第二十一話 ささいなプレゼント
柚香は朝からブルーだった。
今日はポスター報告の原稿締め切り日。職員室に入るなり、同僚の藤田が声をかけてきた。むろん、朝のあいさつだけではない。
「今日は残業確定ですね。ヘタをしたら生徒たちのポスターを作るのを手伝うことになりませんよ。去年の担当の先生は、午前様だったらしいです」
残業確定など、たまったものではない。娘を預けている学童保育施設は、午後六時までだ。七時まで延長は可能だが、事前に連絡しておかなければならないし、別料金だ。まあ、今日は延長を申し込んではいるけど。でも、「午前様」とか気軽に言うなんて、本当に藤田はクソね。
たまに早めに仕事を切り上げて大学食堂でパフェを味わいリラックスすることさえ、娘を犠牲にせざるをえない。そんな気持ちで毎日を過ごしているのに、子なしの同僚は、やれ、懇親会だなんだとテキトーに遊び呆けている。人間関係の構築も「仕事」だと。それは誰だって同じでしょ。
とはいえ、子どもがいるのかいないのか、そんなことを柚香は他の同僚に聞く気にならない。知りたくもない。子どもがいても、子どもが寝てから帰宅したのでは、いないのと同じだ。さらに週末は「少しは仕事から解放された時間が欲しい」と言ってスポーツクラブに行く同僚もいる。そんな話を職員室で自慢げにしているのを柚香は聞いたことがある。「子どもは小さいけど、嫁が理解があってね」。その嫁の心を、あなたは読めるのかしら。奥様が専業主婦でないことを心から祈るわ。平日、二十四時間子どもの面倒を見て、週末さえ夫に逃げられる。ブラック企業ならぬブラック家庭。
「午前様」。三世帯家庭だったら気にしなくてもいいのに、と柚香は思うが、ないものねだりだ。周囲に助けを求められる人は、いない。正確には、求められない。求めたくないのかもしれない。同じことだった。
さすがに「午前様」は無理としても、午後七時前にはここを離れなければならない。最悪、締め切りの延長を願い出るしかない、たとえ自分の評価に傷がついてでも、だ。他の同僚に代わってもらうのもイヤだ。仕事では、できるだけ、「子どもがいるから」とは言わないようにしてきたつもりだ。だが、その仕事が、子育てをする人間を想定していないのだから、仕方がない。
まだ午後五時半。定時を過ぎているが、帰る教員は少ない。職員室で二人を待つうちに、柚香は次期生徒会役員選考会議のことを思い出していた。
あの会議に出席する前、柚香は、秀雄に友達がいることを学生食堂で確認し、安堵していた。その友達が女友達だったのには違和感がないではなかったが、秀雄を取り巻くクラスの妙な雰囲気、演劇でも見ているような違和感よりはマシだった。
だからといって、次期生徒会役員選考会議に出てくるとは思ってはいなかった。それに、秀雄はもちろん生徒会役員にはなれないだろうとも思った。
ところが。あのとき、会議がいっしゅんザワついた。そして、気が付けば、なぜか秀雄と沙代里が次期生徒会役員になっていた。いくら特特待生でも、「公爵」の境川さんとうまくやれるはずがないわ。宮崎さんがいないと、あの子は、人とまともに話すこともできないのだから。
そんなわけで、柚香は、秀雄と沙代里が二人で職員室に入ってきたのには心底驚いた。秀雄が一人で来るか、沙代里があさひと二人で来るものと思っていたのだ。
「おつかれさま、境川さん、日野原くん」
秀雄が大きな荷物を抱えていた。ポスター原稿の束だ。沙代里はその横で突っ立っているだけだ。
「すみません! 遅れました」
秀雄はポスター原稿を近くの誰も座っていない机に置いた。
「あらあら、藤田先生が言ってたけど、もっと遅いこともあるらしいわよ。クラブのみんなは締め切りを守ってくれたのね?」
「ええ、まあ」
ポスター原稿の束の一番上には、大きくサッカー部のエースの写真が張り付けられていた。その脇には、近年の主だった実績が列挙されている。いつものサッカー部にしては、気が利いているわね。去年なんて、文章だけだったから。
柚香は、秀雄が立ったままなのに気づいた。沙代里も、その横で押し黙っている。境川さんが宮崎さんと一緒にいないなんて珍しい。
「どうしたの? もういいわよ?」
「すみませんでした!」
秀雄は、頭を下げた。沙代里も、それを見て少し頭を下げた。いかにも、頭を下げ慣れた人間と、下げ慣れていない人間。
「え、な、なに?」
柚香はうろたえた。もしかして、原稿、全部そろってないとか? それとも、破いちゃったのがあるとか? あるいは、汚しちゃったとか。
「締め切りを二十分も過ぎてしまいました! 本当にすみません!」
「締め切り? 締め切りには間に合ってるわよ? だって今日中に持ってきてくれたじゃない」
「いえ。今日中、という場合、ふつうは原稿を受け取られる先生がお帰りになる時間までだと思います。でも、定時の午後五時十五分を、二十分も過ぎてしまいました」
それは、生徒というよりは社会人の常識ではあったが、その常識が通用しないのが実社会であったりもする。定時は名ばかりで、サービス残業もある。だから、秀雄の言ったことはきれいごとでしかない。だが、それは、柚香にとってみれば、あまり知らない人間からの気の利いたプレゼントのようなものだった。少し気持ち悪いが、ありがたい。
「あはは。生徒が先生を気遣ってどうするの。でも、ありがとう」
柚香は、自然に笑みが出た自分に気づいた。作り笑いでない笑いは久しぶりな気がした。
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