第16話 鮮血の取引


 天馬が初めて麻雀をやったのは――雨宮は覚えていないようだが――この家だった。

 あのうだるような暑い日、雨宮が……シュウがあの地下室に持ってきたのが最初だった。


「なにそれ?」


 天馬とブラックジャックをして遊んでいたナギサが問いかけると、シュウはにっこり笑って答えた。


「マージャン牌だよ」

「まーじゃん?」

「天馬、やったことあるか?」


 雨宮が呼びかけたとき、天馬はヒーロー戦隊が印刷されたうちわで、なけなしの風を首元に送り込んでいた。


「ねーよ。あー、でも親父がやってんのは見たことあるなあ。ルールは知らねえけど」

「俺もよくわかんねえ」

「はあ?」


 初めて牌をつまんだ時の記憶は、なぜか今でも薄れていない。

 そんな劇的な出遭いだったわけではないが、どことなく牌の形や色がキレイだと思い、しばらく眺め回していた。

 麻雀とはいっても、幼かった彼らに点数計算などできようはずもなく、ただ適当に牌をぶちまけ、ツモり、アガリの形になったら手を倒す。それだけ。

 だからロンのみやフリテンなどが横行していた。ルールもへったくれもない、メチャクチャな麻雀……。

 ただ、楽しかった。

 麻雀が……ではなく、ただ三人で、そこにいるだけで充分だった……。

 満たされていたのだ……それだけで……。



「シマ……」


 ハッと天馬は我に返った。ついつい昔の事を思い出してしまっていたようだ。

 雨宮が久しぶりに口を開き、シマは顔を上げた。


「なに?」


 シマはいま、ヤマから最初の二トンを持ち上げたところだ。

 そんななシマに雨宮は両手を顎の前で組みながら問いかける。


「楽しいか……?」


 シマはきょとんとしている。


「ええと、漠然とそう言われても……」


 天馬にも、雨宮の意図がわからない。なにかの揺さぶりだろうか。


「つまりよ、俺たちとアンタの間には、すげー雀力の差がある。これは明らかな事実だ。そうだろ?」


 シマは興味無さそうな様子で、人差し指を前髪に巻きつけた。


「雀力ねぇ……だから?」

「ハッキリ言うが……ハンデをくれないか?

 アンタがこれから一回でも俺たちにマンガン以上を振ったら、そこでこの半荘は……


 決着……!


 ってことにしようや」

「バッ……バカヤロッ……!」


 天馬は雀卓に手のひらを叩きつけた。


「ふざけんな……なんでそんな勝手なコト……!」


 いま、点棒でリードしているシマにそんなことをするメリットはない。

 当然の如く激昂する天馬に対して、シマは


「いいよ~」


 あっさり快諾した。


「な、ん、で、や、ね、んっ……!!!」


 天馬の腕がシマの首をうしろから容赦なく締め上げた。


「ぐぇっ……!」

「おまえってやつは……なんでそう簡単にぃ……!!!」


 パンパンパンとタップしてギブアップを宣言してくるシマを天馬は無視した。

 泣きたい……どうしてわざわざ、損なことに首を突っ込みたがるのだ……!

 まるで狂気の沙汰ではないか……。


 ボグッ!


 シマの肘鉄が天馬の脇腹に突き刺さった。


「ぐおっ……」


 予想以上の破壊力に天馬はよろめいた。とても女性とは思えない鋭いエルボーだった。

 解放されたシマは目を潤ませながら咳き込んでいる。


「女の子の首締めるなんてサイテー……」


 うっ……と天馬は言葉に詰まった。確かにやっちゃいけないことだったように思える。


「お、おまえが変なこと言い出すから……!」


 シマからの冷たい視線がいたたまれない。


「だからってさあ……。まあいいや、確かに振り込みひとつで半荘終了じゃつまんないし……そうだ、じゃあこうしようよ」


 パン、と手を叩くと今までの不機嫌顔が途端に陽気に戻る。


「次の局一回ポッキリ、わたしが振り込んだら雨宮君たちの言う事をひとつ聞こう。王様ゲームだ。好きでしょ、こういうの。

 ただし、いままでの勝負を無効にしろとか、あわよくば死ねとかはダメだよ。あくまでゲームを続行する上で差し支えない範囲で」

「……俺らが振り込んだら?」

「そのときは」


 シマは雨宮の右目を指差した。


「ソレをいただく」


 空気が凍りついた。明らかな動揺が、八木と倉田に走っていた。天馬にも。


「どうかな……受けてみる? べつにわたしはいいんだよ、やめてもらっても……」


 シマはそう言って、試すように雨宮を見る。

 その場全員の視線が雨宮に集中した。

 彼は額に汗を浮かべながら……


 にいっ……


 と笑った。


「いいぜ……受けよう、そのギャンブル。

 ただし、こっちからもひとつだけ条件がある。振り込み合戦となれば、お互いガードも固くなる。

 そこでだ……テンパイ即リーってことにしねえか? ダマテンはなしだ」

「ふうん……。ま、そうでもしないとオリちゃうか。いいけど……あ、鳴きはどうする?」

「テンパイした時点で、手変わり不能ってことにしよう。これでどうだ?」


 シマはしばらく黙っていたが、やがてタバコの紫煙と一緒に答えを吐き出した。


「オッケー、わかった。やろう、それで」

「クク……決まりだな」

「あ、雨宮……いいのかよ……?」


 心配げな倉田に雨宮は一瞥もくれない。


「わかってねえな……。いまはいく時なんだよ。

 俺にはわかる……もうヤツのツキは落ちた。これ以上好き勝手にゃさせねーよ」

「な、なんでそんなことわかるんスか……?」

「勘だ」

「か、勘っ……!?」


 雨宮はくつくつと笑った。おかしくてしょうがないという風に。

 とても眼球を賭けた人間のとは思えない態度……。


「雨宮のやつ、自棄になっちまったのか……?」


 シマはなにも答えなかった。



 なんだか妙なことになってしまった、と天馬は思った。

 こちらが振り込めば、無条件で向こうからの命令をひとつ聞かなければならない。どんな条件を出されるかはわからないが……少なくともこちらの不利になるのは間違いない。あまりシマの負担にならないような条件が来るのを祈るだけだ。

 しかし、逆に振り込んでもらえれば、雨宮の右目を潰せる。

 目を潰したとあっては、これはもう事実上の決着に等しい。とても麻雀などに興じている場合ではない。

 シマを見る。何度見ても、どこにでもいる普通の少女にしか見えない。

 しかし、それは彼女が被っている皮に過ぎない。一見しただけでは、肉食動物のエサとして食物連鎖を輪廻させるだけのシマウマのようだが、その薄皮一枚を剥げば醜く湿った竜の鱗が剥き出しになる。

 竜はためらわない、エサの右目をえぐることなど。


「なあ、シマ」


 天馬はシマの耳元に口を寄せ、周りに聞こえないように話しかけた。幸運なことに、シマが要求したBGMのおかげで、些細な言葉のやり取りは雨宮たちには届かない。これも彼女の計算の内だったのだろう。


「ん?

「本当に大丈夫かよ、こんなギャンブル……」

「さあ」

「さあ……って……」

「ま、五分五分か……いや、やっぱり七割方、わたしが勝つと思うよ」

「ずいぶんな自信だな……。ま、おまえが言うからには、そーなんだろーけどよ、七割方」


 その後、シマが呟いた一言は、激しいヘビメタルのBGMにかき消され、天馬には届かなかった。


「……残りの三割が、結構バカにできないんだけどね」


 こうして、目と約定を賭けた東四局が幕を開けた。




<東四局 親:倉田 ドラ:7ソウ>


<シマ 配牌>

 一三八萬 ②⑤⑨筒 6索 白白發發中中

 ツモ:2ソウ

  打:②ピン


(おいおい、ツキが落ちるなんて大嘘じゃねえか……)

 雨宮の予言とは異なり、相変わらずシマには手が入る。大三元すら見える超好配牌だ。

 しかし大三元は三元牌を鳴ければいいものの、大抵二鳴きした時点で最後の牌を誰も出さなくなってしまう。

 それに誰かと二牌ずつ持ち合いになって縛りあった場合、結局そのまま手が進まずノーテンで終了……ということもままある。

 そういった意味では、サッとアガってしまいたいこの状況に即していない手とも言える。

 やはり雨宮が言ったシマの衰運は事実なのか……と天馬は思い、胃が痛くなる気持ちだった。あとで胃薬をカガミにもらおう。

 しかし……シマのツキは劣るどころか、ますます増していった。


<シマ 手牌>

 一二三八萬 6索 白白白發發發中中


 天馬がごくりと生唾を飲み込む。


(味方の俺でさえサマを疑っちまうような引き……まさか白と發をアンコにしちまうとは……。

 普通だったら大三元と行きたいところだが……ここは八萬か⑥ピンをターツにしてリャン面待ちがベストだろう)


 そんな天馬の思いが、卓上の女神に通じたのか……


 ツモ:七萬


(来たっ……!)


 手役からすれば最高のところだ。待ちは六九萬。両方ともションパイ。ツモあがりにも最適だ。

 この局限定のギャンブル『振り込み合戦』に目を奪われがちだが、実はこの局、シマ側にとって、べつにツモあがることはなんら問題ではない。

 手役がマンガンを越えていれば、ツモで倉田を飛ばし、目だの約定だのは雲散霧消……ゲームセットなのだから。

 しかし、シマは動かない。ツモった七萬を指でなぞりながら、アリの死骸を見つめる時のように目を細めている。

 天馬からすれば意図不明の長考だった。


(おいおい……テンパイ即リーがルールなんじゃないのか?

 確かにシマの河はマンズが圧倒的に少なく、六九萬の出アガリはあまり期待できないけど……。

 あ……。

 ひょっとして、七萬をそのまま叩き切って、6ソウの方にくっつくのを待つ気なのか。

 確かにテンパイ即リーが原則とはいえ、それをあえて崩すことはダマテンってわけじゃないから、問題はない。どっちにしたって小三元でマンガンは確定。

 でも、そんな悠長なことやってて他のやつに先に張られたら面倒だぜ……シマ……)


 タバコの長さが半分になった時、ようやくシマの指が動き出し……


 

 リーチ棒をつまんだ。


「リーチ……あっ」


 と、その時、勢い余ったシマのリー棒がイレギュラーバウンドしてしまった。そのままくるくると回転し、落下。

 雨宮は、自分の手牌と卓縁の間に転がったリー棒を黙って見下ろすと、じろりと鋭い視線をシマに向ける。


「ごめんごめん、つい力んじゃったよ」

「ああ」


 シマはリー棒を置きなおし、改めて宣言した。


「リーチね」


 シマの宣言を聞いて、倉田と八木はずいぶん具合が悪そうだ。熱を出したときのように、鼻の頭にびっしりと汗を浮かべている。

 振り込めば雨宮の眼球は失われてしまう。ツモられる危険性があるとしても、もし振り込みでもしようものなら奴隷として外国に売られる前に雨宮にこの場で殺されるだろう。

 当然、倉田と八木はアンパイ連打。彼らにそんな無茶をする勇気はないのだから。


<シマ 手牌>

 一二三七八萬 白白白發發發中中

 待ち:六-九萬

  役:リーチ、ホンイツ、小三元、高目チャンタ


 この手、ツモればマンガンどころか倍満以上は確定である。天馬は両手を組んで祈るような思いだった。

 が……ツモれない。五順経過してもダメ。まったく来ない。

 いっそこのまま流局してしまうのも悪くないかも、と天馬が思い始めた頃、


「ポォン!!」


 意外にも倉田が八木の⑦ピンを鳴いた。てっきり倉田はベタオリで手になっていないと思っていた天馬からすれば青天の霹靂である。


(この状況でアンパイの⑦ピンをポン……? つまり、張ったか……いや、もしかしたら形式テンパイかもしれない……『振り込み合戦』は東四局に適応されるから親の連荘があった場合、継続して引き継がれる。

 そんなにこっちに不利な条件つけたいのかよ……目を危険に晒してまで……!)


「馬場くん……」


 一瞬、反応が遅れてしまう。珍しいことに、シマの方から天馬に話しかけてきたので、とっさに誰に話しかけたのかわからなかった。


「どうした?」

「ヤバイかも、しんない」


 外に出たら一面雪景色になっているかもしれない。

 シマから初めて聞かされた弱音だった。

 なにを言ってんだ、おまえらしくねえぞ。

 そう言って励まそうと天馬が口を開いたとき、


「カン……!」


 雨宮がいまツモった牌を手に入れ、四枚の牌を倒した。


 六萬を。


 天馬の顔から血の気が引いていく。しかし待ちをバラすわけにはいかない。必死に頬を噛んで、シマを見つめて気持ちを静める。

 アガリ目の片方、六萬がまるごと潰された。

 しかも、倉田がポンして雨宮がツモった牌ということは、本来はシマのツモだった牌である。

 蹴られた、勝ちを。

 偶然か、必然か。

 どちらにせよ、それはまだ終わらなかった。

 雨宮の人差し指が、カンドラをめくる。


 九萬。


(ハハ、なるほど九萬ですか。そうですか)


 人はあまりにツイてないことが起こると、笑い出したくなるものだ。尋常でないツキのなさに現実感を失ってしまうのである。

 天馬もご多分にもれず、にやにやしそうになるが、シマに足を踏まれて我に戻る。


(冗談じゃねえ。こんな次々にロン牌が消えるなんて……イカサマか……だがドラは人差し指一本でめくっていた。手中から送り込んだ様子はなかったし……それに)


 天馬は雨宮の顔を見つめた。

 腐っても幼馴染、なんとなく雰囲気でわかった。

 これは、やつの策ではない。

 やつは自分の策が決まったとき、もっと嬉しそうなオーラを出すのだ。

 いまやつから出ているのは、信じられない、というオーラ。

 表情が変わったわけでもない。汗のテカり方で考えていることを見抜いたわけでもない。

 幼馴染との記憶が、これがまったくの偶然の出来事であると、天馬に伝えていた。

 そしてギャンブルの場で、いかなる天才であろうと、ツキという突風に吹き飛ばされないものはいない。

 それがたとえ、雨宮だろうと、

 シマだろうと。


 倉田のポンで、流れが反転したのか……あるいは、すでにこの局すべてが、シマにとって悪流なのか。

 再び雨宮の手から四枚の牌が倒された。


「カン……!」


 これで二つアンカンツ……。しかしカンドラ表示牌が九萬ゆえに、九萬のカンはないことだけが救いである。

 雨宮は晒した③を卓縁に寄せ、二枚目のカンドラをめくる。

 さすがに、これはないだろう。二度も偶然が続くものか。

 天馬の祈りは天へと昇り……


 カンドラ表示:九萬


 払い落とされた。嫌な汗が背中を伝う。喉がねばつき、何度生唾を飲み込んでも喉が潤わない。


(なんだよ、コレ……)


 一方、シマは動じるどころか相変わらずヘラヘラしている。


「いいのかなあ、裏ドラがスゴイことになっちゃうかもよ?」

「フフ……」


 シマの言葉に対して、驚いたことに雨宮が笑顔を見せた。数々の純真な女性たちを騙してきたキラースマイルである。


「いいんだよ。身を削らなきゃ、アンタに勝てない……」

「へえ……いいこというじゃん。敵として会いたくなかったなあ」

「べつにアンタは助けてやってもいいんだぜ? なんなら、寝返っちまえよ」


 まるで友達を家に呼ぶように、雨宮はシマを誘った。


「なっ……!」


 シマの反乱……それは天馬にとって死刑宣告のようなものだ。

 そんなことになれば天馬の勝ち目は兆にひとつもなくなる。

 肝を冷やしてシマを見ると、シマはにやにやしながら首をかしげている。


「そうだなあ、そうしようかなあ、負けそうだしなあ」

「ちょちょちょまっ!」


 慌てふためく天馬を見て、シマの頬が膨らんだ。


「ぷっ……あはは! そんなハトがバクダン喰らったような顔しないでよ馬場くん。大丈夫、裏切らないよ」

「…………」


 寿命が十年は縮んだ思いだ、と天馬は不服げにシマを睨みつける。


「それにさあ、べつにわたしがいなくなっても慌てることないって。これ麻雀だよ? 所詮運ゲーだよ運ゲー」

「おまえ全国の雀魔からフルボッコにされるぞ。

 俺がやって勝てるわけねえだろ……ったく……」

「そうかなあ……あ、カン」


 シマが白を四枚倒した。

 王牌に二枚も九萬が眠っていたのだ、リンシャンで引ける可能性はある。

 が……


 打:一萬

 カンドラ表示牌:⑧ピン


 引けない。しかしこれは仕方ない、まだツモは残されている。


 クク……


「なにかおかしい?」


 雨宮は手で口元を押さえ、笑いをかみ殺していた。


「いやなに……あまりにもミジメだと思ってさ。

 わかるぜシマ……アンタはリンシャンカイホウを狙ったんじゃねえ。

 流局させるための階段をひとつ登ったんだ……そうだろ?」


 前髪をくるくるしていたシマの指が止まった。


「だったらなに? そう思うなら急いでテンパイしないと、この局、流されちゃうかもよ」

「それはねえよ……いま、伝令が来た。神からな……」

「はあ……?」


 さすがの天馬も、これには呆れ返らざるを得なかった。言うに事欠いて神? 雨宮らしくない発言である。

 そんな天馬に雨宮は哀れみをこめた視線を向けた。


「神……ていうとちょっと違うかもな。けどな、わかるんだよ、俺には……もう確実に、この局は俺のものだ。100%の確率で」

「なにを勝手な……まだ張ってすらいねえくせに」

「いま、証拠を見せてやる」


 雨宮がヤマに手を伸ばし、牌をツモる。

 それを手に入れて、


「リーチ……!」


 雨宮の牌が横にされた。


「ホントに……テンパイ……」

「クク……まだまだ終わらせない。おい、八木、その牌見なくていいぞ」

「は……?」


 ツモった牌を見ようとしていた八木が目を点にしている。リーチ者がいる状況で、どうしてそんなことができようか、という疑問を顔一杯に浮かべながら。


「いいから切れ。ぜってーに当たらねえからよ」

「……わかったッスよ」


 そして八木は切った。

 發……。

 シマの最後のカン材の、發……!

 ククク……ハハハ……

 雨宮の高笑いが天馬の焦りを増幅させる。

 連続する雨宮の強運は、ある予感をその場の全員に与えていた。


 シマが……

 負ける……?


「ふふ……」


 凍りついたその場の空気を、シマの笑いが切り裂いた。


「なるほど、確かに強運だ。成功しっぱなしの人生って噂も伊達じゃない。

 でもさ……それは勝利とは違う」


 ふう、と雨宮はため息をつく。その眼差しはあたかも聞き分けのない娘を見る父親のようだ。


「なんだ……いまから負けたときのための言い訳づくりか?

 クク、そりゃあ恥ずかしいよなぁ、あんな偉そうなことばっか言ってて、結局この大事な一瞬に勝てないんだから」

「恥ずかしい……?

 君の方がよっぽど恥ずかしいと思うけど」


 ぴく、と雨宮の眉がひきつる。


「……あ?」

「ちょっとツイたくらいで有頂天になって、神だのなんだの……ふふ、まるで子ども。オモチャを買ってもらってハシャぐ子どもだ……。

 大人なわたしが教えてあげよう。

 恥ずかしいってことは、負けることじゃない。

 努力して、懸命になって、負けたなら、それはどんなにゴミみたいに見えても、やっぱ価値ある敗北なんだ。

 それがわからない限り、君は所詮『与えられた』人間に過ぎない。

 自分の手で、人生の酔いを得ることなんて、一生できない」

「クク……なにをバカな。じゃあおまえは、この大事な勝負で、がんばったから負けました、で済むと思ってんのか?」


 シマはふっと微笑んだ。いつものように、気取らず楽しげに。


「思ってる」


 その平然とした態度が気に食わなかったのか、雨宮は苦々しげに歯を剥いた。


「……イカれてるぜ、この女。不良品だ」

「不良品で結構。家畜よりよっぽどマシだ。

 きっと誰も君に教えてくれなかったんだろうね。

 君を恐れて……じゃない。君のうしろにあるものがあまりにも大きかったから。

 だったらわたしが言ってあげる。

 君は『幸運』に飼い慣らされた……

 卑しい豚だ」


 バキャァ!


 雨宮が壁に裏拳をお見舞いした。先ほど開いた穴がさらに拡大する。この屋敷は部分的に腐っている場所が多いらしい。

 砕けた歯をさらに噛み締めたものだから、再び雨宮の口元から血が流れ始めた。口の端が怒りのあまり痙攣しているのを見て、天馬はひるんだ。


「いい加減にしろよ……誰に口利いてるんだ? え?

 俺は王だ……欲しいものはすべて手に入るんだ。

 いままでも、これからもな……。

 おまえらヒイヒイ言いながら、シャカリキになってゴールを目指す愚民とは違う……。

 なぜなら、俺は最初からゴールにいるからだ……!

 努力する必要も、苦しむ時間もないんだっ!!!!」


 それはどこか、自分に言い聞かすような響きを有しているように、天馬には思えた。

 誰も彼に言葉を返すものはいない。

 決して否定しないが……

 肯定するものも、いなかった。


 やがて、カガミが久々にジャッジらしく場を仕切った。


「そろそろ、再開しましょう。シマさまのツモ番です」

「はいはい。……ん、いらない、こんなの」


 打:中


 逃した大三元を、シマは惜しいとも思わない。

 きっと自分なら、戸惑ってしまう。

 失敗したと思ってしまう。

 でもこいつは違う。

 羨ましい……。

 そう天馬が思った次の順……

 あっさりとそれはやってきた。

 交通事故、突然の病、通り魔……

 それらは、ごくごく自然に当然の顔をして、人の日常を崩壊させる。


 シマ打:3ソウ


「ロン」


「……え?」





 シマ、放銃……!!


「嘘だろ……」


 天馬は呆然として、よろよろとあとずさる。

 なんだかんだ言っても、振り込まないと思っていた。

 どれだけ雨宮が騒ごうと、シマには関係ないことだと。

 シマは落ち着いた声音で、諭すように言った。


「嘘じゃないよ、馬場くん。これが現実……これこそ博打……。

 勝ち続けるやつなんて、いないんだ」


 雨宮が親指で自分の胸元を大仰に指し示した。


「この俺を、除いては……な。

 ククク……ハハハ……!!」


 雨宮の笑い声でハッと天馬は我に返った。そうだ、役は? いったいいくら振り込んでしまったのだ。

 カンが三回もされているのだ、裏ドラがアンカンの六萬や③ピンにのったら……最悪のケースでは役満さえありうる……!



<雨宮 手牌>

 24索 ⑤⑥⑦筒 九九萬

(六六六六)(③③③③)←アンカン

 ロン:3ソウ


「え……役は……?」


 一瞬三暗刻かと思ったが、そうではない。とっさの判断ができずうろたえる天馬に、カガミが答えた。


「リーチのみ、70符1ハン。裏ドラ……なし。子の2300点です、馬場様」

「2300……?」


 なんだ……と拍子抜けしてしまった。敗北には間違いないが、こんな浅い傷で済んでしまうとは、不幸中の幸いか。

 が、シマの顔は浮かない。珍しく眉をひそめて不愉快そうだ。


「どうしたんだよ、シマ」

「……九萬が使い切られてる」


 見ると、確かに雨宮の手牌の雀頭が九萬だった。

 つまりあの倉田の鳴きで六萬が雨宮に流れた瞬間に、シマのアガリ目はなくなっていたのだ。

 確かにこれ以上はないという不運である。


「まあ確かに……だけどさ、ここはこれでよしとしようぜ。むしろカンが三回も入って、裏ドラなしってのがスゲエじゃねえか。やっぱツキは落ちてなんかいねえ。落ちてても、雨宮とどっこいどっこいって感じだよ」

「忘れたの?

 わたしが振り込んだら、ひとつ命令を聞かなきゃならない」

「あ……」


 そうだった。カンに目が奪われて忘れていた。

 雨宮を見ると、口が裂けるのではないかというほど深い笑みを浮かべている。

 カガミが本棚から落下してきた。


「それでは雨宮様、シマ様への要求をひとつ、どうぞ」

「クク……どうしようか……。

 考えどこだな、ここが……」


 そう言って笑みを慎むと、口に手を当てて雀卓の中央に目を落とした。

 じっくりと考えて、一番効率のよい鎖をシマに巻きつけるつもりなのだろう。

 すると、おずおずと倉田が口を開いた。


「服ひでぶっ」


 なにかを口走りそうになった倉田の顔面をカガミが蹴り倒した。椅子ごとひっくり返った倉田は後頭部を背後の本棚に強打し――うわあ、と天馬は目を覆った――鼻を押さえて床の上でもんどりうっている。カガミは何事もなかったかのように雨宮の発言を待つ姿勢に戻った。いいのか、ジャッジとして。天馬は震えつつ、彼女の前で冗談を言うのはよそうと固く心に誓った。

 そんな茶番を終始無視していた雨宮が、ふと倉田に視線を落とした。


「おい、おまえ確か最近アレ使ってたよな」


 倉田は奇跡的に鼻血の出なかった鼻をさすりながら、椅子を立て直した。


「アレって……ああ、アレ。あるよ」


 そう言うと制服のポケットから布のようなものを取り出した。

 そういえば、倉田は最近授業中に眠る時にアレをつけていたな、と天馬は思い出した。しかしそんなこと露とも知らぬシマが不思議そうに問いかける。


「なにそれ」


 倉田は手を広げた。

 アイマスクである。まぶたを覆う部分にパッチリと開かれた目が印刷されていた。


「けど、これがなんなんスか?」


 八木の発言を雨宮は一端無視し、逆にシマへ質問する。


「シマ、アンタ……麻雀始めたのいつ頃からだ?」

「昭和三十三年、雷鳴轟く嵐の夜から……」

「相当長く打ってると思っていいんだな?」


 シマはなぜか残念そうに口をすぼめた。


「まあね」

「じゃあ、盲牌もできるよな」


 そこで天馬は雨宮の考えに気づいた。


(まさか――)

「できるよ」


 シマは、それがなんなのかと言わんばかりにきょとんとした様子だ。

 天馬は歯軋りする。

 なぜ気づかなかったのか。アイマスクの用途なんて、ひとつしかないじゃないか。


「お、気づいたか馬場。クズでもたまには頭が回るんだな」

「……ああ。つまりそのアイマスクをつけて、闘牌しろっていうんだろ。

 そうなりゃシマは一切ロンアガリできなくなる……」


 いままでシマは相手の心理や捨て牌から的確なヨミを展開しアガリを拾ってきた。

 それが視界を閉ざされればすべてシャットアウト。

 ツモアガリしかできず、また他者への振り込みを避けることもできない。

 天才が、一瞬で木偶人形と化す。

 絶体絶命。

 しかし、と天馬は思った。現在、東ラスで残るは南場。トップの雨宮とは微差で二位。

 それなら、ツモだけでいくことも可能なのではないだろうか。

 役はどうでもいい。平和でもタンヤオでもツモアガって四局流せば、それで勝ち。

 可能性は低いが、まだ逆転の目が潰されたわけではない……。

 それにシマなら、この程度の奇跡、易々と起こせる。そう思えた。

 そして天馬は思い知ることになる。

 すでに状況は最悪で、ここはそんな希望的観測を述べていられるようなところではないのだと。


「………………。

 残念…………」

「は……?」


 雨宮の目が弧を描いて歪む。


「俺がそんな軽い罰で済ませると思うか……? 見せしめにならないだろう、それじゃ……」

「なに言って……」


 シマの両目を、雨宮は指差した。

 彼女は黙って、受け入れるように雨宮を見つめ返していた。





「おまえは両目を潰すんだ、嶋あやめ」





 しいん……と場は静まり返った。いつからカガミはBGMを止めていたのだろう、と天馬は場違いなことを考える。

 雨宮の言ったことが脳に浸透していかない。いや、拒否しているのだ。音として受け取ったが、脳が意味を汲み取らない。


 オマエハ両目ヲ潰スンダ、シマアヤメ。


「なんで……」


 意図せず、目に涙が浮かんだ。


「どう、して……なんで……そんな……」


 雨宮は平然としている。まるで普通だった。異常なのに、自然だった。

 狂っている。


「目を覆ったくらいじゃあ、ツモアガられる。

 けど……両目を失い、眼孔から流れ続ける自分の血にまみれながら打つとなれば……いくらシマでも動揺せずにはいられない。だろ?

 勝つってコトは、奪うってコトだ。封じるだけでどうする? 復活するかもしれないだろ? なにか妙案を考え出されてしまうかもしれない。

 だったら解決策はたったひとつ。

 敵は殺す。完膚なきまでに殺す。徹底的に、容赦はしない。

 それが俺のやり方。必勝法。

 見誤ったか、シマ?」

「待てよ……それはダメ……おかしい……」


 まだ食い下がる天馬を、うっとうしそうに雨宮が睨みつける。


「だって……だ、だってシマは……おまえに右目を賭けさせたけど……両目って……ふ、不公平だろ……」


 ハア。


「賭けは『お互いの言うことをひとつ聞く』だろ?

 シマは最初に『右目をもらう』と宣言した。それがやつの要求。

 俺は今、『両目をもらう』と宣言した。それが俺の要求だ。

 どこが問題なんだよ?

 お互いに言うことをひとつ聞く。

 べつにその要求の価値を平等にする必要はないだろう。

 要求なんて人それぞれ、無限の価値があるんだから。キリがねえんだよ、おまえの言い分」


 う……と天馬は言葉に詰まる。助けを求めてカガミを見るが、氷の視線が反射してきただけだった。

 つまり、雨宮の言い分は理に適っているというコト。

 次に天馬のすがる先は、当然ながらシマ。

 しかし彼女は文句も不平もこぼさず、ただ自分の手牌を見つめているだけだ。

 ここで天馬が降りれば、失われる。

 シマの両目が。

 その白い頬から指が目尻へと這いずり、忍び込み、視神経を束ねた眼球を抉り出す……。

 そんなイメージが天馬の脳裏に閃いた。許されない。許してはならない。


「お、おま、おまえの、要、求は……」


 涙がぼろぼろと頬を伝う。しかし言葉を発さないわけにはいかない。


「ま、麻雀が……打てなくなるから……ダメ……」

「目が見えなくても打てるって言ったのは、シマ自身だぜ。

 それに、目をもらうこと自体が闘牌不能になると思ってたんなら……

 最初から右目もらうなんて言うなや。

 自分らは好き勝手するけど、こっちはダメなんて……通るわけねえだろ?」


 すべて雨宮の策略だったのだ。シマから言質を引き出し、この状況を創り上げるための……。

 流れるような理の前に、天馬はなすすべを失った。へなへなとその場にへたりこむ。


 どうして……。

 どうして人に、こんなにも冷たく、辛く、残虐になれるんだ……。


 やがてシマが口を開いた。


「つまり、次の……ええと、南場か……それから、わたしは目を潰して闘牌しなきゃならない。そういうコト?」

「それ以外になにがある?」


 シマは席を立った。全員の視線を一身に浴びる少女の顔からは、常に携えていた余裕と微笑みが消失していた。


「長めの休憩が欲しいんだけど、いいかな。

 少し……覚悟がいる」


 雨宮の眼光が鋭くなった。


「逃げるなよ」

「わかってる。次、この席に座ったとき……わたしは大人しく、目を潰す。それでいい?」

「ああ、いいとも。

 せいぜい最後の光景を目に焼き付けておくんだな……。

 ク……

 ククク……

 アッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ……!」


 シマに引きずられるようにして出て行く天馬の耳に、いつまでも雨宮の笑い声がこびりついて、反響していた。

 ハハハハハ……。




「ほ、ホントに勝っちまった……雨宮の言ってたとおりに、八木から鳴いただけなのに……」


 天馬たちが立ち去った後の倉田の発言である。その顔は雨宮への尊敬と驚愕に満ち溢れている。


「どうして、あんなにうまくいったんすか? なにか仕掛けでも……?」


 雨宮はフーと紫煙を吐き出した。久々の一服である。


「ねえよ、そんなもん」

「え……じゃあどうやって……」

「どうやって、ってのが間違ってたのさ。

 認めるのはシャクだが、アイツは底なしの天才。こっちの策なんざ筒抜けだ。なにをやっても無駄無駄無駄。

 だが、同時に異常者でもある。

 ヤツは才能に溺れすぎてて、わかんねーのさ、引き際ってのが。だからこっちの無茶なギャンブルにも平然と乗ってくる。

 現実ってのが見えてないんだ。だから破れる。

 ただ、ヤツの強運と理を崩すには、普通のやり方じゃダメだった。

 理の外の策……そういうものが必要。

 あのラストの倉田のポンがそれだ。

 あの時、倉田の手はバラバラ。鳴いたからって手が進むわけでもない、通常ありえぬ鳴き。

 しかしそのありえぬってトコが、シマを撃つ唯一の突破口だった。

 ヤツはツモるつもりでリーチをかけた。そしてツモ番を変えてやれば……強運と破滅が逆転。あれよあれよという間に純カラだ。

 危ういんだよ、あいつは……。王の資質は持っちゃいるが、常勝の仕方がまだまだ未熟。

 だから狩られることになる……

 本物の魔王にな」



 シマ:40300

 倉田:3700

 雨宮:41200

 八木:14800

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