第22話 襲来
入場が始まるや否や、観客席にいる生徒たちから大きな歓声が沸き起こる――そのときだった。
「――っ⁉」
俺の中にドス黒い靄がかかり始める。
それはまだあまりに小さかったが、しかし、直感がそれに対して必死に危険信号を発しているのがすぐに分かった。
――これはまずい。
観客席から聞こえてくるいくつもの声援が、陸上競技場に集まった観客のそれと重なる。
そして、俺の中学時代のトラウマを呼び戻しに来ているように感じる。
たしかに、これまでの準備期間の中ではトラウマをうまく克服できたように思っていた。
しかし、俺は一つ重大なことを見落としていた。
それは――声援である。
振り返ってみると、俺が走り込みをしていたのは人気なんてほとんどない薄暗い公園だった。
あのときの俺は走れるようになっただけで満足していた。
問題はそれだけだと思い込み、それ以外の要素をまったく考慮していなかったのだ。
走れるようになったことに慢心していた。
ああ……。俺は痛感する。
トラウマを克服することはそんなに簡単なことではない。自分が抱えていたトラウマを少々甘く見過ぎていたのかもしれない。
何年も蓄積し続けたトラウマを克服しようなんて、俺みたいな何の知識もない人間がそんな短期間でできるわけがないのだ。
ちゃんとした病院でカウンセリングとかを受けて、少しずつ改善していくというのが一般的であると思う。
つまり、俺はそもそもの前提から間違えていたのだ。そして、甘く見ていた。
さっきまで小さかった靄はいつの間にか全身を覆いつくし、体のあちこちに異変をもたらす。
冷や汗が額を流れていき、背中に悪寒が走る。
体中から血の気が引いていき、全身がガタガタと震え始める。
胃がきゅっと締まり、昼ごはんが逆流を始める。
そして何度も空えずきを繰り返す。
俺に興味をなくした人たちでさえも、さすがに俺の異変に気付いたようで、
「ちょ、ちょっと大丈夫あんた? めちゃくちゃ顔色悪いけど……」
「おいおい、その体調で走るつもりなのか? 無理するなって」
「今ならまだ時間あるから……先生呼んで来きてやろうか?」
口々にそう言っている。
正直に言えば、今すぐにでも保健室に連れていってほしい。こんなところから一秒でも早く立ち去りたい。早くひとりになりたい――本気でそう思っていた。
「……い、いえ。ご心配ありがとうございます……。俺は大丈夫ですから……」
でも、俺はその提案のすべてを断る。
ここで先生に担がれて保健室に連れていかれるとなれば、色々な人に迷惑をかけてしまうことになるだろう。
まあ、無理に走って倒れても、それはそれで迷惑がかかるわけだが。
うわ、何これ、すごいジレンマ。マジでどうしたらいいんだ……。
視界が歪み始める。俺は朦朧とし始めた意識の中であれこれと思案を巡らせる。
こうなったら、自力で保健室に行けるくらいに余裕を持たせて走るしか――。
と、そんなことを考えていると、乾いた銃声が耳に突き刺さる。そしてその銃声と共に、至る所から全校生徒の猛烈な声援が聞こえてくる。
ついにリレーが始まってしまった。
そこで俺は思い知る――もうここまで来たら後戻りをすることはできない、と。
誰もが立ち上がり、ランナーひとりひとりに必死の声援を送っている。
そんな誰もが浮足立っているような、そんな高揚感が漂う雰囲気の中で、俺はひとりだけ地中に引っ張られるかのように、うずくまるようにその場に座っていた。
身体の震えがその勢いを増していく。
――耳に飛び込んでくる歓声のひとつひとつが。
――目の前を猛スピードで駆けて行くその足音が。
――ランナーの息遣いまでもが。
俺の過去のトラウマを容赦なく素手で抉り出してくる。
鼓動が早まり、呼吸も浅くなる。
Tシャツは大量の冷や汗で滲み、まるで夕立にうたれたかのようにぐっしょりとなっていた。
もう一度ルーティーンの深呼吸で落ち着きを取り戻そうとするが、しかし、良くなるどころか、逆にそれすらもトラウマとして身体が認識してしまい、拒絶反応を起こす。
「うっ…………………」
何度目かの空えずきでついに酸っぱい匂いが逆流し、喉の奥までこみ上げてきて、鼻にツンとした刺激を残す。だが、俺はそれを必死で耐えた。
どうにか少しでも落ち着いて欲しい。もう少しだけ。もう少しだけ――。
しかし、時間というのは残酷なもので、俺の願いなんて聞いてくれるはずもなく、ただ無機質に、そして淡々と進んで行く。
そしてまだ呼吸すら整わない状態で、バトンは第七走者へと繋がっていく。
リレーは第一走者から八走者がそれぞれ100mを走り、第九走者、第十走者がそれぞれ200mを走ることになっている。
目の前に待機していた第九走者のランナーがそれぞれコースへと向かって行くと、俺の目の前の視界が開ける。
俺の視線の先には、体育祭本部やら、来賓席やらがある。
そこで、俺の視線は来賓席に向けられる。
来賓席に座っているおじいちゃんやおばあちゃんは、湯飲みでお茶かなんかをすすりながら周りの人と談笑し、また俺たちをニコニコとした柔らかい表情で見ていた。
――くそ……なんでそんなに楽しそうに見ていられるんだよ……。
ほほえましいはずの光景に、俺は嫌気が差していた。
これが単なる八つ当たりだということは、自分でも十分理解していた。
だから、こんな八つ当たりしかできないような小心者で、臆病な自分が。
心の弱い部分を他人の何かに転嫁することでしか支えることができない自分が。
そんな自分が惨めで、情けなくて――それが余計に心を締め付ける。
でも、こうやってこの苦しみをどこかで発散しないと、自分の中で溜まりに溜まったものが一気に破裂してしまいそうで怖かったから。
破裂するくらいなら、いっそこうしている方がずっと楽だったから――。
やがて第八走者からのバトンが第九走者に渡り、ついにアンカーたちがぞろぞろと動き始める。俺もそれにつられて立ち上がるが、足元がおぼつかず、ふらふらとしていて、千鳥足でコースに向かう。
なんとか所定の位置につくと、俺はぼんやりとした視界の中で、レース状況を確認する。
早いところから順に――青、黄、緑、赤。
つまり、このままいくと最下位でバトンを受けることになる。
俺は心のどこかで安心感を抱いてしまっていることに気づく。
最下位で俺にバトンが回ってくれば、どんなに遅くて最下位のままフィニッシュしても、誰も俺を責めることはないだろう、と。
このコンディションだから、倒れない程度に力を抜いて走ればいい。そしてリレーが終わったら誰に見られることなく、ひっそりと保健室に行ってゆっくり休もう。
俺の中で完璧といえる予定が構築されていく。
……うん、これでいい。
ふと、赤組のほうに視線を送る。
まだ諦めていない人たちが必死に声援を送っているが、その反面、もう盛り返すことはできないのではないか、という悲壮感すら感じ取れる。
……なんだ。これならより一層手を抜いても大丈夫そうだ。
あんなに勝ちにこだわっていた人たちからですら、そんな感情が滲み出ているのがわかる。案外口だけの人って多いんだなと思った。
第九走者が最終コーナーを曲がり、ラストの直線に入る。
さすがに150m以上も走ってきたからだろう。走っている全員が顎を上げて口呼吸をし、苦しそうにしながらも最後のスパートをかけている。
そして先ほど俺が確認した順位に変動は起こらないまま、ついにアンカーへのバトンパスが行われていく。
続々とバトンパスが行われていき、それから少し遅れて、赤組の第九走者がなだれ込んでくる。その人も、ここからの巻き返しに半信半疑の表情を浮かべているようにも見えた。
そして俺はついに、そのバトンを受け取った。
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