第38話 洗顔料

 俺はいつもより早く目が覚めた。土曜日だというのに。

 なぜかって?

 それは、体育祭の片付けに行かなくてはならないからだ。


 それに、俺にはまだ憂慮すべき事項が残っている。

 昨日の今日だから、今朝も家族はみんな俺の話題でもちきりだろうな………。

 朝からあの怒涛の詰問を喰らうのではないかと想像しただけで、憂鬱感に苛まれてしまう。


 そんなことを考えているからだろうか。「なんだか体がダル重~」な感じがして、無性にAの力が欲しくなった。

 だが、そんな都合よくあの黄色い錠剤が手元にあるわけでもなく――


 ……っと、いかん、いかん。このままだと、学校に遅刻してしまう。

 何とかサプリメントに頼らずに自力でベッドから降りて、制服にちゃっちゃと着替え、どんな受け答えをして乗り切ろうか………などと考えながら階段を下りる。


 「――お、おはよ……」


 リビングに入ると、そこには――


 「あら、伊織。おはよう」


 「おはよう、伊織」


 「あ、おはよう、お兄ちゃん」


 いつもの母さん。いつもの父さん。そして妹の美咲もいる。


 「………………」


 ………あれ? 聞かないの……………?

 きっと俺は拍子抜けした顔をしていたに違いない。

 だって、昨日の今日だぞ?

 あんなに恋愛トーク大好き家族なら、普通一晩寝ただけで恋愛好奇心がなくなるなんてことないでしょ。


 俺は詰問されずに済んだことに安堵感を抱く一方、もうちょっと話題にしてもらってもよかったのにな……という気持ちも心の片隅にあった。

 ――いや、かまちょか俺は。


 「伊織にしてはいつもより早いじゃない。……あ、そっか。今日は学校行くんだっけ。朝ごはんもう出来てるから、そんなところでボケ~っと突っ立ってないで、顔でも洗ってきなさい」


 「お、おう………」


 母さんに言われるがまま、俺は洗面所に向かった。


 「さて……………………」


 俺は鏡に映った自分の顔を見る。

 いつもなら洗顔なんて水で軽く済ませるだけだから、自分の顔をじっくり見ることなんてほとんどしない。それに、いつも遅刻ギリギリだからね☆


 ――しかし、だ。

 今日は、近藤さんと付き合って初めての学校。気合いが入るのも無理はない。


 「やっぱり、女の子は清潔感のある男が好きなんだよな……」


 俺は昨晩の拷問のあと、人類の英知が詰まったインターネットで、『女の子からの高感度が上がる秘訣7選♪』みたいなサイトをひと通りチェックしていた。

 最近だと、動画サイトで流れる広告でもそういう類のものをよく見かけるから、彼女ができたとなれば、余計に気になってしまう。


 そんなの決まっているじゃないか。俺は今までオサレへの関心・意欲・態度が留年レベルだからな!(決して自慢するところではない)


 かといって、調べたのが昨晩ということもあって、当然ながら、オサレな匂いするような洗顔料なんて用意できているはずがない。


 どうしようかと思っていたところ、ふと棚に置かれているものに目が行く。

 そこには『みさき』と書かれた洗顔料とかがいくつも置いてあった。


 「へぇ~。女の子ってこんなに使うのか……。大変だなぁ……」


 そんな月並みの感想をつぶやくきながら、おもむろにそのうちの一つを手に取る。 

 あいにく、俺には洗顔料についての知識が全くないから、洗顔料なんてどれも同じものだろうと思っていた。


 「まぁ、一回くらいなら平気だろ…………」


 そう判断した俺は、美咲の洗顔料をちょいと拝借した。


 「うわぁ、こんなに泡立つのかよ」


 洗顔料童貞の俺は、初めて見るほどの量の泡に少しばかり興奮を覚えつつ、ゆっくりと顔へ付けていく。


 「……き、きもちぃ~」


 な、何なんだこれは⁉ 

 濃密な泡が皮膚に吸い込まれていくみたいだ。顔の皮脂汚れがすぅっと落ちていくような感じがした。

 こんな気持ちいいなんて………。洗顔料ってヤバいなマジで。


 ――それにしても、だ。

 美咲の野郎、俺に黙っているなんて、けしからん!

 よし、今日帰ったらポチろう。そう決めたときだった。


 ――ガラっ!


 「お兄ちゃ~ん、いつまで顔洗ってんの~? 早くしないと遅刻しちゃ――」


 洗面所のドアが開き、美咲が入ってきた。 

 いつまでも俺が戻ってこないのを心配してくれたのか、美咲が洗面所まで来たのはいいのだが…………。美咲は最後まで言い切る前に言葉を失ってしまった。


 そりゃそうだ。

 目の前にいるのは、自分の洗顔料を勝手に使い、洗顔料の泡のすごさを実感して興奮している、顔面泡だらけの兄。

 俺が美咲の立場だったとしても同じ反応しちゃうよね…………。


 「――お、お兄ちゃん⁉ な、何やってんの⁉」


 美咲はしばらく硬直していたが、徐々に硬直が解けてくると、今度は顔を真っ赤にし、怒鳴り始めた。


 「あ、美咲⁉ え、え、えっと……。これは……その……色々と理由があってだな……」


 俺は必死に弁解しようとするものの、完全に怒りスイッチが入ってしまった美咲には届いているようには見えなかった。

 ていうか、泡のせいでそもそも美咲が見えにくいんだけどね。


 「言い訳なんてどうでもいいからっ‼ 妹の洗顔料使ってニヤニヤするなんてぜぇぇぇったいおかしいから! 彼女出来て浮かれてんじゃないの? この変態兄貴‼」


 ――バチン‼


 そういって美咲は泡だらけの顔に平手打ちをかますと、洗面所から出ていってしまった。


 「さすがに妹のを勝手に使うのはダメだったか…………」


 俺ははたかれた左の頬を押さえながらそうつぶやくのだった。


 はぁ……早く泡落とさないと。目にしみちゃう。


 ――妹の平手打ちはもっと心にしみちゃう。

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