第110話 焦燥

 「ふぅ、危なかった……」


 膀胱のキャパシティの限界を感じてから急いでトイレに向かったものの、そこには長蛇の列がずら~~~~~と続いていた。


 おいおい嘘だろっ⁉ どんだけトイレ行きたい奴がいるんだよ。

 比較的回転率はいいはずなのだが、なんせ人数が人数だ。俺がトイレの建物に入れたのは、それから十分後だった。


 公衆の面前で失態を犯さずに済んだことに謎の高揚感を覚えつつ、待たせている結衣のもとに戻った。


 「あれ……結衣?」


 しかし、そこにさっきまでいたはずの結衣の姿がない。

 辺りを軽く見渡してみるが、ぬいぐるみを抱えた浴衣姿の結衣はどこにも見当たらない。


 もしかして、気になる屋台でも見つけたから、そっちにつられて今はここにいないのか? 

 はは~ん、結衣さんったらさっきまで「お腹いっぱいだよ~」なんて言ってたけど、実はまだまだいける口だったのかな……?


 きっと俺がいるところで食べ過ぎていると、俺から何か言われるんじゃないかって思ったのかな……?

 まあ、俺は結衣がどんなに食べるのが好きでも全然ウェルカムだよ。ただし、過ぎるのはこの限りではないが。


 そのときの俺はまだそんな冗談臭いことすら考えられるほどの余裕があった。

 しかし、それからいつまで待っても結衣の姿が見えない。


 「――いやいや、それにしては遅くないか……?」


 俺が時計を確認すると、「20:54」を示していた。花火が始まるまで残り五分弱。

 さすがに結衣が時間を忘れてまで食べ物に夢中になるというのはどうしても考えにくい。


 それに花火の時間だって当然知っているだろうし、一緒に見よう当約束までした。

 となると、残る可能性は――。


 まだ時間なら少しある。俺は急いで携帯を開いて電話を掛けようと指を伸ばす。しかし、そこで急に画面がブラックアウトしてしまった。


 「……へっ⁉」


 アプリが落ちたのかと思って電源ボタンを押すと、「充電切れ」のマークが表示された。


 「おい……嘘、だろ⁉」


 その瞬間、身体全身が急激に冷えていくのを感じた。生ぬるい夜風と背中を伝う汗が妙に気持ち悪い。


 「ゆ、結衣っ!」


 俺は駆け出していた。もちろん、このフィナーレの花火を近くで見ようと、さっきよりも多くの人が詰めかけていて、どうしたって走れるような状況じゃない。俺は走りたい欲求を必死に堪え、早歩きで探し始める。

 まずは最初に立ち寄ったわたあめ屋さん。


 「す、すいません! あ、あの、女の子……さっき俺と一緒にいたクリーム色にピンクっぽい花柄の浴衣を着た女の子を見ませんでしたか?」


 「いいや? 俺は見てないな……ごめんよ」


 「い、いえ、とんでもないです。ありがとうございました」


 くそ、見てないか……。これだけ多くの人に接客しているのだから、きっとどこかでみているかもしれないけど、同じような服装の人ばかりだから記憶に残りづらいのかもしれない。

 次は射的のお店へ。


 「おぉ、さっき特賞取った兄ちゃんじゃないか! どうした、そんな慌てて」


 「あ、あの、俺と一緒にいた女の子見ませんでした?」


 「いや、あれから見てないな~。どうした、喧嘩でもしたか?」


 「い、いえ、そういうわけでないですけど……。先急ぐんで、し、失礼します!」


 「おう、気をつけてな!」


 どうして、どうして誰も見てない……? サイズ的に結衣が持っていたバッグには到底入らないだろうから、胸に抱えているはず。それなら誰かしら気が付くと思ったのに……。


 焦りが段々と俺の心臓の鼓動を早めていく。

 せっかく、せっかく一緒に花火を見る約束をしたのに。夜空に大きく咲き乱れる様子を二人並んで見ようって……。


 そのときの「楽しみっ!」とはにかんだ結衣の表情が忘れられない。

 もしかしたら結衣もこの公園のどこかで俺のことを探しているのかもしれない。

 そう思うと早く前に進みたい気持ちが膨れ上がってくる。花火が始まるまでに結衣の姿を何としてもこの視界に捉えたい。


 でも、視界には人、人、人……。一向に前に進む気配がなく、せきとめられたダムの水になってしまった、そんなもどかしい気分だ。


 花火が見れる特等席なんて用意できなかったとしても、ここで二人で一緒に見ることが、俺が今してあげられる最低限のことなのに。それすらもさせてくれないのかよ……。


 もし俺がトイレに行くなんて言わなければ……。

 もし俺がお祭りの前に携帯をフル充電にしておけば……。


 「くそっ……!」


 俺は俯き、地面に向かって小さく叫ぶ。

 浴衣と一緒に父さんから貸してもらった下駄の鼻緒は土で汚れ、慣れてないのにもかかわらず動き過ぎてしまったのがいけないのか、皮膚がすれて出血し、少し赤く滲んでいた。


 ……痛む。歩くたびに足の間と鼻緒が強く擦れていく。

 でも、結衣と一緒に花火を見れないと思ったときの心の痛みと比べればどうってことない。


 だから俺は結衣を探す歩みを止めたりはしない。

 この公園のどこかには絶対にいる。いるってわかっているけど、時間に追われていくごとにどんどんとその視界が狭まっていくのを感じる。どんどんと外側から視界が暗くなっていく、ぼやけていくような感じ。


 その視界は、地ならしのような重低音と、それと同時にやってくる歓声によって一気に元に戻る――花火が打ち上がり始めてしまった。

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