暁の空に竜が鳴く
谷沢透
第一章
第1話
広大なログレスの地に、トルニア国という国がある。
その国の王都の端には麦畑が広がり、その近辺にある小屋に赤髪の双子が暮らしていた。
エセルバート・ハートネットと、エマ・ハートネットである。
兄であるエセルバートは身体能力が高く、父親の仕事を手伝うことが多い。妹のエマは賢く、何かとトラブルに巻き込まれやすいエセルバートをよく助けていた。
どこにでもいる仲のいい家族だ。
昔からエマは不思議なことを言う子供だった。
彼女が夢で見たことはよく的中する。よいことも、悪いことも、エマの言うことは外れたことがなかった。
しかしそれを両親に話すといつもいい顔をせず、双子の兄も戸惑っているようだった。
特に両親は、何度も言い当てるエマに対して、悪い感情を持つようになっていた。
エセルバートは両親の感情を敏感に察して、妹に夢の話を誰にもしないように忠告をした。その代わり、自分が話を聞き、悪いものからエマを守ると、幼いながらも騎士のように誓いを立てたのだ。
それ以降、エマが両親に夢の話をすることはなくなった。
ある日、朝早くエマに起こされたエセルバートは幼子の表情を見て慌てる。
妹の両目は涙をいっぱい溜めていて、今にも零れ落ちそうだった。
「どうしたんだ、嫌な夢でも見たのか?」
「……夢」
何度か瞬きを繰り返すと、エマは意を決したようにエセルバートに言う。
「お兄ちゃん、童貞は捨てちゃだめだからね! 捨てるなら処女を捨てて!」
初めて聞く単語に、エセルバートの小さな身体が凝固した。まだ幼い彼には知る必要のない言葉である。
「えーと、どうてい? それとしょじょってなんだ?」
「あ、えっと……」
エマは説明しようと言葉を選んでいるようだが、彼女もまだ幼い。夢に見た光景をそのまま言葉で表現することができないもどかしさと、悔しさで涙が溢れる。
「エマ!」
優しい兄が袖で涙を拭ってくれる。その温もりでさらに涙が溢れる。エマは涙腺が制御できないことが情けなくて仕方がなかった。
しばらく泣いた後、妹はもう一度声を上げた。
「お兄ちゃんはエマを守ってくれるんだよね。それなら、エマはお兄ちゃんを守るから!」
まだ五歳にも満たない子供なのに、エマの瞳は強い意志を秘めていた。
話の内容はよく分からなかったけれど、エセルバートは何か良くないことが起こるのだと漠然と理解した。
何を夢見たのか気になるものの、必死な妹を安心させるために小さな体を抱きしめた。
「分かった。俺が困ってたら助けてくれ。でも、エマも困ったらすぐ言って。俺もすぐに駆け付けるから」
エマの言っていた内容は、もう少し年齢を重ねてから理解した。けれどなぜ男であるエセルバートが処女を失わなければいけないのかは、いまだに理解できない。
妹に話を聞こうにも、六年前に急に姿を消してしまい、不可能になってしまった。
当時、エセルバートは魔法耐性に目覚めたこともあり、警備を担う第三騎士団の見習いから、黒騎士が集められた隊へと異動になった。
見習い期間があと一年で終わろうとしていた矢先だった。そのときは急な異動への戸惑いと、将来への不安が強かった時期だ。
それでも少ない自由な時間を割いて、失踪した妹を捜し続ける。
守ると誓ったのだ。幼い頃にした約束でも、エセルバートはなかったことにしなかった。
エマが何か事件に巻き込まれたのではないかと気が気ではなかった。大切な妹が困っているのなら助けたい。
正式に黒騎士の見習いになった後もずっと捜していたけれど、まったく手がかりを得ることはできなかった。
片割れがいないと気持ちに落ち着きがなくなり、焦りや疲れでエセルバートの精神は消耗していた。
それでも丈夫な身体には影響が出なかったことは幸いした。
黒騎士として騎士団に所属するようになると、黒騎士隊第二隊に編成された。
しかし、その隊の隊長とそりが合わず、いつも茶化されてばかりである。
いくら体に影響が出ていないといっても、上司のせいで疲労は増していた。
今朝もあの男の顔を見ることになるのだ。まだ一日が始まったばかりだというのに、気分はあまりよくない。
黒騎士隊の事務所に行く途中で件の男にばったりと会ってしまう。
「エセル、今日も辛気臭いな」
「リーヴァイさん、おはようございます」
リーヴァイ・レディング、二十五歳。黒騎士隊第二隊隊長で、エセルが最も苦手としている人物である。
少し癖がある灰色の髪と、深紅の瞳を持ち、野生動物のような雄々しさがある。
「レヴィでいいって言ってるのに、律儀だよな」
「特別親しくもないのに、愛称で呼ぶのはおかしいでしょう」
「イケメンのくせにけちけちするなよ」
イケメンとけちにどう関係があるのかよく分からないが、リーヴァイはいつもエセルバートに突っかかってくる。
リーヴァイの方が年上だというのに、子供のように揶揄したり、ちょっかいをかけてきたりする。
それに、隊長の立場なのになぜか副官を付けていない。他の騎士からはよくエセルバートが側にいるから、彼に任せればいいと言われている。そのくらい、この男とエセルバートの接点は多かった。
実質、エセルバートが副隊長のような立ち位置になっていた。
黒騎士隊は魔女に対抗できる魔法耐性がなければ、所属することができない。
エセルバートも一部無効化できたり、耐性があったりした。細かく言うと効果のある魔法もあり、少し厄介な体質である。
しかし、リーヴァイはすべての魔法を無効化するという体質の持ち主だった。
彼がいうには、エセルバートの方が便利で使い勝手のいい能力らしい。けれど、攻撃も、状態異常も、精神作用の魔法も、そして他の魔法もすべて無効化できるのは魅力的だ。
そんな体質だからか、これほど粗雑な性格をしていながらも、リーヴァイは隊長に選ばれている。
二十五歳にもなって女の尻ばかり追いかけているこの男は、自由奔放と言えば聞こえがいいけれど、実際は単にだらしないだけである。
今も王城内に常設している売店の女性アルバイトが、向かいから歩いてくるのに気づいて鼻の下を伸ばしている。
「リーヴァイ様、エセル様。おはようございます」
緩やかなウェーブを描いた茶色の髪は背中に流れ、大きな瞳は庇護欲をそそる。女性らしい豊満な肉体は男たちに危険な妄想を抱かせるには十分だ。
そんな魅力的なアルマを見てリーヴァイは嬉しそうだ。
「おはよう」
距離を詰めないように気をつけながら、エセルバートは挨拶を返した。
「アルマは今日もきれいだな」
「まあ、リーヴァイ様ったら」
リーヴァイの言葉に、アルマが苦笑する。
彼が女性を見かけて口説かない日はない。普段から見かけているアルマであろうと、食堂のおばちゃんであろうと、見境がないのだ。
いくらやめろと言ったところで無駄である。
「女性は美しく、素晴らしい肉体を持っている。だから敬うのは当たり前だ」
などと、格好よく言っているが、ただ単に女好きなだけである。
「あ、アルマ。あまり近くに来ないでくれ」
エセルバートは距離を詰めてくる彼女に、身振り手振りで止まるよう頼みこんだ。
「ああ、あれか」
「仕方ないですわね。エセル様に近付けないのはもったいないですけど……」
残念そうに首を傾げて、可憐な唇から悩ましい溜め息が漏れる。
スタイルがよいアルマはいつも男たちの噂の的である。そんな彼女とお近づきになりたい男は後を絶たない。
エセルバートも彼女が気にならないわけではないのだが、アルマを見ていると妹を思い出すのだ。
けれど、今はそれどころではない。離れようと一歩後ろに退くと、それは唐突にやって来た。
烏がどこからともなく空から現れると、エセルバート目がけて突っ込んできた。
「げ、この距離でも来るのかよ!」
頭上で旋回しながらたまに爪や嘴で突かれて、擦り傷ができる。
慌ててアルマから距離を取ると、烏は近くの木に留まってこちらの様子を見ている。
「また鳥に邪魔されてるな」
「見てないで助けてくださいよ」
「俺には何もできん」
エセルバートが女性に近付くと、なぜか鳥や動物から攻撃されてしまう。原因は分からないけれど、幼いときは平気だったのだ。だがある時から状況が変わり、何年もこんなことが起きている。
最初に比べれば随分とましになってきてはいる。
当初は猪に追いかけられたり、狼に襲われたりした。今では鳥に突っつかれるか、猫に爪で引っかかれるくらいである。
まるで呪いのようだ。
女性に近付くだけで動物に敵対されるなど、動物好きなエセルバートにとってかなりつらい。
「あんなにかわいい円らな目をしているのに……」
「女に近付けないことより、そっちを嘆くんだよな、お前は」
楽しそうに笑うリーヴァイは無視して、烏に視線を向ける。
艶々した漆黒の羽毛が美しく、この手で触れたいと思っても、それは叶わない。
とても残念に思う。
「ゆっくりしてるわけにもいかないな」
「私も用がありましたわ」
思い出したように手を叩くと、アルマは頭を下げて去って行った。
「もったいない体質だな」
「そうですね」
リーヴァイが言わんとすることに関して、特に困ってはいなかったけれど、反論するのも面倒で同意する。
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