第59話
「はい終わりー先生帰るー」
三限目の世界史は、五分前に先生が気だるげに授業を切り上げる形で終わりを告げた。
世界史の種崎先生は授業こそわかりやすく、ユーモアを交えた面白いものだけど、如何せんやる気というものが感じられず、生徒からは人気なものの学年主任の先生からは目をつけられている。なお、本人はそんなことお構いなしに授業を切り上げるのだけど。
チャイムがまだ鳴ってないとはいえ、休み時間は休み時間だ。クラスメイトたちは各々の席を離れ、教室の中は途端に騒がしくなる。
私は何の気なしにトイレへ足を運ぶ。女子トイレというものは素晴らしい。だって個室だから。加えてうちの学校のトイレは、数年前に行ったという改装のお陰でやたらと綺麗だ。そのせいで長居する生徒が増えたらしい。
個室に入り、暖房便座に腰掛ける。用を足す訳ではないので腰を下ろすだけだ。私は時折、こうして意味もなくトイレに来るのだけど、それを唯に伝えたところ全く共感はしてもらえなかった。
何をするでもなく満足いくまでボーっとした私は個室を出て教室に戻ることにした。
その時だった。廊下に対して直角になっているトイレの入り口からぬっと人影が現れた。
「あっ」
その姿を目にした瞬間、心拍数が跳ね上がるのを自覚する。思わず駆け寄りたくなる衝動を押し殺して私はその名を呼んだ。
「矢来さ――」
だけど、私が言い切る前に人影の正体こと私の恋人である矢来さんは回れ右をして、まるで私から逃げるようにトイレから出て行ってしまった。
その衝撃的な光景に目が潤む……は言い過ぎだけど、マジで泣きそうになったところで、矢来さんは再度トイレに戻ってきた。
「矢来さん? あなた、何して」
私が話している途中で、またも言葉は遮られる。もっとも、さっきのは私が驚いて自分から口を閉じたのだけど今回は違う。
トイレへ二度目の登場を果たした矢来さんは、迷うことなく私に接近してきたかと思えば、何の躊躇もなく抱きついてきた。
「ちょっ矢来さん、ここ一応学校なんだけど!」
「大丈夫、さっき確認したら廊下に誰もいなかったから。ちょっとだけ、ね?」
私の顔を見るなりトイレから出て行ったのは、廊下の人気を調べてたのか。
「……わかった。ちょっとだけよ」
「うん」
それから、言葉もなく矢来さんは私を抱き続けた。と言ってもそれは束の間。割とすぐに私は解放される。
「いつかはこうやって、海道さんと抱き合える日がくるのかな」
「いや、学校で抱き合う予定なんてどこにもないわよ」
「あれ? わたしと教室で堂々とイチャイチャするために頑張るって言ってなかった?」「誰もそこまで言ってない」
「これがすれ違いってやつなのかな」
すれ違いというか、矢来さんが勝手に私を追い越してるだけというか。
私と矢来さんがそんな話をしていると、廊下から足音が届いてきた。
接近してくる人を察知した矢来さんはさっと私の耳元に口を寄せ、
「じゃあ、わたしは先に戻ってるね」
と小声で言って、去っていた。
そして入れ違う形でトイレに入ってきたのは唯だ。
洗面台の前に突っ立ってる私を見て、唯はニマニマと意地の悪い笑みを浮かべる。
「……なに、その顔は」
「いやあ、お熱いねえと思って。トイレで密会?」
「たまたまよ、たまたま」
とはいえ、事情を知っている唯からすればそのように映っても無理はない。
「で、実際何してたの? まさかバレたら退学処分になるようなことはしてないよね?」
「……してないわよ」
「おい、なんだその間は」
唯が若干焦りながら詰めてくる。
しかしそう言われても、ハグが退学処分案件なのか判断できなかったのだ。
「見られたのがあたしでよかったね」
「そもそも私と矢来さんがトイレ一緒にいても、唯以外に勘ぐる人なんていないわよ」
「それもそっか」
「だから忘れなさい」
「安くないよ?」
「……ジュース奢ってあげるから」
「わーい」
スキャンダルを強請に使うなんて、この子本当に私の親友か?
「でも、こうやって隠れてしかお話できないなんて不便だね」
「そうなのよ。だから、どうにかしないと」
「ふーん。ま、あたしに出来ることがあったら言ってね。暗躍してあげるから」
手をこねて悪人のように振る舞う唯。だけど言っていること自体は完全にいい子だ。
「じゃあとりあえず、私と矢来さん以外のクラスメイト消してくれる?」
「無理だし、目がちょっとマジなの怖いよ?」
……私としては軽い冗談だったのだけど、唯には引かれてしまった。
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