異世界に行ってきたTS聖女父の日常

ミロ

第1話 父(聖女)帰る

 4畳半ほどの一室。閉じられた遮光カーテンの向こうから僅かに入ってくる光は柔らかで、窓の向こうが曇天であることを窺わせる。

 よく片付いた書斎を思わせる室内は、この家の主であった佐藤幸次が5年前の失踪時そのままである。よく見ると、デスクトップ型パソコンが設置されているデスクや床、本棚などに埃は無い。この部屋は放置されているのではなく、人の手で定期的に掃除されているのだと判る。

 幸次が建築時、クローゼットにするつもりのスペースを、妻に無理を言って書斎にしてもらった城。デスクの中には、スコッチの瓶とグラス、それに少量の乾き物を用意しており、僅かな間であれば籠城も可能な空間。もっとも、籠城戦は腹を空かせた幸次の投降で終結するのが常であったが。

そんなありふれた、しかし、同僚に聞かせると誰もが羨む何の変哲もない書斎だけれど、よく掃除された家族の愛情を窺わせる書斎だ。


 しかし今は、その埃一つない床……ドア付近に、薄暗い部屋を満たす光を放つ不可思議な紋様がなければ、という但し書きが付くのだが。


 紋様は、しばらくその輝きを放つだけであったが、突然ドクン……という音ともにまるでその紋様を描く線が人体の血管であるかのように脈打ち始めた。そして、光は徐々に増し……あまりの光量に紋様自体が目視では確認できないくらいになると、その光のスープの中央から、小さな白い手が現れた。

 白い手は腕の第一関節までスープから出すと、辺りの床を確かめるように叩き、叩いた床を手掛かりにしたのか、フードに覆われた頭まで出し、辺りを窺う。


 美しい少女であった。フードからこぼれ出る髪は薄い金の糸。きょろきょろと辺りを窺う大きな目は、深い緑色だ。青白くさえ見える肌は滑らかで、少なくとも差し出されている腕と顔はシミひとつない。しばらく辺りを窺い、安全を確認したのか満足そうにひとつ頷くと……

 小ぶりで桜色をした唇を動かし、鈴の鳴るような声で「どっこいしょ」というどこか風貌に似合ってない掛け声とともに、跳ねるように全身を現わし、書斎の床に降り立った。


「成功だ」


 デスクの上、本棚を懐かしそうに愛おしそうにその指で撫で、部屋の中をぐるぐる歩き回る。書斎に立ったその時から大きな目からは涙があふれているが、本人はそれに気が付かないかのように歩き回っている。


「やっと帰れた。やっと」


 あの屈辱と悲しみの涙ではない、暖かい涙が頬を流れる。


「んっく、はやく荷物持ってこないと、消えちまう」


 5年間留守にしたのだ。恐らく失踪届も出されているし、死亡扱いなのだろう。この容姿だし、性別まで変わってしまった。向こうに呼ばれた時の荷物は大事に隠してある。それに、家族に異世界の土産もあるし……今持ってきているのは書斎に常備する予定の異世界の酒と肴だ。それにいつもナイフ代わりに使っている聖剣。

 それを床の上に置き……一旦向こうの世界に戻ろうと振り向いたとき。


むぎゅ。


 涙で目が霞んでいたのもある。書斎が4畳半弱という手狭であったこともあるが、術式の紋様がでかいんだよなぁ……魔法横丁の悪友はもう少し、こう、コンパクトに作れなかったのかねぇ……そもそも踏んづけただけで壊れる魔法陣ってどうなのよ。と現実逃避をしている間にも。


 踏んづけた箇所から盛大に漏れ出す魔力と、見る間に失っていく光を呆然と眺め……向こうに陣の設計を手伝ってくれた友人が荷物を持って待っててくれていることを思い出し、慌てて再起動するのであるが……


「あわ、あわわわわ。消えてます。なんか消えてます。しゅーって」


 本当にあわてると、あわわわわと言っちゃうものなのである。


 「あ、おい! ディアーナ! お前、なにやってんの!? 何壊しててるんだよ!? 最後の最後でドジっ子かよ!」

 陣の向こうから声がする。魔力を載せないと、こっちには届かないのに、こんな器用なことができるのは、自分と悪友の魔女くらいのものだ。


「なんにもしてない!なんかしゅーって!全然踏んづけてない!」

「なんにもしてないって奴に限って何かしてるんだよ!って踏んだの!?」

「今度作るときはもうちょい頑丈につくれよな!」

「一人で作れねぇよ……そっか、これでお別れだな。元気でなハニー」

「誰がハニーだ。そっちも。いろいろありがとうな」

「ああ、もう消える! おい、き……るか!? あ……し……ぞ! わす……る……よ!」


 魔法陣が消える。最後は聞き取れはしなかったが、大体何を言っているのかは判る。が、こっちはそれには答えられないのだ。


「ああ、その言葉は俺にとっちゃこの上なく不愉快な言葉だが、わたしが死ぬまでそっちにいれば受けちまった言葉かもしれんな」


 最後のドタバタですっかり引いた涙の残滓を拭き取ったとき、階段を勢いよく降りてくる足音が聞こえた。

 拙い。いろいろ用意してたのに、それらは向こうに置いてきてしまった。自身の見た目を変化させる術は知っているが、触媒が必要で、それも向こうの世界に置きっぱなし。


 向こうにいたときは、出合頭に当身を食らわすなり、睡眠術をかける手もあるのだが、そんな物騒な手を家族に対して使うわけにはいかないし。

 どうしよう。どうしたら。


「ああ、わたしテンパってます。物凄く停止してます。頭が」


 もう書斎のドア付近まで足音が近づいている。

 足音の軽さは娘の美衣だろうか。そっか、確か高校3年くらいか。ちょっと重くなったかな。こんなこと言うとまた嫌われるから本人には絶対言えないけど。

 数々の戦場を渡り歩き、日々暗殺者との戦いを繰り広げ、日々鍛えられた能力を無駄に発揮していると、ドアが開いて失踪前から成長し、不機嫌そうな顔に僅かな驚きの色を混ぜた目をこちらに向けた娘。美衣だ成長しておる。しかしこれは。

 髪が金色と赤。父としては一言言ってやらねばならぬ。


「誰よあんた!」


「なんだその髪は! 美衣!」


 髪を金と赤に染め上げた(?)少女と、薄い金の髪を持つ少女が睨み合った。


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