第23話 一筋の光
俺も最後にバトンを受けたのだが……。
さっきと比べてコンディションが上がったということはまったくなく、気分はなお最悪のままだった。
シューズの鉛を埋め込まれたかのように重い。
脚も走り込みをしていたときの感覚とは大きく異なり、誰かに押さえつけられているような感覚すら覚える。
そんな鈍重な足は、一歩を地面に踏み出すごとに底なし沼に吸い寄せられるようだった。
周りの声援すらもまったく耳に入ってこない。
今俺がいる場所は、まるで深海のようだった。光や音が届くことのない、まさに真っ暗な空間。
そんな暗闇の中をひとり孤独な状態で走っているみたいだった。
200mなんて普通の人でも三十秒もあれば走り終わるのにもかかわらず、今は10m進むのに何秒にも、何分もかかったようにすら感じる。
――いつになったらこれから解放されるのだろう。
――いっそのことこのまま走るのをやめたい。
そんな考えが次々と脳裏をよぎる。
そして、いつまでたっても続く真っ暗な世界に心が折れそうになり、ふと足元に視線を落とした――そのときだった。
「――わたしの知ってる高岡くんは、そんなんじゃなかった‼」
「――⁉」
俺は今、孤独な世界にいて、光も、声すらもこちらには聞こえないはずなのに。
しかし――。
たしかにその聞き慣れた声は、一本の光の筋となって俺の耳に届いてくる。
俺は声のする方に顔を向ける。
「っ……………‼」
――やっぱり。
その声の主は――やはり近藤さんだった。
応援席の最前列に、彼女は立っていた。
小柄な体格の近藤さんは、人が多いとその中に埋もれてしまうのではないかと心配になってしまうのだが……。
しかし、今の彼女は――誰よりも光り輝いていて、そして、誰よりも大きく見えた。
遠目から見てもわかるくらい顔を真っ赤にしていて、いつもはおしとやかにつぐまれているその小さな口から発せられる声は、今ここにいて声援を送っている誰よりも、はっきりと俺の耳に届いている。
――やっぱり君が、いつも君が。
嫌な気持ちになったとき、どうしようもなく途方に暮れたとき、自分ひとりでは何もできなくなったとき。そこには必ず君がいてくれた。
その瞬間、俺の身体をむしばんでいた黒い靄がすーっと引いていくのを感じた。
さっきまでのコンディションがまるで嘘のように、視界も徐々にクリアになっていき、身体の鈍重さもなくなっていく。
誰かの一言で簡単に良くなるなら、そんなに重症じゃないだろって言う人もいるかもしれない。
それはたしかに、そうかもしれない。
トラウマを克服することは簡単じゃないと、さっき自覚したばかりなのだから。
これが一時的な緩和だとしても、それは根本的な解決には結びつかない。
しかし、見方を変えることで、それは本質的なところで違うと言える。
一般生徒Aからの声援では症状は良くならなかった。つまり、近藤さんの声だから良くなったということである。
近藤さんは、どちらかといえば普段はあまり活発なほうではなく、落ち着いている印象がある。
しかし、そんな近藤さんが俺に声を届けてくれたということが、俺にとって大きな意味を持ったのだと思う。
――近藤さんがあそこまで勇気を出してくれたのに、それに応えないなんて、そんなことがあってたまるものか。
大きく息を吸い、身体の隅々にまで酸素を送り込む。
さっきまでとは見違えるようになった腕や足を全力で回転させる。
先頭を走っている青組のアンカーの位置を確認したところ、ぱっと見でだいたい差は50mといったところか。
普通なら追いつくことすら困難であると思われる距離ではあるが……。
できない……じゃない――やるんだ。
俺はその高身長を活かした大きなストライドでどんどん加速していく。
先頭争いばかりを見ていた観客たちの声援が、やがてどよめきへと変わっていくのを感じる。
それもそのはず。
走る前から体調の悪そうな雰囲気がまるわかりで、覇気も感じられない、アンカーというイメージとは全くかけ離れた、そんな奴が――最下位から猛烈な勢いで巻き返しを図っているのだから。
100m過ぎであっという間に先頭集団に追いつくと、勢いそのまま、一気に三人を抜き去っていく。
予想することのできなかったであろうこのごぼう抜きに、他のアンカーの人も驚きを隠すことはできず、まるで見間違いでもしたかのように、俺を二度見、三度見する。
しかし、その光景を俺は見ることは決してない。
赤組の応援席に差し掛かり、近藤さんの目の前を通り過ぎる。
近藤さんのほうを見ていると、近藤さんも俺のほうを見ていたらしく、お互いの目ばっちりと合う。
さっきは遠目で表情の細かいところまではわからなかったが、今の彼女は――その瞳に涙を少し浮かべながら、俺にほほ笑んみかけていた。
「――っ‼」
その表情に少し動揺を見せてしまったが、それでも走る速度は緩めたりなんてしない。
俺は近藤さんに笑みを返し、視線をトラックに戻す。
最終コーナーを曲がると、白帯がトップランナーを待ち構えていた。
俺は陰キャでボッチだから――なるべく周りに対して目立つような行動は避けるようにしてきた。
そのスタイルは、陸上にトラウマができて以来、俺の根本的なものとなってしまった。
そして、それはいつまでたってもそのままであると、自分の中で決めるけていた節がある。
しかし、それはもしかすると違うのかもしれない。
陰キャだから目立ってはいけない――そんな決まりなんて、そもそも存在しない。
陽キャ的存在がクラスの中核を担って太陽のような存在となる。
それからあぶれ、その燦々とオーラを放つ者たちから距離を置き、少し遠くからおとなしく見ている者たちが副次的に影の存在――つまり陰キャとなった。たかがそれだけのことである。……そう、たかがそれだけのこと。
しかし、それに長年気づけなかったのは、どこかで無意識のうちに自分で自分にブレーキをかけていたからかもしれない。
ふと、ある考えが脳裏をよぎる。
たとえ陰キャで、これからもそうであるとしても……たまには、少しくらい目立ってもいいんじゃないのか?
――陰キャであることへの劣等感。
――そのままでもいいのではないかという停滞感。
――たまには周りからの注目を集めたいという自己顕示欲。
――ちやほやされることに対する抵抗感。
様々な感情が体中を巡り巡る。
それらは、白帯が目前に迫るにつれ、それに比例するかのように大きくなっていく。
そして――。
乾いた銃声とともに、俺は大きくガッツポーズをしながら、その白帯を誰よりも早く切った。
白帯同士がひらひらと重なり合いながら、静かに地面に落ちていく。
そのとき一瞬―グラウンドから音が消える。
あれだけ大きな声援が。
風で揺れる木々の音が。
時より聞こえてくる飛行機の騒音さえもが。
時が止まるような感覚がするとき、それはいつも自分にとって嫌なことが起こっていた。
だが、今感じているのは、そんな嫌悪感ではない。
むしろ、それは自分の殻を割り始められたことに対する達成感、爽快感、そして高揚感。そんなプラスの感情に満ち溢れていた。
そして、次の瞬間――。
「「「うぉぉぉぉぉおおおーーーーーーー‼」」」
地面を揺らすかのような、凄まじい声援に包まれる。
他のアンカーも続々とゴールし、それぞれが悔しそうな表情を浮かべている。
選抜メンバーの健闘を称える拍手や声援が、あちこちから沸き起こってくる。
もちろん、それはリレーを走ったランナーたち全員に向けらているのだが、その中に俺も含まれていることに、なんだか熱いものがこみ上げてくる。
しかし、こんなに多くの視線を向けられるなんて、まだまともに陸上をやっていたとき以来のことで、実に三年ぶりくらいになる。
久しぶりすぎて、どんな顔をすればいいのかわからず、俺はただただ苦笑いを浮かべるしかできなかった。
その額に一粒の雫が伝って地面に落ちたのは、ここにいる誰も目にすることも、気がつくこともなかった――俺自身でさえも。
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