第56話

 あれから、ずっと寝転がってイチャイチャしているのもどうかという話になり、それならと矢来さんが提案してきたのはまさかの勉強だった。

 矢来さんの成績が良い理由が垣間見えた瞬間だ。とはいえ、私たちは来年には受験生であって、二人とも進学を考えているので悪くはないだろう。

 それに、矢来さんとなら多少は楽しくできるはずだ。そう思って私は矢来さんの提案を承諾した。

 あらゆる教科において私の上を行く矢来さんによる授業は、こう言ってはなんだがとてもわかりやすかった。

 言葉選びの下手な矢来さんのことだから要領の得ない説明をされるのかと思いきや、私のミスに的確かつ簡潔な指摘を入れてきたからビックリだ。頭がいい人は教えるのが上手いっていうのは本当らしい。

 直に訪れる学年末テストの対策をしていたところで、結構いい時間になっていた。もう冬が近いこともあって暗くなっている。

 ぐぐっと伸びをして一息ついてから私は言う。


「ふー、私はそろそろ帰ろうかしら」

「えっ、わ、ホントだ。もうこんな時間」


 壁にある掛け時計を確認した矢来さんが驚く。


「勉強してるとすぐ時間経っちゃうね」

「私はそんな風に思ったことは人生で一度もなかったけど」

「けど?」

「まあ、今日は楽しかったかしら」

「んへへー、それは何よりだよ」


 私がデレたからか、矢来さんが少し距離を詰めてくる。と言っても、元々並びあって机に向かっていたから既に密着しているような状態だ。


「ね、海道さん。今はどうかな?」

「え? あ、ああ……」


 主語のない質問に思わず首を傾げかけたところで、矢来さんが言わんとしていることを察知する。私の言いつけを守って、律儀に確認を取ってきているのだ。


「まあ、いいんじゃない?」

「やった」


 私が許可を出すと、待ってましたと言わんばかりに矢来さんは私の身体に腕を回し始める。ものの一瞬で私は矢来さんに捕らえられてしまった。


「い、言っておくけど、あんまり激しいのはダメだからね」

「わかってるよ」


 本当かな……。

 若干どころか大分心配に思ったものの、こればかりは矢来さんを信じるしかない。

 私は目を閉じてその瞬間を待つ。矢来さんの微かな鼻息が顔にかかり、それを合図に矢来さんの唇が重なってくる。

 前もって注意をした甲斐あって矢来さんが舌を入れてくることはない。その代わり、やたらと唇を押し付けられている。

 いつもより長い接吻だった。

 ゆっくりと矢来さんが離れていく。少し、後ろ髪を引かれるあたり私も飼いならされてしまっている。


「ん……海道さん、好きー」

「わっ」


 キスを終えた矢来さんはホクホク顔でそう言ったかと思えば、その胸に私を抱き寄せてきた。圧倒的な質量を持つ豊満な胸に顔面をする形になる。

 顔で感じる柔らかさと、矢来さんの匂いで勉強で凝り固まった脳がほぐれていく。

 人をダメにするソファーなんてものが世にはあるけれど、比ではない心地よさ。

 ポンポンと子どもをあやすように矢来さんが私の頭を撫でてくる。うっとりとした微睡がじわじわと身体を浸食していく。このまま眠れば、どれだけ気持ちがいいだろうか。

 そんな甘く抗いがたい誘惑を何とか振り切って頭を上げる。


「やっぱり海道さん、わたしのおっぱい好きだよね?」

「だったら何か悪い?」


 感じ悪いと思いつつも、その点において素直になるのは些か恥ずかしい私は持ち前の天邪鬼を発揮してしまう。


「ううん、むしろ嬉しいよ。いつでも飛び込んできてオッケーだからね」

「ま、その気になればね」


 私からその胸に飛び込む日が来るかはさておき。


「さて、矢来さんの胸も堪能できたことだし、今度こそ帰るわね」

「……だよね」


 全身で悲壮感を醸しながら矢来さんが諦観したように頷いた。

 だけど、残念そうにしていたのはその刹那だけで、瞬きをするといつも通り笑顔の矢来さんだった。


「なら、駅まで送るよ。もう外も真っ暗だからね」

「そう? じゃ、お言葉に甘えて」


 私は荷物をまとめて立ち上がり、玄関へ向かう。その後ろを矢来さんもついてきた。

 

「お邪魔しました」

「はーい、またいつでも来てね」


 と、言いつつ矢来さんも私と共に家から出てくる。

 矢来さんが鍵の施錠をしたのを確認して、私は歩き出した。

 数歩先を行く私の隣に矢来さんがすぐに追いつき並び立つ。

 そして、どちらからでもなく自然な流れで手を取り合った。今更、矢来さんの表情を伺う、なんてこともしない。

 駅まで、と言ってもものの数分だ。その僅かな間、私たちに会話はなかった。その代わり、名残惜しさが歩く遅さに表れていた。

 いくら歩調がゆっくりとはいえ、それでも改札口まで辿り着く。帰宅ラッシュの時間帯ともあって、なかなかに混雑していた。


「ここまでで大丈夫よ。見送り、ありがとうね」

「うん」

「だから、その、手を離してもらわないと……」


 と言ったものの、振り払うのは躊躇われる。だから、矢来さんが繋いだ手を開くのを待っていた。


「また、一週間だね」


 しかし、矢来さんからもたらされたのは的を射ない言葉だった。


「えっと……?」

「海道さんとこうやって直接お話出来るのは、多分次のお休みだよね。もちろんラインは毎日送り付ける予定だけど」

「……そうね。それに関しては私が悪いから、ごめんなさい」

「あ、違うんだよ。別に海道さんを責めたい訳じゃなくて」


 もちろん、それはわかっていた。これは私自身を奮起させようとしているだけで。口にすることで、事態の早急な解決を自らに課しているのだ。


「あー……ごめんね、わたし何がい言いたいんだろ」

「いいのよ。ようは寂しいってことでしょ?」

「寂しい……。うん、そうなのかな」

「それに関しては私も同じよ。だから、学校でも矢来さんと一緒にいられるように頑張るから、それまで待ってて欲しい」

「うん……! 待ってる」


 私の決意を聞いて矢来さんは安心したのか、ゆっくりとその手を離した。

 一歩、改札の方へ足を進め、ICカードをタッチして通り抜けて振り返った。

 

「じゃあね、矢来さん」

「うん、またね!」


 周りの通行人のことなんて気にもせず、矢来さんは大きな声と派手なモーションで手を振って私を見送る。

 私は矢来さんみたいには出来ないから、胸のあたりで小さく腕を振ってプラットフォームへ続くエスカレーターへ向かった。

 動く階段にその身を任せる。改札口が見えなくなる前に、私は再度振り返る。

 目に映るのは、手こそ振ってはいないけれどプラットフォーム階へ消えていく私をずっと見ていただろう矢来さんの姿。

 私と目が合った瞬間、その顔に花が咲く。

 わずか数秒間のことだった。私を乗せたエスカレーターはもちろん止まることはなく、すぐに矢来さんは見えなくなってしまう。

 それでも、矢来さんの笑顔は脳裏に焼き付いて離れない。

 

「……よし」


 誰に聞かせるでもなく、口の中で覚悟をきめた。

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