第161話 二人きり

 「ゆ、結衣……?」


 何ということだろうか。そこには本田や片山、小林の姿はなく、代わりに結衣が一人ぽつりと立っていた。


 「え、えへへ……」


 結衣は指先を触りながら少しだけ俯き加減にそうつぶやく。


 「『えへへ』じゃなくてっ! どうして結衣がここにいるの……?」


 俺の疑問は至極真っ当なものだろう。

 だって、ここは男子フロア。女子フロアとは階が別だから、間違えて来てしまった……なんてことはとてもじゃないが考えられない。


 「え、えっとね。そのことなんだけど……」


 そのとき、廊下の向こうから見回りの先生らしき人の声が近づいてきた。


 「ここにいるとバレちゃうから、とにかく部屋入って!」


 「う、うん……」


 結衣のスリッパを部屋に隠し、先生がいつ来てもいいように準備してから、改めて結衣と向かい合う。

 

 「そ、それで……。どうして俺らの部屋に……?」


 「じ、実は……罰ゲームになっちゃって」


 「罰ゲーム……?」


 「うん……」


 おいおいおい。どこのどいつだ、こんなに健気でかわいい結衣を罰ゲームなんかに陥れたやつは。許さんぞこらぁ!


 「べ、別にいじめられたとか、そういうのじゃなくてね全然!」


 「そ、そうなの? ならよかった……」


 あっぶね~。あわゆく手を汚すことになりそうだった。ふぅ。


 「トランプやってて、一番多く勝った人は、一番多く負けちゃった人に何でも一つだけ言うことを聞かせるって言うのをやってたの」


 「あぁ~、王様ゲーム的なやつね……」


 王様ゲームはただの鬼畜ゲーム。もし好きな人と一緒に何かできるなら至福の限りではあるが、そんなにうまくはいかないのがこのゲームの本質。大体はその場を大いに盛り上げてもらうべく、いじられキャラが犠牲となっていくのだ。

 そうやってそこに生まれた楽しい空間というのは、幾千ものいじられキャラの屍が積み上がってできている。


 まぁ、俺はそんな経験したことがないし、むしろ王様ゲームそれ自体すらやったことないんですけどね……。


 「ってことはつまり……」


 「そうなんです……。わたしが負けちゃったの……」


 「あちゃ~」


 そればっかりは何とも言えない。だってルールですもの。


 「それは残念だったね……」


 俺はガックシとうなだれる結衣の頭に手を伸ばす。


 「……っ!」


 びっくりしたのか、触れた瞬間はビクンと肩を強張らせていたが、徐々にそれを緩めていく。

 しかし、俺は気付いてしまったのだ――今この瞬間、ここには俺と結衣しかいないということに。そして、この時間になってもあいつらが帰って来ないということは、女子部屋に行くことができて、しばらくは帰ってこないだろうということに。


 つまり、しばらくこの部屋に、俺と結衣は二人っきりなのだ。

 そう思った瞬間、心臓が大きく跳ね上がった。


 「ふ、二人だけだと、何だかこの部屋も広く感じてくるね、あはは……」


 「そ、そうだね……」


 緊張というのは人に伝染してしまうものなのか。それともただ単純に結衣もこの状況に気付いてしまったのか。結衣はさっきよりも深く俯いてしまう。

 しかし、耳まで赤くなっているのは丸見えだった。


 沈黙がやけに広く感じる部屋を支配する。心なしか、シャンプーのいい香りがふんわりと漂ってくる。


 「ゆ、結衣は……もうお風呂入ったの……?」


 「お、おふ……⁉」


 結衣は背中を反るようにして俺の方を目を見開いて見る。


 「そ、そんなに変な臭い……する、かな?」


 結衣は両手を身体に抱くようにして小さくなると、くんくんとジャージに鼻を当てる。

 これはまずい。まず過ぎる。

 女の子に「お風呂入った?」なんて聞かないし、それは捉え方によってはあらぬ誤解を招きかねない。


 「あっ、いやっ。そ、そうじゃなくて……その……い、いい匂いだなって……」


 自分でも何を言っているのかわからなくなってきた。というか、もともと俺の言っていることは自分でも咀嚼できていない節があるから、ある意味平常運転なのかな? 

 いや、そんなはずはない。明らかに空回りしているぞ、俺。


 「い、い、いいいいい……⁉」


 その瞬間、結衣の動きがピタッと止まると、続いて顔がかぁーっと染まっていく。見事なくらいの赤色――なんて、そんな悠長なことは言ってられないか。


 「さ、さっき入った……ばっかりだから……」


 「ぐふっ……!」


 やられた、打ち抜かれた。「お風呂上り」という、その言葉に。

 俺はその場に倒れ込む。もうこのまま昇天してもいいくらいだ、ぜ……。


 「い、伊織っ……⁉」


 結衣が俺のもとに駆け寄ってきて心配そうな声を上げる。


 「あ、あれ……天使がいる……」


 今にもキュン死しそうな俺の視界に神々しい御姿が映る。


 「て、天使って……恥ずかしくなってきちゃうからやめてよぉ~」


 「あぁ、天使は結衣だったのか……」


 その声を聞いて、今の天使のような人が結衣であることを理解する。

 いや、もともと「結衣=天使」なのは不変の真理だから、理解もくそもないか。だって結衣は天使だもの。


 そして次の瞬間、俺の首がひょいと持ち上げられると、柔らかく、ほんのりと温かい感触が首筋に伝わってくる。


 「これは……」


 枕かなと思ったけど、ここの旅館の枕はこんなに弾力はないし、温かくないし、それにこんなにいい匂いはしない。それに、視線の先にすぐ結衣の顔がある――ってことはつまり……あれかっ!

 男子諸君なら一度は想像を膨らませたであろう、あの伝説の「HIZAMAKURA」だ。


 「ゆ、結衣さん……?」


 嬉しい。俺はこの上なく嬉しんだけど。結衣さんってばなんか積極的ではないですか?


 「わたし、好きな人に膝枕してみたかったの……。それに……」


 すると、すっと目を閉じた結衣の顔がどんどんと迫ってくる。


 「えっ……」


 これは、まさか……あれですか……あれですよね……。

 俺の顔に結衣の身体が覆われ、お互いの小さく漏れる吐息が感じられるほどの距離になる。そして、あと数センチ――のところで、


 「「たっだいま~‼」」


 本田と片山がご機嫌な様子で、小林と一緒に帰ってきた。


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