ロリポップと人魚

夏秋郁仁

第1話 ロリポップと人魚

 ギラギラと光を返すプールの水面。倒れそうになるくらい青い空には、わたがしのような雲がひとつふたつ浮いている。

 ユキヒトの瞳の先は、彼の嫌いな水の中。その中で優雅に泳いでいるはずの人魚を想像し、空を見上げる。

「暑い……」

 午後の一番暑い時間帯に、人魚が泳ぐ時間だけプールサイドに突っ立っている。けれど、彼女のためだけに夏休みも部活に通うことを、馬鹿馬鹿しいと思う日は来ないだろう。


 そこまで考えてふと、あの頃と違ってプールに人がいないなと気づく。

 同じ季節なはずなのに眩しさはどこかへ消え、ゆだるような蒸し暑さだけがユキヒトを包んでいた。

「人魚が棲んでるのはいっしょなのにな……」

 こぼした言葉はセミの鳴く音にかき消された。


 彼がそそくさと日陰に逃れたと同時、ぱちゃりと水面が立つ。水の下の姿を陸から見つけることはできない。

 もうかれこれ五分以上潜水しているが、彼女の肺活量なら余裕だろう。

 ――彼女は『人魚』なのだから。

 誰にともなく呟いて、ユキヒトはタオルを取りに更衣室へ歩いた。


 それから彼女が陸に上がるための準備をする。何度か息つぎをしたり、潜水でなく泳ぎはじめたりする人魚に声をかけることはしない。

 今、彼女がプールから上がった時も、ユキヒトは暑さにやられたように眺めるだけだ。


 彼よりも歳が一つしか違わないのに、女性らしい肢体。しかしその身体は華奢で、水に透けそうなくらい白い。唇は紫色になっているし生気の無い外見だが、妙な引力を持っている。

 彼女が水泳キャップを取ると塩素にまけて茶色になった髪がぱさりと落ちた。肩より下の髪は水泳部としては珍しいのではないだろうか。


 何より変わったのは、と彼は思考を続ける。

 群青グンジョウ先輩のいちばん変わったところは、瞳だ。

 以前はこの水面の如く輝いていた鮮やかな瞳は、今はくすんでにぶい、水を固めた球体だ。

 それに、とユキヒトはゴーグルを上げるアオイを見つめる。

 彼女の瞳は黒いはずなのに、プールの色がうつったのか、ユキヒトの目には時々青に見えた。

 彼女がその瞳で水面を見ている時、ユキヒトは彼女が飛び込んで泡になってしまうのでは、と思う。

 故郷を懐かしむような、自分が陸にいることを憂いているような。彼女がそんな目を水面に向けている時、ユキヒトは焦燥感を覚える。


 ――そんな感情は彼女の重荷になるな。

 微かに首を振った彼は心を隠して苦い顔を作り、彼女の肩にタオルを掛けた。

「また休憩も挟まずに長時間泳いでたんですね……二年前は、もっと、体調とか気にしてたのに」

「……ユキヒトくん。ごめんね」

「いいですよ、僕は先輩専属のマネージャーですから。他の部員、来ないですしね」

 冗談めかして肩をすくめるユキヒトに微笑を返して、人魚こと群青アオイは足を水に遊ばせた。




 ユキヒトが高校に入った時、彼女は別人のようになっていた。明るく楽しげな雰囲気で人を惹き付ける少女はいなくなった。彼の隣で凪いだ水面を眺めているのは、静かで深い、溺れたくなるような海に似た女性。

 中学の時から大きく変わっていない整った顔立ちは、今やぞっとするような冷たい魅力を生んでいた。




「……先輩はやっぱり、今は、いい記録を出したり、大会に出たりする気はない、んですよね?」

 実績を出せない部活は廃部にされてしまう。なんとか先輩が卒業するまでは、と交渉しているが絶対とは言い切れない。

 落とした言葉に彼女はうっすらと笑みを作った。

「……これからも、ね。だって海は、広いでしょう? 夢を見てただけなの。こんなたったの二十五メートルの世界で、どうして海を知った気になってたんだろうね」

 つまり、井の中の蛙だったの、と先輩はゆったり笑んだ。


 ――小さな世界で幸せに暮らす人魚じゃ駄目なのだろうか?

 ユキヒトには悲しそうな彼女が分からない。アオイは昔から泳ぐことが好きなのだと思っていた。海の広さなんか気にせずに水に棲む存在なのだと。

「それでも、僕にとっては――井戸の中だろうと大海だろうと、ましてやプールの中だろうと、幸せそうに跳ねる人魚、です」

 大真面目に言ったのだけれど、やっぱり彼女は微かに笑うだけだった。


 それから二人で黙って揺れる水面を見た。青白い身体から水分が飛んだ頃、やっとアオイはプールから足を上げる。

「ユキヒトくん、今日はアメ食べないの?」

 からかうように首をかしげる彼女にユキヒトは眉をしかめる。

「“飴”じゃなくて“ロリポップ”です」

 これだけは譲れないとばかりに訂正した彼の耳にくすくすと笑いが届いた。

「相変わらずだね、そのこだわり……中学の時も何回も注意された」

「一番好きなお菓子ですから」

 笑みの中に呆れを混ぜてアオイは肩をすくめる。

「なんだったっけ、甘党だしアメも好きだけど特にロリポップ、だったよね?」

 ずっと言い続けている台詞を返されたユキヒトは少し顔を赤くした。

「だって、特別感があるでしょう? ただの飴なのに、放り込めばいいのに、なぜか棒付きっていう。必要なのか、みたいな、ちょっとした特別感」

 確かに先輩の言ってた通り、食べにくいし邪魔でしょうけど、と唇をへの字にする。

 子供っぽいと言われようと、これが愛しい。なんとなく間抜けに感じる。

「はいはい、別に否定してるわけじゃないから。そんなに慌てて言い訳しなくていいよ」

 ぐっと黙ると再びアオイは笑い出す。

「ごめん、ごめんね――じゃあ着替えてくるから、待っててもいいし帰っててもいいよ」

「待ってますよ」

「ありがと。今度ユキヒトくんの好きな飴、じゃなくてロリポップ、奢るね」

 女子更衣室に向かうアオイの背を見て、学生ズボンのポケットを探る。見つけ出したお目当てのものの包みを開け、おもむろに棒部分を持って揺らしてみる。

「……先輩が嫌いでも、僕はお前が好きだからな」

 ロリポップに真顔で話しかけ、口に突っ込む。二番目に好きなイチゴ味を転がしながら棒をピンと弾いた。


***


「お待たせ、ちゃんと閉めたよ。前みたいに忘れないようにしないとね」

 アオイはチャリンと鍵を揺らしてこちらへ向かって来た。制服に身を包んだ彼女はどことなく窮屈そうだ、とユキヒトは常々考える。

 ――やっぱり、人魚としては陸での呼吸がしづらいんだろうか?

 そんなことで頭を回しながら

「じゃあ、帰りますか?」

 と置いておいたリュックを背負った。

「――」

 しかしその言葉に返事は無く、プールに目を向けるアオイが立っている。名残惜しさを秘めた青い目には気づかなかったふりをして、ユキヒトは彼女の顔の前で手を振った。

「先輩、聞こえてますかー」

「……あっうん、大丈夫」

 反射的に言ったような上の空の返事に、彼は眉を寄せる。

「電車、間に合うよね」

 ユキヒトと目を合わさず、プールを見つめたまま続いたアオイの問いかけに、彼は嫌な予感を覚えた。しかし静止の言葉よりも先に答えを口にする。

「いつも通り五分前には駅に到着できますよ」

「そっか……」

 まるで聞いていないくすんだ青い目が立ち尽くしている。

 帰るんですよ、泳いじゃだめですよ、と言おうとしたところですっかり忘れていた用事を思い出した。

「あっ! あー……群青先輩、すみません。あのー、先輩、聞いてくださいー」

 アオイの前でもう一度手を振ると、慌てた表情で

「うんっ? なにが?」

 と返ってくる。

「忘れてたけど、用事があるんですよ。だから、どうしようかと……あー、待たせてますね、この時間なら」

 アオイがやっとこちらを見てくれたことにこっそり安堵して、表面上は冷静に、チラリと腕時計を確認する。短針が、待ち合わせ時刻を一時間ほど超過していることを示していた。

「えっ、待たせてるの? それはダメだよ! 行っていいよ、鍵返しておくから」

 さすがにこの時間だけおとなしく待たされる相手はいないでしょう、と心中で呟くが、アオイが言うならとしぶしぶ校舎に足を向ける。

「はーい、じゃあ行ってきます……先に帰っててくださいね? 待ってなくていいですからね。前みたいにプールで泳いでた、とか止めてくださいね?」

「そんなに心配しなくていいから……昨日もおとといも言ってて飽きないの?」

 少々うざったそうに顔をしかめてみせるアオイに彼は無言で背を向けて、ひらりと手を振った。

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