第111話 二人の距離

 花火が打ち上がる。地面を響かせながら爆音を轟かせる。

 この公園にいる人も、家から見ているだろう人も。きっと誰もが夜空に光り輝くこの夏の風物詩を見ようと、上を見つめている。


 だから、俺が花火に目もくれずに必死で周りに視線を送りながら駆け回っているなんて、この中の誰も気にもかけない。いや、気付くことすらないだろう。


 「すいません、すいませんっ!」


 滞留する人の壁にぶつかりながら何度も何度も潜り抜ける。その度に舌打ちされ、睨まれ、文句を言われた。それでも俺は探し続けた。

 この花火を。高校二年生の夏休みの締めくくりであるこの光景を。何としても結衣と二人で見たかったから。


 結衣を探す俺の声は、花火の轟音と人々の歓声のせいですぐにかき消されてしまう。それでも俺は声を張り上げる。少しでも俺の声が結衣の耳に届けばいいと、一縷の希望を抱きながらめいいっぱい声を張り上げる。


 花火の音が一層大きくなり始める。それは着々とフィナーレに向かって時が進んでいて、必然的に結衣と見れる時間も減ってきていることの証左だった。


 暑い。皮膚に触れる風も、身体に流れる血液も。外からも内からも熱さに見舞われ、汗が滝のように流れ出す。


 結衣の名前を叫ぶ喉は枯れ、吸い込む息がつっかえる。からえずきを繰り返し、胃の内容物がこみ上げてくる。どうにかそれを押さえ、また駆け出す。


 探している時間は数分なのだが、体感時間は何時間も経過しているように感じる。

 足の出血はさっきよりもひどくなっていて、さらに土の地面を駆け回ってしまったせいで、傷口には土が付着して真っ黒になっていた。

 しまいにはその傷口に汗が滴り、激痛をもたらす。


 「っ……!」


 今すぐにでも水道場で洗い流したい気持ちになるが、それをすぐに一蹴する。まずは、結衣を探すこと、そして一緒に花火を見る。それが最優先事項だから。


 そう思っていると、さっきまで鳴り響いていた耳を裂くような音が拍手とともにぴたりと止む。


 【――以上を持ちまして、本日の夏祭りは終了いたしました。お忘れ物のないよう、気を付けてお帰り下さい。繰り返します。以上を持ちまして――】


 そして夏祭りの終了のアナウンスが繰り返される。


 「嘘……だろ……」


  俺は歩みを止め、その場に立ち尽くす。


 「結衣と……花火を……」


 結衣と約束して楽しみにしていたのに。花火は目と鼻の先で何度も咲いていたのに。その隣に結衣の姿はなかった。


 結衣も、俺と同じことを考えているのかもしれない。

 この公園という限定的な空間で、お互いがお互いを探し、見つけることができなかった。それを「人で溢れ返っていたから」という理由で片付けてしまってもよいのだろうか。

 ついには「本当に結衣を見つけるつもりがあったのか」とまで考えてしまう。


 俺がその場に立ち尽くす中、人々は「楽しかったね」だとか「花火きれいだったね」だとか、楽しげな表情を浮かべながら口々に言いながら出口へと向かい始めると、滞留していた塊が動き出す。


 「…………」


 俺だって、結衣と今みたいに話していたかもしれにないのに……。

 ここにいる人には何の罪もないが、どうしても俺の耳に入ってくる明かるげな会話は今の俺の荒み切った心に強く深く突き刺さる。


 その声のする方に怨念じみたオーラが出てしまっていたのか、過ぎ行く人々は俺のことを避けているようだった。

 探し回っているときはアドレナリンが出ていたが、そうでなくなった途端に分泌が止まり、気にしていなかった疲労や痛みが身体の至る所から感じ始める。


 立ち止まってはそれらに押しつぶされそうになると思った俺は、ゆっくりではあるが、人の流れに抗うように、楽しい時間から一気に奈落の底まで突き落とされたようなこの現実に抗うように歩を進める。


 人の流れから抜け出して視界が開ける。すると、視線の先にぽつりと立っている少女がいた。

 クリーム地を基調としていて、浴衣に全体に薄紅色の花模様がちりばめられている浴衣。見覚えのあるぬいぐるみを胸に抱き、俯いている。


 それが誰なのかは一目でわかった。ずっとずっとその姿だけを探していたから。

 俺はその俯く少女に向かって駆け出す。


 「――結衣っ!」


 彼女の名前を呼び、目の前に立つ。

 涙の跡がおめかしの上に残っている。俺も今すぐにでも泣きたいくらいの気持ちになるが、それをぐっとこらえて息を吸う。


 「ごめん、はぐれちゃって……」


 「い、伊織……。ううん。わたしもそこですぐ戻らなかったから……」


 「戻る……? 結衣、どこか行ってたの?」


 「あっ、うん。実は、すぐ近くで迷子の子がいたの。だから一緒に本部まで行って親御さんが来るまで待ってたの……」


 「そうだったのか……。てっきり俺のトイレが長すぎるのが心配で探し出しちゃったのかと思ったよ……」


 「ご、ごめんね。せっかく一緒に花火見ようって言ったのに……。わたし……一人で勝手に……」


 「――そんなことない」


 語尾が震え始め、今にも涙が溢れだしそうなくらいに弱々しくなる結衣に、俺はそうはっきり言い切った。


 「えっ……?」


 結衣はきょとんとしたような顔で目を丸くする。


 「そんな迷子を見て見ぬふりして花火をなんて楽しめないよ。結衣がしたことは絶対に正しい。俺との約束なんてそれに比べたら、どうってことないよ」


 「い、伊織……」


 「ま、まぁ……。結衣と一緒に花火を見たくないっていうわけじゃないから……」


 「うん、わたしも……」


 小さく頷く結衣を見ていると、あることに気づく。


 「――それにしても、だいぶ人減ったね……」


 さっきまでいた大勢の人の姿が消え、辺りは閑散としていた。


 「もう時間も時間だろうし、そろそろ俺たちも帰ろっか」


 「う、うん……そうだね」


 結衣は下駄を静かに前に出す。俺も少し後ろから付いて行く。

 お互いに「花火が見たかった」とはもう言わない。それを言ってしまえば、それぞれが花火よりも大事だと思って行動したことに納得していないと換言されてしまうから。

 名残惜しい気持ちはあっても、それはいつの日かもう一度やればいい。過去をどう悔やんだって過去は変えられないのだから。


 結衣と俺との間に何とも言えない微妙な距離が開く。このまま二人の距離が空くとまたはぐれて、今度はもう会えなくなってしまうかも――そう思ったら急に怖くなった。

 だから、俺は走り出すようにして結衣に追い付く。そして――その手を握った。


 「い、伊織っ……⁉」


 結衣はびくっと身体を震わせて少し俯き加減になる。しかし、それでも俺はその手を離すことはしない。


 「もう……はぐれないようにしないと……いけないから……」


 結衣の手は俺が思っていたよりもずっと小さく、華奢に感じる。そんな彼女を俺は少しでも守ってあげたい。


 「何それ……ふふふ」


 結衣は小さく笑うが、すぐに俺が握っている手に力を込め返す。


 「わたしも……このまま帰りたい」


 さっきまでの重苦しい雰囲気は、そこにはもうない。

 陰っていた雲が晴れ、俺と結衣が並んで歩く道を月光が照らし始める――。

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