後編

二〇一八年二月二三日 午後九時四五分

愛知県羅宮凪市 大牧町菊門旅館


 館内からは未だに銃声が鳴り響いていた。

 旅館を取り囲む銃器対策部隊は固唾を飲んで、盾の隙間から状況を見守っている。

「各班、作戦開始」

 ベカエールの指示と共に、旅館のあらゆる電子機器が停止し、瞬きする間に周辺が深い闇に包まれた。

 館内にいる人間が闇に慣れる前に、上空を旋回していたヘリが機体の照明を消し、旅館の上空でホバリング滞空し、ファストロープ降下用のロープを垂らした。

「降下! 降下! 降下!」

 ファストロープ降下には常に危険が付きまとう。この降下に命綱はない。しがみ付いた縄一本を頼りに、二十メートル以上の高さを滑り降りるのだ。

 手を滑らせれば、重力によって地面に叩き落とされる。この状況で頼れるのは自分だけだ。

 第一陣のジョンと長谷川が屋根に着地すると、続いてアルトゥールとイギリス人のポーターが第二陣として降下。

 四人全員の着陸を確認すると、ヘリは素早く退避。

 ヘリはこの後、燃料が続く限り施設上空で旋回を続ける予定だ。機内でスナイパーライフルを構えるチェルノブが、監視または狙撃するために。

 チームは全員が屋上に降りると共に行動を開始した。

 ロープを固定するため、屋根の頑丈な部分にアンカーを打ち込む。

 降下している途中、固定するための金具が外れたなどとあっては笑えない。素早く、かつ確実に打ち込んでいく。

 二つ分の固定が終わり、ジョンと長谷川がカラビナ金具でハーネスとロープを固定すると、屋根を蹴った。

 客室のベランダが近づくとジョンは減速の後に姿勢を変え、頭を下向きにしつつ、拳銃を客室のベランダに向けた。

 そのままゆっくりと下降し、窓から部屋の様子を伺う。

 事前の情報通り、この部屋に宿泊客の姿はない。

誰もいないクリア

 長谷川に知らせると同時に強く壁を蹴り、反動を利用して一気にベランダに踏み込んだ。やや遅れて長谷川も屋根に飛び込む。

 ベランダの戸は鍵が掛かっているが、静かに開けている暇はない。拳銃の銃口で錠周辺のガラスを叩き割ると、強引に解錠した。

「レッドチーム、内部の潜入に成功」

 後衛二人の到着と共に廊下に出ると、ジョンはポーチから黒いプラスチック製の器具を取り出した。それを元来た扉の下に蹴り入れると、ピッキングツールも兼ねたツールナイフから工具を引き出した。

 これがドア・ウエッジだ。専用の工具で内部のネジを回すと、両端がせり上がって扉を固定する仕組みだ。裏側には強力な滑り止めが仕込まれており、ウェッジ本体は薄いが頑丈だ。これで固定された扉は簡単には開かない。解除するには固定する際に使用した工具が必要になる。

 これを使わない開け方があるとしたら、扉そのものの破壊が必要になるだろう。粗末な木の扉ならともかく、この扉の破壊には銃があっても骨が折れるに違いない。

 こうやって二階の各部屋を封鎖するのだ。

 狭い廊下をライトの光を頼りに前進し、ジョンは長谷川が持つ盾の陰に隠れるように部屋の封鎖を続ける。部屋は用具室を含めて三十部屋。先は長い。

 八部屋の封鎖を終えると、不意に奥の扉が開いた。レッドチームの動きが止まり、じっと目前の扉に注意を向ける。

 動きはない。だとしても、歩みを止めて監視を続けることは出来ない。

 ジョンは前進を指示し、暗い廊下の移動を再開した。

 ゆっくりと前進し、次の扉に差し掛かったその時、開かれた扉の陰から拳銃が姿を見せた。

接触コンタクト!」

 長谷川の叫びにチームが盾の陰に隠れる。直後、爆音が館内にこだました。

 この盾は重量四十キロはある大型の防弾盾だ。中心部は七・六二ミリNATO弾でさえ貫通させない防弾性能を持つ代物だ。

 発砲音からして、容疑者が撃ったのは九ミリクラスの拳銃弾。盾に隠れれば安全な上、めくら撃ちだからまず当たらない。

 被害は蛍光灯や客室の札を破壊するだけに留まった。

 今回は武器の所持を確認どころか、明確な害意のある攻撃を受けていたため、警告の必要はない。銃声が止むと同時にアルトゥールは盾から身を乗り出し、扉に向けて三回発砲した。

 すると、半裸の男が床に倒れた。アルミ製の扉の防弾能力を過大評価していたのか、何も考えていなかったのか。とにかく、弾を撃ち尽くしてもその場に立っていたようだ。

 気配が消えると、封鎖に戻る。すると下から派手に銃声が轟き始めた。他の部隊が戦闘を開始したようだ。

 早く封鎖を終えなければ。

 先ほど容疑者が開いた扉の番だ。容疑者がこの部屋から出て来た以上、制圧が必要になるだろう。

 盾は側面を守れるほど大きくはない。内部に突入する長谷川を守るように、アルトゥールがM4カービンの銃口を深い闇に包まれる廊下に向ける。

 ジョンと長谷川は待ち伏せに警戒しつつ、部屋に踏み込んだ。

 部屋の中では、鼻が曲がるような異臭が充満していた。さらに前進すると、全裸の女性がベッドに横たわっていた。

 ライトを向けられても、充血した虚ろな目で見つめるばかり。枕元には白い粉とストロー、それに注射器。何をしていたのかは明白だ。

「これは……オーバードーズ薬物の過剰摂取?」

「だろうな。レッドチームから司令部へ。容疑者一名射殺、民間人一名意識不明。搬送の準備を」

 明らかに別件に見えたが、男がこちらに銃を向け、女の意識が朦朧としているのは事実だ。手短に報告を済ませると部屋の封鎖を行った。

 あと二部屋で完全に閉鎖が完了すると思ったその時、無線機から思いもよらぬ発言が飛び出た。

「こちらイエロー! 三名死傷、こっちも撃たれた!」

 正面玄関を守るチームからの報告。戦っているのだから、死傷者が出るのはおかしな話はない。

 不甲斐ないというならまったくもってその通りだが。

「イエロー、戦闘を中止せよ。レッドチーム、ルーム2-0二階の部屋全ての制圧が済み次第、正面玄関の敵を制圧せよ」

「了解」

 恐らく、容疑者は客室を調べる気がなかったのだろう。最後の部屋の封鎖を終えると、突入の際に通った部屋からロープで屋外に降りた。

 CQBにおいて、階段の利用には最大限の注意を払わなければならない。死角の多い階段は待ち伏せに最適な立地であるに加え、上側の人間一人が足を踏み外せば下側の人間に被害を出す。避けられるならば、避けなければならない場所なのだ。

 ラペリングで屋外に降り、ラウンジの様子を窓から伺って安全確認すると、ポーターが背負うバッテリングラム破城槌で窓に大きな穴をあけた。

 バッテリングラムは中世に攻城兵器として使われた破城槌を小型化したものと考えても差し支えはない。物体の質量を利用し、運動エネルギーによって対象を破壊する。高等な技術は材質以外にはまったく用いられていないローテクな装備だが、爆薬や銃を用いるよりも圧倒的に静かで確実だ。

 窓に穿たれた穴からレッドチームは潜入。ラウンジ内では容疑者のものと思われる怒号と、それをかき消す複数の銃声が鳴り響いていた。興奮した男が外で待ち構えるパトカーに銃撃を加えているのだ。

 タタタン、タタタン。小刻みな発砲音が二人の男の命を奪う。ラウンジを占拠する容疑者はこれで無力化出来た。

「容疑者二名射殺」

 彼らの目的は、警察や特警の隊員を食い止める目的もあっただろうが、最大の目的は内部にいる人間を逃がさないための、いわば蓋役だろう。半分使い捨てのようなものだ。

 受付カウンターを覗くと、穴だらけ蜂の巣となった従業員が重なっている。

「突入班から司令部へ。民間人三名生死不明、搬送の用意願います」

 事務室の扉にウェッジをはめ込むと、本命である宴会場・浴場へ続く通路に入った。

 既にここではブルーチームが容疑者の制圧を始めている。当然ながら、同士討ちに注意しなければならない。

 そしてそこもまた、死屍累々の様相を呈していた。

 スーツや和服に身を包んだ男、従業員らしき女、時折場にそぐわないラフな格好のアジア系。例外なく床に横たわっている。

「こちらレッドチーム、民間人十三名生死不明」

 どうせ、誰一人生きてはいないだろうが。

 予定通り宴会場の襖を蹴破り、内部を捜索するも、残念ながらそこも死体しかいない。

「こちらブルー、ルーム1-5を制圧」

 報告と共に宴会場がしんと静まりかえる。銃撃戦の気配は浴場から漂っていた。

 この場はブルーだけでも十分だろうと判断したジョンは無線機のボタンを押す。

「こちらレッドシックス指揮官、ルーム1-6の制圧は任せる。こちらはルーム1-9に向かう」

「ブルーシックス、了解」

 当初の予定ではブルーと共同して制圧を進めるのだが、浴場の制圧を急いだ方が良さそうに思えた。

 ベカエールから否定の声はない。つまり、彼から見てもこの判断に問題はないということだ。

 レッドチームは踵を返し、浴場へ続く廊下を進む。

 浴場にはいくつか種類があり、大浴場の男湯と女湯、そして湯を沸かすためのボイラー室は当然として、この旅館には夫婦湯と呼ばれる小さな風呂場が七つある。

 もちろん、夫婦湯というのは建前。実情は不倫カップルや日帰りの客がセックスするための風呂だ。

 容疑者が隠れるとすればそこ。滑りやすく、視界の効く大浴場は避けるだろう。

 浴場前の休憩所は、生き延びたヤクザと武装集団が激しい銃撃戦を繰り広げる激戦区となっていた。ジョンたちレッドチームはこの武装集団の背後を突く形となった。

 ポーターの持つファイバースコープで扉の向こうの様子を偵察したところ、彼らの辞書に後方警戒という言葉はないらしく、誰も背後の警戒をしていない。

 こういう時は手早く制圧するに限る。

 手早さとは程遠い装備の長谷川を背後の警戒に回し、代わりにアルトゥールをポイントマンにすると、扉を蹴破った。

 五名の武装した男。アルトゥールが四人を倒すと、残りが慌てて転倒した。

「特警だ! 武器を捨てろ!」

 この警告は届いたらしく、転んだ容疑者は散弾銃を投げ捨て、頭に手を置いた。降伏した容疑者はどんな状況であれ、拘束に必要なもの以上の害を与えてはならない。

 ポーターに拘束を任せると、ジョンとアルトゥールは長谷川の陰に隠れて浴場前休憩所をライトで照らした。

「お前らは警察か!」

 この辺りの容疑者……恐らくヤクザは、休憩所の机を倒して遮蔽物にしていたらしい。木の板の向こうから日本語が響いた。

「特警だ、武器を捨てて投降しろ!」

 二度目の警告。今度は言葉が通じる以上、無駄な銃撃戦は避けたい。

 僅かな間が開くと、闇に覆われた床を金属製の物体が複数転がった。照らしてみれば、それは拳銃。言わずと知れた武器だ。

「両手を頭において、ゆっくりと出て来い!」

 長谷川が叫ぶと、スーツ姿や和服の男達がぞろぞろとライトの明るみに向けて行進した。彼らに抵抗の意思は見受けられない。

「そこで全員跪け」

 ジョンと長谷川がヤクザたちの出てきた場所の安全を確認し、アルトゥールとポーターが容疑者の拘束を行う。

「おいっ、浴場に組長が……」

 どうせ大狩勝が逃げていないだろうと推測した上の発言だったのだろう。武装勢力に殺されるぐらいなら、まだ警察に拘束される方がマシ。そんなつもりで。

 だが残念ながらアルトゥールは最低限の日本語しか知らない。ゆえに、浴場だの組長だの言われても理解できず、捨て台詞としか聞き取れなかった。

「うるさい、黙ってろ」

 背中をカービンの銃床で小突くと、両手首を手錠で結びつけた。


「こちらシエラ・フォー狙撃班四、容疑者と民間人を目視。女湯の露天風呂だ」

 チェルノブからの報告を受けたジョンと長谷川の二人は、女湯の浴場に向かった。

 浴場は未だに温泉の熱気に包まれており、やや暑さを感じた。

 だが露天風呂に出れば世界は一変する。二月の終わりごろでも、夜は十分に涼しい。不快な湿気は消し飛んだ。

 彼らも似たようなものだろうに、表情は浮かない。外の二人はそろって青白い顔をで空を仰いでいた。

 拳銃を持った男一人に、全裸の女一人。容疑者と人質といったところか。ジョンは迷いなく照準を男の眉間に合わせる。

「特警だ、武器を捨てろ!」

 警告でようやくジョン達に気付いたらしい。ハッとして視線を向けると、女の陰に隠れた。

「嫌だ! 俺は捕まらねえぞ!」

 面倒な奴め、隙を見せたら脳天をぶち抜いてやる。ジョンは引き金に指を掛けたが、直後に無線機からベカエールの声が流れた。

「司令部からレッドシックスへ。たった今、その男の身元が判明した。奴は大狩組次期組長と目されている大狩勝だ」

 なるほど、次世代の大物といったところか。だが、この男には組織の長になれる器があるようには思えなかった。

 頑張っても、チンピラの頭目がせいぜいといったところ。

「人命が最優先に変わりはないが、仮にも重要参考人だ。極力身柄を拘束せよ」

 相変わらず無茶を言ってくれる。ジョンは鼻を鳴らしたが、それが彼の役目だ。ジョン達現場は、それに限りなく近い終着点を目指すまでである。

「特警だ! 武器を捨てるんだ!」

「嫌だ! お前らが死ね!」

 二度目の警告にも、大狩勝は駄々をこねるばかり。混乱しているのだろうか。

 いい年をした若者が、なんというザマだ。

 眉間が痛くなるのを感じながら、引き金を掛ける指に力を込め始めた。

 相手が人質の後頭部から銃口を離さないが、警告を聞かない以上は撃つしかない。

 こんな奴に構っていられるほど、彼らは暇ではないのだから。

「最後の警告だ、武器を捨てろ!」

 これを無視するようであれば、どうにかして無力化しなくてはならない。とはいえ、かなり危険な行動となる。

 運が悪ければジョンか長谷川のどちらかが死ぬ。だがまず、人質は死ぬだろう。

 ジョンが一歩、肉の盾を撃ち抜かないような射線に向けて歩き出すと、ヘリが真上を通過した。

「大丈夫、俺がやる」

 チェルノブだ。先ほど上空を通過したヘリの機内では、チェルノブがライフルを構えているのだ。

 ヘリは旋回して大狩勝の側面に回ると、機首のサーチライトを向けた。錯乱していても視界の悪化はわかるのか、声にならない雄叫びを上げた。

 パギィン! 独特な銃声がヘリのローターが奏でる羽音に混じって響く。同時に、一本の肉片と拳銃が露天風呂の石畳の上を転がった。

「ギィヤアアアッ!」

 威嚇の雄叫びから、絶望の絶叫へ。人間、覚悟がなければ変わるのは早い。

 人質から手を離した大狩勝に詰め寄ると、ジョンは軽く腕を取って拘束した。

「助けてくれぇ、血を止めないと死んじ、しまう」

「やかましい、黙ってろ」

 血を止めなければ死んでしまうというのなら、圧迫止血してやろう。そう考えたジョンは大狩勝の手首の手錠を一層きつく締めた。

 これで血は止まる。

「こちらレッドチーム。容疑者一名負傷、民間人一名保護」

「了解した、お見事だ」

「その言葉はシエラ・フォーにどうぞ」

 揺れるヘリの機内から、動きの読めない容疑者への狙撃。それも拳銃の引き金と、それに掛けられた指だけを撃ち抜くとは。

 もはや神業の域だ。

「こちらブルーチーム、エリアの制圧確認。動いている奴はもういない」

「よし、作戦完了だ。あとは銃対に任せろ」

 主要な容疑者を無力化し、残るはジョン達の封鎖した客室ぐらい。大した問題もなく事件は終息するだろう。


 二月二十四日午前〇時十二分。愛知県警は公式に事件の終息を宣言。

 犯行の詳細は追って知らせる、とマスコミ各社に通達。

 こうして、血生臭い歴史を持つ温泉街の事件は幕を閉じたのだった。


◇ ◇ ◇


エピローグ


二〇一八年三月三十日

愛知県羅宮凪市 特別警備隊南詰所


 SIUに配属される人間は誰一人の例外なくプロだ。数万人の中から選び抜かれた特殊部隊に、少なくとも五年以上在籍した経験を持つ精鋭揃いだ。

 だが、そんな精鋭中の精鋭でも、技術を保つための努力を怠ることは出来ない。

 詰所の地下にあるSIUのオフィスには射撃訓練場が設置されており、毎日最低でも二百発の実弾を用いた訓練が行われている。音楽家が技術が衰えないように楽器を弾くのと同じで、特殊部隊でも射撃の技術が衰えないように銃を撃つのだ。


 これといって仕事がない暇な時間。ジョンは愛用するハイパワー拳銃を手に、射撃場のレーンに立った。

 突入時の条件となるべく揃えるため、右腕に予備の弾倉を巻き付けての射撃だ。こうしておけば、胸や腹に手を持っていくよりも早く弾倉を交換できる。

 スイッチを押し、人型の的を二十メートル先へ。停止を確認すると、ホルスターから拳銃を抜いた。

 頭部や胸部、時折右手の先に描かれた拳銃を狙いながら弾倉の十三発を撃ち尽くす。マガジンリリースボタンを押し、弾倉を足元に投棄。右腕の予備弾倉を叩き込んでスライドを引いた。

「おい、イギリス野郎Brit

 不意に声を掛けられて振り返ると、SIUチームワンのリーダーであるクリスが仁王立ちしていた。

 彼は米海軍特殊部隊、いわゆるネイビーシールズのチーム6……現代で言うDEVGRU海軍特殊戦開発グループの元隊員だ。

 年齢は三十七歳、莫大な報酬を条件に海軍からブラックサンズ社に引き抜かれ、現在に至っている。今風の経歴を持つPMCオペレーターだ。

 当然、DEVGRUが米軍を代表する特殊部隊出身とあって、SASとの交流もある。その繋がりで、ジョンとはそれなりに長い付き合いだった。

 ただし親友や友人ではなく、悪友と呼ぶのが最も正しい表現となるだろう。

 ドライな性格の彼が嫌がらせに来たとは思えない。拳銃から弾を抜くと、イヤーマフを取った。

「どうした」

「さっきフランス人ベカエールがお前のチームを呼んでたぞ。この間の事件絡みらしい」

「旅館の話か?」

「そうなんじゃねえのか?」

 言いたい事を言い終えると、クリスはイヤーマフをつけてレーンに立った。この男は相変わらずだ。

 さて、上司の命令を無視するわけにもいかない。射撃場を後にしたジョンは早々にチームスリーのオフィスへと向かった。


 オフィスでは既に数名の要員が席についていた。長谷川とチェルノブ、あとポーターの姿があった。

 スクリーンの前で座るベカエールに視線を送ると、彼は空席に向けて顎をやった。『とにかく座れ』と言うことだろう。

 ジョンがパイプ椅子に腰かけると、ベカエールは軽く息を吸った。

「先日の旅館で起きた事件の対処は見事だった。君たちの活躍によって、多くの人命が守られた」

 とはいえ、守れた命は十名のヤクザぐらいなもの。現場に居合わせた民間人は、ほとんどが射殺されていた。その点については、SNSを覗けばネット上のプロフェッショナル素人たちがSIUの対処に問題があったと、日々自分の考えた素晴らしい作戦を語っている。

 無論、その素晴らしい作戦には『不可能』という大きな問題点がある。

「諸君に集まってもらったのは他でもない。あの旅館を襲撃した容疑者について、奇妙な点が発覚したためだ。これを見てほしい」

 スクリーンに投影されたのは、日本のニュースでは絶対に映されないであろう画像……端的に述べれば、死体の画像だ。死体と背景から察するに、これは先日の事件で射殺された容疑者の一人だ。

 しかしベカエールの言う通り、死体には奇妙な点が見受けられた。

 涙だ。死体は泣いていた。だが、普通の涙ではない。赤い涙、血涙けつるいを流しているのだ。

「この画像だけではない。他にもこのように、複数の容疑者が血涙を流していた。これは……」

「合成薬物『レッドアイ』、だろ?」

 オフィス出入口からそう言ったのはアルトゥールだった。姿が見えないと思えば、まさか本当にいなかったとは。

「ソウザ伍長、遅いぞ」

「失礼。道が混んでいたんでね」

 どっかりと椅子に腰かけると「続きを」と図々しくも続きを促した。今さらああだこうだ言っても仕方がない。ベカエールは咳払いを一つすると、話を続けた。

「彼の言う通り、検死の結果と逮捕した容疑者からの証言で、犯行グループがレッドアイを用いていたことは間違いない」

 レッドアイ。世界にも類を見ない、強力な鎮痛効果と興奮効果、そして高揚感をもたらす新世代の薬物だ。実際、旅館での事件の際に腹部に十発の九ミリ弾が貫通した状態でも、平然と戦闘を続行していたという例が報告されていた。この薬物の異常性がよくわかるだろう。

 だが二つ、大きなデメリットがある。

 一つはその精製の難しさだ。精製に必要な物質には可燃性が強い不安定な物質が含まれている上、危険な有毒物質を使用する。生半可な設備では火災ですべてを失うか、中毒症状でばたばたと関わった人間が倒れるのがオチだ。

 二つ目はレッドアイそのものに存在する副作用だ。違法であろうが合法であろうが、薬である以上は副作用が存在する。レッドアイの場合は血涙なのだ。

 レッドアイには血圧上昇の作用があり、常用すると毛細血管、特に眼球付近のものが脆くなるというデータが存在する。ちょっとしたはずみに過剰摂取すると、脆くなった毛細血管が血圧上昇によって破裂し、文字通り血の涙を流すようになってしまうのだ。

 これの何がデメリットかといえば、まだ意識が朦朧としていたり興奮しているのなら、体調が悪かったり酒に酔っていたりと何も知らない第三者は考え、そこまで気にしない。だが、血涙を見れば誰がどう見ても異常だと考える。

 つまり、目立ちすぎてしまって外を出歩けなくなるのだ。これが薬物趣味の富豪から不興を買っていた。得てして、金持ちは完璧を求めるものだ。

 さて。話はレッドアイを使用していたことが、なぜ問題なのかに移る。

「入手経路までは掴めなかったが、日本のレッドアイ精製及び卸売を担当しているのはズールー神聖教だ。ここまで言えば、事の深刻さが理解出来るだろう」

 ズールー神聖教は日本だけの組織ではない。日本ほどの規模ではないがロシアにおいて強い影響力を持ち、小規模ながらインドとアメリカにも勢力圏を伸ばしている。

 フィリピンの武装勢力がレッドアイを所持しているのは興奮剤と鎮静剤の代わりと推測出来るが、ほぼ全ての人員に配布するとなると、ただ事ではない。

 レッドアイの効果は絶大だが、高価な代物だ。使い捨ての鉄砲玉に配布できるのだから、安価でかつ大量に手に入ったと推測できる。

 これらの情報から推測できるのは、市場への供給量の増加。

 つまり、大規模な精製所が新設された可能性があるのだ。

「警察と麻薬取締部麻取との協力を強化し、SIUとしては全力で対処にあたる予定だ。諸君らがパトロール任務の際にも、一層警戒を強くしてほしい。何か質問は?」

 なるほど、つまりは「気をつけろ」の一言を言うために集めたのか。一同から仕事が来なくて安心したような、がっかりしたような。そんな空気が流れたが、これといって異論はない。ここはこのまま解散だろう。

 しかし、この空気をぶち壊して挙手する者がいた。

「長谷川軍曹」

「犯行グループの用いていた武器の入手経路は?」

 相変わらず馬鹿真面目な男だ。周囲は呆れながら聞いていた。どうせ、フィリピンの密造村で作られた密造銃、製造元がわかるものが残っているはずがないのは本人が一番知っているはずだろうに。

「不明だ。尋問の結果でも、組織から配布されたものとしか得られなかった」

 それみろ言わん事か。聞くまでもない事であり、何かあるならベカエールの口から出ているだろうに。

「他に質問は?」

 長谷川は武器について聞ければ、あとはどうでもいいらしい。

 この場はこれにて解散となった。

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