進級

第193話 移り変わり

 バレンタインというウインターシーズン最後のイベントを終えると、二年生という時間も、残すところ学年末試験のみとなった。


 いくら学年末で範囲がこれまでの比にならないくらいに広いとはいえ、新しく習った範囲はそれほどウエイトのあるものではなく、どちらかといえば復習メインといえるだろう。

 しかし、そこで点数を落としてしまうようでは、今までの一年間の「クラス一位」という位置を維持し続けてきた努力が水の泡となってしまうかもしれない。だからこそ、今回も一切気を抜かずに本気で勉強を積み重ねていく。


 今回もいつものようにチーム戦で点数を競い合うのかと思いきや、「今度の学年末試験は自分の力でどれくらいできるか試したい」という結衣の強い希望によって、個人戦という形を取ることになった。


 今までの結衣は、休み時間はいつもお友達と楽しそうにおしゃべりしていたのだが、最近ではちょくちょく机に向かって問題とにらめっこしている時間も増えてきたように感じる。


 進路希望調査によって自分の中で目標ができたのだろうか。

 人というのは、何の目印もないところには真っすぐ辿り着くことはできない。

それは大海原を渡るときだって、方位磁針や灯台の小さな光がないと、目的地に到達することができないのと同じこと。


 いくらまっすぐ進もうとしたって、行く手には必ずと言っていいほど、誘惑という魔の手が存在しているのである。

 それはいつだって俺たちを足止めしたり、違う方向へと謝った導きをしてしまう。

 それが正しい選択ではないことがわかっていても、それが妙に魅力的に見えてしまうのだから、非常に厄介なものだ。


 これを勉強というものに当てはめてみたってそうだ。

 ただ何となく勉強をしていても、机の本棚においてある漫画に手を伸ばしてしまったり、携帯に注意が向いてしまって集中できず、結果的に、時間は過ぎているのに勉強は全然進んでいないということになるのである。


 つまり、たとえ目に見えないような小さな目標であっても、今日一日の目標であっても、何か自分の中でゴールを決めておくことで、多少のブレが生じたとしても、すぐに軌道修正を図り、ゴールへと向かうことができるのである。


 今の結衣は「大学合格」という大目標を定めたことによって、その下の小目標、中目標も必然的に決まってきたのだろうか、俺から見ても、結衣の日常が充実しているように見える。


 そして、学年末試験の結果発表日。


 「――結衣、結果どうだった……?」


 「わたしは八位だったよ! 前回よりも上がって、ついに一桁になったよ!」


 「すごいじゃん! おめでとう!」


 「えへへ……ありがとう。そういう伊織は?」


 「もちろんキープしました!」


 「だよねぇ……さすがに伊織には勝てそうにないよ……」


 がっくしと肩を落とす結衣。


 「で、でもさ。結衣は確実に順位上げてきてるじゃん。何かこう……コツ? とか掴んできたりとかしたの……?」


 「う~ん、どうだろ……」


 顎に手を当て、考える仕草を見せていたが、何か思い当たる節があったのか、すぐに口を開く。


 「これをコツっていうのかわからないんだけど……。いつもは伊織にすぐ質問してたよね。でも、まずは自分で考えるようになってから、粘り強さ? っていうのかな、いろんな方法で解いてみようって思えるようになったんだ」


 「いいじゃんそれ。結衣を見ていると、俺ももっと頑張らないとって思う」


 「えぇ~。これ以上伊織が頑張っちゃったら、わたし勝てないよ~」


 「そんなことないって」


 結衣は冗談半分に笑いながらそう言っているが、現実問題としてそれは冗談の域を超えようとしている。

 実際、この一年で結衣のクラス順位は十位近く上がっていて、その伸び率で言えば、俺なんかよりもずっと高い。


 マラソンとかでは「追いかけるよりも追われる方がずっと辛い」なんて言われているが、本当にその通りだと、強く実感している。


 このまま油断していると、いつか足元をすくわれる――二学期の期末試験のときの予感が、より現実に一歩近づいたような気がする。


 「もう三年生か……」


 ふと、そんなことを口に出していた。


 「伊織……?」


 「いやぁ、ほら。三学期って短いってよく言うけど、やっぱりその通りだったなって」


 学校なんて早く終わってくれればいいのに。

 友達と言えるほどの友達すらいなかった俺は、ただひたすらに休日や長期休暇を待ち望み、そして平日を空気と同化して消費していく。学級閉鎖なんて聞いたら、飛び跳ねて嬉しがっていたっけ。


 たしかに、今でも休みは嬉しいし、平日の学校はちょっと億劫になるときもある。

 でも、今はそういった気持ちよりに勝るものがある。

 それは結衣をはじめ、達也や佳奈さんと言った、俺と一緒の時間を過ごしてくれる人ができたことに対する幸福感だ。


 一緒の時間を過ごすこと、それを人は「友達」だの「親友」だの言うみたいだが、俺はその曖昧模糊な定義がどうも信じられず、その言葉を使うことに少し遠慮気味になっていた。


 そもそも、自分と付き合ってくれている人を、そう言った言葉で括り付けする方が無理があるだろうし、人それぞれ付き合いの濃淡だって違ってくる。

 だから、それらをまとめて「友達」だとか「親友」だとか言う方が、俺はその人たちのことを考えていないのではないかとすら思ってしまう。

 だから、俺はあえてその区別をしないでいる。おそらくこの先も。


 「――わたしもだよ」


 「え……?」


 「こんなに学校が楽しいって思ったのは、今年が初めてかもしれない」


 「そっか……」


 しかし、お互いそれ以上多くは語らない。

 だって、そんな思い出語りをこのまま続けてしまえば、この楽しすぎた一年が終わるんだって、心地よい日常に終止符を打たなければいけない。いやでもその現実を突きつけられるような気がするから。


 「――あ、伊織。あれ見てよ」


 結衣が窓の方を指さす。


 「もう桜が咲いてるみたいだよ」


 「本当だ……きれいだね」


 「うん……」


 二人が見つめる先には、季節をフライングしたかのように咲いている河津桜。

 その一つ一つは小さくても、それでもそれが何本もまとまれば、遠くからでも鮮やかに映る。


 その温かみのある光景は、一つの季節が過ぎ去り、次の季節が着実に近づいていることを無言で教えてくれているようだった――。

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