」


 もう頭がおかしくなりそうだった。

 シマの言葉ひとつひとつが、天馬が目を逸らしてきた心の暗部、その柔らかい部分に針を刺し、火で炙っているようだった。それは耐え切れぬ苦しさ、地獄の拷問だった。

 わかっていた。シマが正しいことは、十二分に。

 彼女の言葉は天馬の言葉でもあった。糞尿にたかるハエのごとく、その言葉の群れは脳内を旋回していた。意味という名の爆弾が、精神の均衡を爆破した。

 そして……。


「あ……」


 突き飛ばされたシマの額からつーっと血が伝った。

 衝撃で落下した書物が床にばら撒かれ、ホコリを巻き上げていた。そのぶ厚く重そうな角に朱が散っていた。

 流れる血が頬に到達する。シマの舌がそれをぺろりと舐め取るのを見て、天馬は悪寒を感じた。

 ゆっくりと起き上がるシマを目の前にして、天馬はどうしていいのかわからなかった。謝るべきか、それとも逆上すべきなのか。

 ああ、こんなときもオレは、自分のことばかり――


「一回は」

「え?」

「一回だから」


 速度、重み、硬度、完璧な一撃の残像が見、


 …………


 天馬はずきずきと痛みを訴えてくる額を押さえ、シマを傷つけた本の上に積もった花瓶の破片をつまんだ。

 容赦ゼロの攻撃だった。殴り殺す気だったのかもしれない。

 シマはもういない。どこかへいってしまった。


「……ハハ」


 部屋の隅に座りこみ、頭をゴンと壁に打ち付けた。

 最低だった。



 気遣ってきたくれた人間に、オレはなにをした?

 あんな風な優しさを、オレはずっと求めてきたんじゃないのか?

 それを……。


 大した感慨もなく、自然に目の端から涙が零れ落ちた。

 それは一滴だけ滴り、けれど途切れることなく頬を流れ続ける。


 こんなコトをオレは望んでいたのか。

 あいつに怒鳴りつけて、弱音を吐けば満足か。

 …………。

 違う……

 違うよ……。


 いつしか、拳の間から血が滲み始めていた。


 オレは……なにもいらない……。

 褒めてもらわなくたっていい……。

 誰からも認めてもらわなくて、いい……。

 ナギサの写真とか、雨宮を許せないとか……。

 そういうもの、関係なく……。

 勝ちたい……。

 オレは……勝ちたい……。

 ただ、勝ちたいっ……………………!


 胸の中に、後悔と絶望以外の何かが、生まれようとしていた。


 じゃなければ……オレは……

 自分を、今度こそ許せなくなるから……


 これ以上、嫌いになりたくないんだ……

 自分を……。


 自分くらい……

 この世界でたったひとり、自分くらい……

 このオレぐらい……


 オレのことを、信じてやってもいいだろう……!


 ――これが分水嶺。

   馬場天馬の真の物語は、今、この時から始まる――

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