第21話 帰還

 矢来さんのお母さんの帰宅を待って、何をするでもなくダラダラと時間を潰していた。

 私が黙っていても矢来さんは勝手に話を始めるので、そういう意味では飽きの来ない人なのかもしれない。


「ただいまー」


 扉が開く音がしてから、玄関の方から声がした。待ちわびていた人の帰還だ。


「ごめんね、律ちゃん。はいこれ」


 矢来さんの部屋に入ってきたお母さんからクリーニング屋の包装を受け取る。中身は当然、私が昨日着ていた服だ。


「わざわざありがとうございます」

「いいえ、うちの子が悪いから」


 矢来さんのお母さんは、矢来さんにお前も謝れとアイコンタクトを送っている。まあ、矢来さんがそれに気付くことはないんだけど。はて? と首傾げている。


「まあその、こんなんだけど良かったら仲良くしてあげてちょうだい」


 一つため息を挟んでから、お母さんは社交辞令にありがちな言葉を述べる。

 だけど、それが本心なのは昨日知った。


「こんなんだけどよろしくー」


 そんな親心を知ってか知らずか、矢来さんは能天気に続いた。

 こんな娘じゃあ、そりゃ気疲れする。私と目が合ったお母さんは苦笑いをしていた。


「矢来さん次第ですかね」

「そりゃそうだ。とにかく、うちなら何時でも遊びに来てくれていいからね」

「はい、その時はお世話になります」

「……やっぱり律ちゃんいい子ね」


 そんなにしみじみと言われても。あははと愛想笑いしかできない。


「とりあえず着替えさせてもらいますね」

「ああ、そうね。じゃあ私は失礼するわ」


 袋からやたらとふんわりとした仕上がりの服を手に取る。

 それから、今私が着ているパジャマは一人で脱げないことに気づいた。

 

「矢来さん、チャックおろして」

「任されたー」


 矢来さんが私の背中側に回り込みチャックを下ろすと、その拍子にストンと着ぐるみが脱げた。足を引っこ抜いて、矢来さんに返そうとして手が止まる。

 

「どうかした?」


 そんな私のことを矢来さんが不思議そうに見ている。


「いや、汗結構かいちゃったなって」

「そんなの気にしなくていいよ。なんならそのクマさんパジャマ、海道さん用にしようか?」


 何気なく矢来さんが提案してくる。口ぶりからして私がまたこの家に泊まる前提らしい。

 まあ、季節はこれから冬に向かっていく。そうしたら、この着ぐるみも暖かくてよさそうだ。私がまた矢来家に宿泊するかどうはさておき。


「矢来さんのものだから任せる。だけど、ちゃんと洗濯はしてね」

「洗濯しないなんて選択肢があるの?」

「……そのまま着まわすとか」

「どうして?」

「どうしてって……。私の汗がついているから、矢来さんが喜ぶ可能性が」

「人を何だと思ってるんだー」


 矢来さんのそれは間延びした口調だったけど、多分これは普通に怒っている。気持ち、目線が厳しい。

 流石に冤罪が過ぎたかもしれない。


「そうね、いくらなんでも言い過ぎた。ごめんなさい」

「お詫びに、今度は海道さんのお家に行かせてね」

「私が言えた立場じゃないけど、図々しいな?」

「その時はこのクマさんパジャマも持って行くから!」


 どうしてそれで私の矢来さんに対するポイントが貯まると思っているのか疑問だけど。

 しかし、矢来さん、やたらと私の家に拘るな。極々普通の一般家庭のはずだけど。

 妹を見たいんだっけ。でも、調は真面目だからなあ。矢来さんみたいな適当な人種、私は苦手で済むけれど、調はきっと嫌いだ。

 同性愛者を受け入れられる器量があるとも思えない。仮に矢来さんをうちに連れていく時があったら、そのあたりは矢来さんに言いつけておいた方がいいかもしれない。


「そうしたら、そろそろ帰るわ。長居して悪かったね」

「今日も泊まっていいんだよ?」

「そこは、私のせいで泊まる羽目になってごめんね。って言うところよ」

「そうなんだ」


 そこまで気にしてない素振りを見せられると、私がねちっこいみたいだな。

 おかしい。私は被害者なのに。


「……まあ、もういいけど」


 荷物、と言っても急な外泊だったから小さな鞄一つを持って立ち上る。矢来さんも見送りのためか私に倣う。

 矢来さんのお母さんに再度挨拶をしてから、矢来さんと二人でアパートの廊下に出る。

 沈みかかる夕陽を見て、およそ一日と半分をここで過ごしたことを思い知らされる。

 長いようで短い一日――いや、ハッキリ言って時が経つのは一瞬だった。

 矢来さんは良くも悪くも騒がしいからかもしれない。よくわからないけど。

 というか、当初の目的を忘れてかけていたけどキスしに来たんだった。これじゃあ語弊を招く恐れがあるが。

 その本丸も、結局有耶無耶にされて終わった。残ったのは、矢来さんが私を好きだという事実だけ。

 ふと、隣の矢来さんに目をやった。目を細めている。西日が眩しいのかと思ったけど、これは違う。ニヤニヤしているんだ。


「何がそんなに面白いの?」

「面白い、というか、面白かったというか」

「ふぅん」


 何が面白かったのか。なんて聞くまでもない。私がお泊りをしたことだろう。

 そして、今更なんで? と聞くこともない。

 だから、生返事で済ませておいた。深掘りすると、どうしてか私が痛い目を見る気がしたから。

 カツカツと音を立てながら私たちは鉄製の階段を下る。

 なんだか旅行から帰ってきた気分だ。空港から家までのあの気だるさ。それが今、どうしてか私を覆っている。


「それじゃあ、またね」


 そんな胸を占める靄を吐き出すように私は言った。別に心中に変わりはないけど。

 私の別れの言葉を受けて、矢来さんは少し驚いたように目を開いていた。

 かと思えば、矢来さんは寂しさを隠しもしない表情になる。


「またね、か。うん、またね」


 その声音もまた、矢来さんらしくない元気のないものだった。

 私と離れるのがそんなにつらいのか。恋って怖いなあ、と他人事みたいに思った。

 矢来さんが捨てられた子犬みたいな顔(実際に見たことはない) をするものだから、ほんの少しだけ後ろ髪を引かれる思いで駅へと歩きだした。

 しばらくは真っ直ぐ前を向いて歩いていた。途中、交差点を曲がる時に何気なく後ろを振りむいてみた。どうせ、矢来さんはまだ私を見ているだろうと思って。

 予想通り、矢来さんはアパートの前に突っ立ていた。流石にこの距離じゃあ表情までは読めない。だけど、そこは矢来さん。私が振り向いたことに気付くと、滅茶苦茶派手な動作で手を振ってきた。犬がしっぽ振ってるみたい。

 無視するのもどうかと思うので、私も胸の前で小さく手を挙げた。

 表情が読めないなんて言ったけどあれは嘘だ。

 矢来さんはきっと、今頃満面の笑みでこっちを見ている。

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