第117話 ダッシュ

 ――間違いない。あれはたしかに村井凛、本人だ。

 俺は最初、あまりに聞き覚えのある名前を耳にして、実は同姓同名の他の一般生徒なのではないかと思ってしまった。そのくらいここでその名前を聞くのが意外だったから。


 でも、その姿を視界に捉えると、それは疑念から確信へと瞬時に切り替わった。

 ふんわりと揺れている栗色のショートヘアとその活気あふれる声。それを見て聞けば、村井凛であることに違いはなかった。


 しかし、俺がその事実に驚いている間にも村井の自己紹介は終わっていて、次の人がしゃべりだそうとしていた。

 このまま俺が村井の方向を見ていたら、さっきまでどんよりとしていた奴がある女の子の順番で突如として振り向き、自己紹介が終わった後もずっと見続けているかなりヤバい奴、みたいに思われてしまうかもしれない。


だから怪しまれないように、もとに視線を戻す。というかそもそもやましいことなどこれっぽっちもないんですけどね……。


 それからすぐに、最後の人の自己紹介が終わった。


 「――はい。実行委員諸君。自己紹介をどうもありがとう。これから先、文化祭当日までの一カ月は、会議や準備等々を含めてかなり厳しいスケジュールなることが予想されます。ついては、諸君が所属している部活動へ多少なりとも影響が出るかもしれませんが、そこのところは頭に入れておいていただけると幸いです」


 なるほど。これから文化祭まではバシバシと招集がかかるってことか。まあ、俺は帰宅部だし、部活への影響は、下校時間が夕暮れ時になるからチャリで事故らないことですね。


 「では、会議等の予定の確認を円滑にするために、今からライングループを作成します。帰り際に僕のところまで来て登録とグループへの参加をよろしくお願いします。それでは第一回会議はこれにて終了とします。お疲れさまでした」


 「「「お疲れさまでした!」」」


 松山先輩の一声で、静まり返っていた会議室が一気に会話の嵐に飲み込まれる。なんだこの無秩序な会話の飛び交い方は……。

 なんだか飼育され始めてまだ間もない動物たちが好き放題に駆けまわる檻の中に放り込まれたような気分だ。


 いつもの教室以上にうるさい。

 それもそのはず。ここには各学年、各クラスの陽キャたちが一堂に会しているといっても過言ではない。まさに陽キャたちのオールスター。精鋭部隊の完成だ。


 俺はこのままここに居続けたら、目には見えない陽キャパワーか何かを浴び続けることになり、精神衛生上良くない。

 こんなのがあと一か月ぶっ通しで続くんだ。これから先は持久戦。しょっぱなで体力を使い果たすのは得策じゃない。


 俺はそそくさと会議室を後にする。これは決して逃げたのではなく、あくまでも「戦略的撤退」なのだ。れっきとした戦術なのだ!


 声という声が飛び交う檻を抜け出すと、廊下に出る。今歩いている廊下は、まだ生徒が残っておしゃべりをしているのに、さっきいた場所がうるさすぎたのか、相対的に静かに感じてしまう。


短時間だったけど、どうも疲れてしまった。早く帰ろうと、歩く速度を上げたときだった。


 「高岡せんぱ~い!」


 後ろから俺の名前を呼びながら走って追いかけてくる声がした。


 「何だ……⁉」


 俺の名前を呼ぶなんて珍しい奴もいるもんだと振り返ると、村井が手を大きく振りながら猛烈な勢いで突撃してきた。


 「うわぁっ!」


 村井は俺の目の前で器用に脚をピタッと止めるが、俺は最近運動不足なのか、それに反応することができず、尻もちをついてしまった。


 「ったたた……」


 「だ、大丈夫ですか⁉」


 「あ、あぁ何とか……。っていうか、いきなり俺の名前を呼びながら廊下をダッシュするとか、何も事情を知らない奴から見たらただのヤバい奴だぞ」


 「そんなの当たり前じゃないですか。文化祭実行委員に先輩がいたんですよ。私びっくりし過ぎて思わず立ち上がって悲鳴を上げるところでしたよ……」


 「そんなに驚いたのかよ。ってか、『廊下を走っちゃいけません』って小学校のときに習わなかったのか? 俺でも知ってるぞ」


 「それはそれ。これはこれ、です。いざというときは廊下だろうが教室だろうが私はダッシュしますよ」


 「そういうもんか……?」


 「はいっ!」


 満面の笑みで答える村井は、いつか部活に入るとか何とかで話したときよりも生き生きして言うように見えた。


 俺と一緒に陸上をやりたいと、涙ながらに懇願されたけど、俺はそれを断ってしまった。その決断自体に後悔はなかったが、あのときの村井の表情を思い出すと、少しばかり胸が痛む。


 あれ以来一度も話したりすることはなかったから、どうしているか心配だったけど、今の村井を見る限りではおそらく順調にやっていることだろう。


 「――先輩、どうしました? そんなに考え事するような顔して……」


 「い、いや別に……何でもないよ」


 「そうですか。まぁそんなことは置いといて」


 いや、君から振ってきた話題をすぐにどこかにほっぽってしまうとは。


 「それで。どういう風の吹き回しで実行委員やろうと思ったんですか? まさかあの先輩が立候補なんて……」


 「さすが村井だな。俺のことを少しはわかってるみたいじゃないか」


 すると、村井はなぜか頬を赤く染めて視線をきょろきょろとしだす。


 「そ、そんなことないですよ……」


 「村井……?」


 前まではこんな挙動を見せることなんてなかったのに。たしか、こういう村井を見るのは高校で再会したときからだったな……。


 「そ、それで……? 実際のところどうなんですか?」


 赤らんだ顔のまま横目で尋ねてくる。


 「実は、俺が休んでる間に先生に実行委員にされてた。ほら、今日最初の方で進行してた柳先生に」


 「あぁ、あの人に嵌められたってことですね。はははっ」


 「おい、笑い事じゃないぞ。俺にとっては死活問題だ」


 「ふふふ、たしかにそうですね。あの空間に先輩が耐えきれるかどうか……」


 にんまりとした表情を浮かべる。くそっ、村井のやつ……。


 「まぁ、でも。村井がいてくれれば俺は安心だけどな」


 「えぇぇっ⁉」


 素でそう思って口にしたが、村井の反応は想像をはるか上をいくものだった。

 さっきよりもさらに真っ赤に顔を染め、その頬を両手で覆い、おろおろとしている。


 「あ、あの……村井さん?」


 ちょっと心配になって名前を呼ぶと、今度は全身を大きく跳ね上げる。


 「じゃ、じゃあそういうことでっ! た、高岡先輩。実行委員一緒に頑張りましょうね! それじゃあまた明日!」


 捲くし立てるようにそう告げると、またダッシュで廊下を駆けて行った。

 何だったんだろう、今の村井……。


 まるで嵐のようにやってきて嵐のように去っていく村井を、俺はただただ見つめることしかできなかった。

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