第42話

「ただいまー」

「お邪魔します」


 スーパーからの道をきちんと手を繋いだまま、私たちは矢来さんの家にたどり着いた。

 

「綴、遅いーお腹空いた……って律ちゃん?」


 駄々をこねる子供のような口調でリビングから顔を見せたのは矢来さんのお母さん。

 私の姿を認めて目を丸くしている。


「すいません、突然お邪魔しちゃって」

「わたしが夜ご飯うちで食べようって誘ったんだ」


 私を庇うためか、はたまた事実を口にしているだけか矢来さんはそう付け加える。


「んー、まあ作るのは綴だし好きにしてくれていいけど。とりあえずお腹空いた」

「はいはい、お母さんは座って待っててくれたらいいからね」


 矢来さんが人をいなしているのは新鮮だ。それも相手が母親なのが面白い。

 二人に続いて私もリビングへ。ダイニングテーブルには、既に開かれたビールの缶。晩酌中だったようだ。


「すいません、ゆっくりしてるところに来ちゃって」

「ん、いいのいいの。律ちゃんには醜態はもう見せちゃったし」


 たしかに前もお酒飲んでたな。


「ちょっとお母さん! お米ぐらい炊いておいてよ。お腹空いたって言うんならさ」


 炊飯器を確認した矢来さんが怒っていた。


「ごめんごめん、忘れてた」

「もうー」


 どっちが親だろう、これ。


「お母さんお風呂は?」

「まだだけど」

「そうじゃなくて! 洗ったかどうか聞いてるの!」

「ああ、そっち。もちろん洗ってない」

「もう!」


 ここまで怒りをあらわにしている矢来さんは初めてだ。いや別に本気で怒っているわけではないだろうけど。


「ちなみに私は酔っぱらってフラフラなので、今風呂掃除したら滑って転んで頭打って死ぬ」

「もういいよ……。お母さんは喋らないで」

「あのー、よければ私がお風呂洗っておこうか?」


 なんだか見ていられず、そう提案してみた。

 

「え、いやいやいや、海道さんはお客さんだしそんなことしてもらうわけには」

「ご飯ご馳走になるし、そのお礼的な」

「え、ええー……」

「じゃあ律ちゃんお願いしていい?」


 逡巡する矢来さんをよそに、矢来さんのお母さんは私の申し出を簡単に受け入れた。


「ちょっと、お母さんは黙ってて」

「まあまあ、いいじゃない。分担作業って、なんだか新婚さんみたいね」

「新婚さん」


 矢来さんが言葉を反芻する。心なしか、その目が輝いていた。

 というか、矢来さんのお母さんは私たちの関係をわかっててそう言ったの?

 いや、まさか……。正式に想いを通じ合ったのはついさっきのことだし。


「…………すごく申し訳ないんだけど、海道さんお風呂洗いお願いしていい?」


 結局、新婚さんというマジカルワードに負けた矢来さんが折れた。

 

「うん、任せて」

「洗剤とかスポンジの場所は」

「前にお風呂入った時に確認したから大丈夫よ」

「そっか、ならごめんだけどよろしくね」


 最後まで申し訳なさそうな矢来さんを尻目に私は脱衣所へ向かった。

 洗面台の隣にある棚に洗剤とスポンジがあったのでそれを手にする。

 自分で言いだしたこととはいえ、人様の家の風呂を洗うなんて機会そうそうないだろう。ちょっとだけ気合いをいれてやろうかな。

 そう思った時だった。

 私の視界の端にあるものが映る。ほんの一瞬、よぎっただけ。

 それでも無意識に私はそちらを向いていた。そこには洗濯カゴ。洗濯機に入れる前の衣服を収納するところ。

 その最上、一番目に付くところにそれはあった。

 恐る恐る私は手を伸ばす。そして摘み上げるようにして、目的のものを手中に。


「……いや、でっか」


 思わず声が漏れてしまった。

 デザイン自体はシンプルながら、そのサイズ感は尋常ではない。

 ……矢来さんのブラジャー。

 生乳も見たことがあるのに何をいまさらって感じだが、着用していないものをまじまじと見るのは初めてだ。

 私の頭ぐらいなら収まりそうだな。流石に被りはしないけど。

 

「ごめん海道さん、たしか洗剤切れてた……よね」

「ふぎゃぁっ」


 血の気が引くとともにとんでもない声が弾けた。

 振り返ればそこには矢来さん。


「海道さん!? どうかしたの?」


 私が珍妙な声を出したからか矢来さんが慌てたように近寄ってくる。

 しかし、それはマズイ。私の手には見られたらいけないものがある。


「な、なんでもない。急に声かけられてびっくりしただけだから」


 私はそう言って矢来さんを追い払う。

 

「そう? ならいいけど。あ、新しい洗剤はこれだよ。悪いけど詰め替えてもらえるかな」


 私の苦し紛れの言い訳をすんなりと受け入れた矢来さんは、戸棚から詰め替え用の洗剤を取り出して私に差し出てきた。

 

「あ、うん。わかった、任せておいて」

「ごめんね、掃除なんてさせて。それじゃあわたしは戻るから。適当にさっと洗ってくれたらいいからねー」


 矢来さんが去ったのを確認してから、私は背後に隠していたブラを急いで脱衣かごに戻しておいた。

 危うく、もう少しで変態の烙印を押されてしまうところだった。

 矢来さんはああ言っていたけれど、心を落ち着かせるためにも私は念入りに風呂掃除をすることに決めたのだった。心頭滅却。

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