第38話

「結構いい時間になったね」


 複合商業施設を出た矢来さんは、僅かな赤みを残しながら暗くなっていく最中の空を見上げる。

 あれから、何をするでもなく私たちはブラブラとあてもなくウィンドウショッピングに勤しんでいた。


「時間は、っと」


 矢来さんがスマホを取り出して、時刻を確認しようとする。

 だけど、一向に画面を見ようとする気配がしない。

 矢来さんはスマホにぶら下がっている、キャラクターのキーホルダーに目を奪われていた。なんだか虚無みたいな顔をしたクマのキャラクターで、どうやら流行っているらしい。

 ロフトに行くと、そいつの特設コーナーがあり矢来さんが飛びついていった。


「うへへ……」


 揺れるキーホルダーを見て矢来さんは笑う。矢来さんでなければ犯罪みたいな声だ。

 どうしてキーホルダー如きでそこまでと思うだろう。

 もちろん矢来さんは元々そのキャラクターを好きだったらしい。それに加えて……。

 私はそっと、手だけで鞄を確認する。そこには、矢来さんとお揃いの――厳密には同じクマのキャラクターが、矢来さんのものとは別のコスプレ? をしているキーホルダーが付いている。

 矢来さんがお揃いにしたいとごねたのだ。私はそれに折れた形になる。

 まあでも、お揃いのキーホルダーってところには私も魅力を感じたので、受け入れた。


「それで、今は何時なの?」


 キーホルダーに目を奪われるばかりで、本来の目的を忘れている矢来さんに問う。


「あ、十九時ちょっと過ぎだよ」

「そう、ありがとう。夜ご飯はどうする?」

「もちろん一緒に! と言いたいところなんだけど……」


 矢来さんはあからさまに肩身を落として、しょんぼりとする。


「お母さんのご飯作らないとなんだよね」

「そういえば、台所は矢来さんが仕切ってたわね……」

「だから、帰らないとお母さんが餓死しちゃう」


 つまりそれは、私とディナーには行けないという宣言。

 矢来さんのことだから、私を優先する可能性もあった。

 でも、矢来さんはお母さんを選んだ。だけどそこに悔しさとか、残念といった負の感情は存在しない。

 むしろ、やっぱり矢来さんは優しいなと改めて実感した。

 会話の流れから解散する方向になったので私たちは手をつないで駅の方へと歩き始める。


「なら、仕方ないわね。今日はここでお開きにするしか――きゃっ」


 足を進めながら私が締め括ろうとすると、突然身体が少しだけ宙に浮くような感覚。

 その正体は、矢来さんが私と繋いでいる方の手を大きく挙げていたことからくるものだった。

 私よりもずっと身長の高い矢来さんに引っ張り上げられるような形になっている。


「よし、海道さん。海道さんもうちに帰ろう」

「な、なに急に。というか、腕降ろして!」

「あ、ごめんね。妙案が思いついて、つい」


 良い思い付きがあっても、人は腕を上げないと思う。


「それで、さっきのはどういう意味?」

「海道さんもうちでご飯食べて帰らない?」

「ああ、そういう。矢来さんの作った夕飯に、私も同席するのね」

「そうそう。どうせ作るのはわたしだから、お母さんは文句言えないし。そもそも海道さんなら、お母さんも歓迎してくれるけど」


たしかに、矢来さんのお母さんからはいつでも来てくれて構わないと言われた覚えがある。とはいえ、断りもなしに突撃隣の晩ごはんするのもどうかと思うが。


「もちろん、海道さんが大丈夫なら……だけど」


 矢来さんが最後に控えめに付け足す。そう言いつつも、矢来さんはあからさまに私の顔をチラチラと何度も往復するように見てくる。遠回しに圧力をかけられていた。


「まあ、迷惑被るのは私じゃないから、構わないわよ」

「やった!」


 捨てられた子犬のような表情から一転、百点満点の笑顔で矢来さんは喜んだ。

 本音を言えば、私にその誘いを断る理由はない。少しでも矢来さんとの時間が伸びるのだから、渡りに船だ。

 目的地が矢来さんの家になった私たちだが、ひとまず駅へ向かうことには変わりはない。

 駅まで若干のショートカットになるので、少し人通りの少ない高架下の道を行く。大通りから筋を一本離れただけで、喧騒が遠のいた。


「あっ、ここ」


 声をあげながら矢来さんがはたと足を止める。手を繋いでいる私もつられて立ち止まった。

 矢来さんの視線の先、そこはもはや因縁とも呼べる場所だった。


「……なんだか、あの日が懐かしいわ」


 遊具の一つもない、名ばかりの公園を眺めて私は言う。


「たしか始業式の日だったよね? ここで海道さんと彼氏さんを見たの」

「多分」

「なんで海道さんの方が覚えてないのさ」


 なんで、と言われても。

 どう考えたって、矢来さんが原因だ。あの日ここで起きた事。それは今でも鮮明に、それこそ動画で記録したかのように思い起こすことができる。

 翔也にこの公園に連れ込まれ、キスを迫られていた私を、矢来さんが助けてくれた。

 そこまでは良かった。しかし、その後矢来さんはあろうことか、私にキスをしてきたのだ。あの衝撃は忘れられない。

 価値観が変わるだとか、そんな陳腐な表現では言い表せない。キスのひとつで、私は根幹から捻じ曲がってしまった。

 だから、私の脳内ではあの日は始業式ではなく、矢来さんにキスをされてしまった日としてインプットされているのだ。


「そういえば、長らくキスしてないね? 初めてわたしの家に来た時以来かな」

「そんな頻繁にするものではないでしょ」

「それもそうなんだけどね。あ、あの時に撮った写真まだ残ってるよ」


 写真、と言われてすぐに思い当たるものがなかった。

 あの時と言うには、私が初めて矢来さんの家を訪問した時のことだろう。あの日の私は、矢来さんにぎゃふんと言わせる――もとい、キスをしてきたことを謝罪させようと意気込んでいた。

 それで、私は矢来さんにもう一度キスをされることになったのだ。私が無反応だったら、矢来さんが罪を認め謝罪すると言うから。

 しかし、結果は私の負けだった。

 なぜなら――。


「なっ、あれ消してないの!? 私あんな顔してたのに!」


 思い出してしまった。

 そうだ、私はキスをした直後の顔を矢来さんに激写されていた。その顔はトロンととろけていて、とてもじゃないがキスを嫌がっている人の顔ではなかったから、矢来さんは勝ち誇っていた。


「消すわけないよ。なんなら、時折見返してるし」

「――っ!」


 声にならない声が喉から掠れ出る。嬉しいのか悲しいのかすらわからない。

 ただ、暴れ出したいことに相違はなかった。


「……お願い、消して」


 蚊の鳴くような弱弱しい声で私は懇願する。


「え、えぇー。どうして?」


 矢来さんは不満たらたらに食い下がってきた。


「恥ずかしいからに決まってるでしょ! あんな、あんな……」

「あんなエッチな顔?」

「言わないでよ!」


 なんのために濁したと思ってるんだ。というか、やっぱり矢来さんもあれをエッチな顔と認識しているらしい。それでいて見返しているって、変態じゃない?


「まあ海道さんがそこまで言うなら消すよ。名残惜しいけどね」


 渋々と言った風に矢来さんはスマホを取り出して操作を始める。どうやら画像は消してくれるらしい。

 何度か画面に触れた後、矢来さんはスマホを私に見せて、


「はい、ちゃんと消したよ」

「……ありがとう?」


 礼を言うのが正しいのかどうかはわからないが、取り敢えず感謝しておいた。

 しかし、私が下手に出たからか、矢来さんはは不敵な笑みを浮かべ始めた。


「でも、わたしの秘蔵画像を消したんだから、それなりの対価は支払ってもらいたいな」

「対価って何? ま、まさかお金?」

「わたしが海道さんから貰いたいものなんて一つしかないよ」


 言葉と同時に、矢来さんは私と繋いでいた手を離す。けれど、距離は更に縮めて鼻の頭同士がぶつかりそうなまでになる。

 まつ毛の本数まで数えられそうだ。

 矢来さんの熱い吐息が、私の頬をくすぐる。その熱は私に伝播して、全身を昂らせていく。

 私の身体に矢来さんの腕が回された。腰のあたりを抑えられ、身体が密着する。

 身長差があるせいで、見上げないと矢来さんの胸に顔が埋まってしまいそうだ。

 この場所で、この状況。思い返すは、あの日のこと。

 潤んだ瞳で、熱っぽい息を吐きながら矢来さんは言う。


「わたしと、キスして欲しいな」

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