ゆうの不登校体験記(中学編)

ゆうひ

第0話 誕生からの12年

私はゆうって言います。田舎育ちの大学生。中学、高校と不登校を経験。なるべく丁寧に書きたいと思います。


僕は2001年のある日、田舎の病院で産まれました。一家の長男として大切に大切に育てられました。


1番古い記憶は誕生から1年後、家族がアパート暮らしの頃。いつものように母が晩ごはんの準備をしていると父が帰宅します。カブトムシを手にやってくる父親。

「ほうら、カブトムシだぞぅ?」

泣きわめいて逃げ惑う僕。あまりに泣くものだから困惑して、結局父親がカブトムシを逃がしました。


僕は臆病な子どもでした。大きな音や見たことないものには敏感でした。例えば自宅にあった掃除機や脱水機、スーパーのトイレにあるジェットタオルが怖くてすぐ泣きついていました。一方で食べ物について好き嫌いがなく何でも食べていたそうです。母が作った人参パンが好物でした。


さらに数カ月後、私は今の一軒家に引っ越しました。記憶は定かではありませんが、はじめての家は冒険気分で歩き回っていたと聞きました。


これはハッキリ覚えています。近所のママ友の家に上がるときがありました。僕と同じくらいの子供たちが電車ごっこやってる時にアンパンマン観ていたり、みんなが壮絶なお人形の取り合いのケンカをしている傍らで絵本を読んだり。僕は独りでいるのが好きでした。この中に幼稚園から中学まで同じになる友達候補は何人もいましたが、結局仲良くなったのは小学生になってからでした。コロナもあり、もう孤独はたくさんですが人間関係づくりは今も苦手です。


3歳の4月、幼稚園に入園。年少のときは背の順の後ろの子が苦手で泣いてました。ママと離れるのがどうしても嫌でメソメソしているときもありました。しかしそれも年少のときだけ。年中のとき初めて友達ができて、仲良しでした。知見が広くてユーモアがあって面白いやつでした。一緒に泥だんごを秘密の場所に隠したり、世界地図を広げてみたり、動物図鑑で変なやつ見つけたりしていました。完全に自慢ですが私はかけっこで脚が速く、この頃盛大にコケて一生消えない傷跡が残りました。怪我したのを恥ずかしがって言えないでいて、先生が知ったときの驚いた顔が忘れられません。年下の子や1年遅れて入って来た人と仲良くしていました。泣き虫でしたが、自分より弱い立場の子には優しかったそうです。幼稚園の先生が書いてくれた手紙にそう書いてありました。


年長になるともう2人友達が増えて、いつも4人でした。いじめられっ子とフレンドリーなやつ。フレンドリーな方は途中で遠くに引っ越してしまって消息不明です。あと、よく遊んでくれる女の子がいました。プリキュアごっこやままごとに付き合う見返りに、鬼ごっこやなんとかレンジャーごっこに参加してくれました。そういう暗黙の取引があったんですね。


そんな生活をして、卒園です。悲しくても泣きません。少し強くなりました。


あっという間に小学生になります。今までの友達とはみんなバラバラ。近所の子どもたちと一緒の小学校に入学しました。入学式の写真には近所の子たちとの写真があります。みんなぎゅうぎゅうくっついて写っているのに、僕のところだけ妙に距離が空いています。学校までは片道50分かかります。少し遠くて時々泣いては通学班の班長さんにランドセルを持ってもらったり、一緒に喋ったりしました。それでも最初は学校に馴染めずに友達もできません。二学期になるとあまり学校に行かなくなりました。周囲の急激な変化についていけずに悩んでいたのです。担任の先生は若い女性の先生が離任し、代理でベテランの女性の先生が着任しました。古いタイプの先生で、厳しい指導をしました。おなかが痛い、気持ちが悪いと言って。心配した両親は近所のクリニックに私を連れて行きました。


父は、心因性の症状だと先生に告げられると、僕をどうにか学校に行かせようとしました。叱責されたり怒鳴られたり。心配しているのは幼い僕なりに理解していたので上手く返事をできませんでした。ただ下を向いてじっと涙をこらえました。父に負けて学校に連れていかれると例の代理の先生がいて、なんで学校に来れないのかと問い詰められます。僕に対する態度が特別厳しいわけではありませんでしたが、まるで理解されないと感じていて代理の先生を好けないでいました。先生にも親にも周りの子たちは自分より頑張っている、と言われて僕は納得しました。みんなはちゃんと歩いて学校に行って、お勉強をして、給食を食べて帰ってくる。家でドラえもんを見ながら過ごす夢見心地な僕よりもずっと有意義に生活しています。かなり劣等感を抱いていました。


ある日、校長先生が家に来ました。わざわざ自分が運転する車で、学校に連れて行ってくださいました。校長先生の運転する車に乗って、窓越しに少し曇った空を見上げました。心の中ではイヤイヤ言っていましたが、半ば諦めた感じです。当時の公立小学校では珍しい女性の校長先生で、僕を含めて小学生たちをみな孫のように可愛がっていました。


着くと私達1年生は学年レクの時間のようでドッヂボールをしていました。一言も喋ったことのないような同じクラスの子が誘ってくれました。それが小さいようで大きなきっかけで、僕はこうして第一次不登校期を抜けたのです。


あっという間に6年生。ゲーム大好き普通の小学生。2クラスある教室の子全員と話せるようになります。あっという間でした。無論、当時は退屈な授業が延々と続いている気がします。そんなことよりみんなとわいわいやるのが楽しくて楽しくて仕方がなかったです。ときにケンカしたりイタズラしたり。通学班長、縦割班長、副図書委員長、新設のカードゲームクラブ長なんかを他の人に後押しされながらやっていました。大人数の前に出るのは緊張します。特に集会で作文を読んだのは多分人生最大のピンチでしたね。今だって人前はこわいですよ。リーダーとかになれる器じゃないなと実感しました。


このときから少し立ちくらみなんかはありました。ちょっとふらつく程度でゲームやり過ぎかなとかみんなよくあることかなとか思っていました。全然気にしていませんでした。


放課後みんなで友達の家に行って集まってゲーム大会でしたね。某18禁オープンワールドゲームやモンハンなんかで遊んでいました。親はそんなの買ってくれないし、ねだると嫌がるので内緒でしたが。子どもってそういうもんですね。


マラソンが得意で校内1,2位を競っていました。同級生から陸上クラブにスカウトされると、練習に参加するようになりました。趣味程度ですが、ちゃんと陸連登録して主に1000mで大会にも出ていました。ハードルの飛び方から、短距離走、高飛びも練習しました。ときに来日した世界記録保持者たちに指導を受けるという超貴重な体験もしました。合宿も大切な思い出です。夜中にドデカミンこぼした先輩が忘れられません。酔っ払ってる大人たちに隠れて、女の子達と密会してコソコソするのが1番楽しかったんですが。


選手として生きる。小学生ならそういう人生も選べたんだな。ここまで素敵な環境は私には勿体なかったって時々思います。私の才能はただの石ころのまま終わりました。石のまま満足していたんです。一生懸命になれなかったのはなぜだろう。周りの人に認められるだけで私のメンタルは支えられていました。それ以上貪欲になれなかった。


終わりは自然と訪れます。私には突然に感じられました。心の準備など何もないまま卒業します。卒業式、強くなったから泣かないのではなく、泣けないんだと分かりました。全然実感がなかったのです。昨日まで普通に登校していた学校です。かわいい1年生を励ましながら、通学班で登校することも、3歳年下の後輩から優しいお兄ちゃんと慕われることもなくなります。戸惑いすらありません。


でも中学生になることについて不安なんてありませんでした。ほとんど皆が同じ中学に進学します。離れ離れになるなんてまだ当分の事だと考えていました。

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