8話

 恋なんて、好きなんてわかってなかった。けどわかっているふりをした。先輩に振り向いてもらうにはこうするしかないって思って。


 わたしと先輩が出会ったのは去年の夏、ちょうど一年ほど前のこと。


 地味で目立たない、さりとてクラスから完全に孤立しているわけでもなく、ペアを組んでと言われれば相手はいる。わたしは希薄な関係をクラスで構築してきた。


 だって、親密な関係って怖い。


 誰かと仲良くなろうとして手を差し伸べ、その手を振り払われたら。もし手を取ってもらえたとして、その人と仲良くなれなかったなら。人と人の距離を縮めるのは簡単だ。けどそれは離れることも容易であるということを示している。

 

近づいてから離れたなら、その距離はきっと実際の距離よりも大きくなる。だから近づきたくない。最初から遠いなら、もっと遠くになっても遠いままだから。


 そんなわたしにとって告白されるというのはある意味最悪の事態だと言っていいだろう。自分から距離を取っていても、相手から詰められたなら逃げようがないじゃないか。


「好きだ」って言われて、改めて考えた。


 自分の中に人を好きだという気持ちはなかった。あるのはどうすれば上手く距離を保つことができるのか、というメソッドだけ。


 同性クラスメイト、異性クラスメイト、女子カースト上位、男子カースト上位、オタクグループ、運動部グループ、ぼっちグループ。そうやって分類し、どの分類にはこんな対応と形式を決める。それがわたしの人との交流。


 それは、個人を個人として見ていないということではないのだろうか。


 今、目の前にいる彼女の中ではわたしは特別なのだろう。


 わたし目は彼女をクラスメイトという記号でしか見ていなかった。


 だからこう言った。


「わたしはあなたをクラスメイトとしてしか見ることができないです」


 彼女が何と言っていたのか、それすら覚えていない。それに男女の色恋沙汰もわからないのに、女同士の恋がわかるとは到底思えない。言い訳するわけじゃないけど、自分のことで精一杯だった。周りが見えていなくても当たり前だと思う。


「ごめん、見ちゃった」


 だから校舎の影からそうやって現れた人に、とても驚く。バランスを崩して腰から倒れそうになる。


「ひゃっ……」


「おっとっと」


 倒れかけたそんなわたしを、さっと近づいて支えてくれた。艶やかな黒髪がさらと流れて、鼻孔をくすぐるような香りが漂う。


「ごめん、驚かすつもりもなかったんだけど」


「いえ……ありがとうございます」


 ちゃんと立って、その人の顔を見る。見覚えのある顔だった。


 確か名前は東雲茜さん。一つ年上の先輩で、美人だということで一年生の間でも話題になっていたことを覚えている。そして少し変わった性格だということも。


 今見た限りではそこまで変な雰囲気は感じない。変人独特の身にまとう空気の違いが感じられなかった。


「断ってたよね、告白」


「そう、ですけど」


「どうして?」


 前言撤回、普通の人はここまでストレートに告白を断った直後の人間に質問をぶつけることはできない。こういうところが変わっていると噂される要因だろうか。


 ただ何となく、この人ならわたしが断った理由をわかってくれそうな気がした。根拠は何もないけれど、同類の匂いを感じたのだ。


「怖かったから、だと思います。距離が変わってしまうことが。計算が乱れるみたいで落ち着かなくて」


「うーん……ごめん、わからないかもしれない」


「そうですよね。ごめんなさい、甘えてしまって」


「待って、わからないけど、私も告白されたことがあってね。君みたいに女の子からではないんだけどさ。だからなんとなくわかるっていうか。言葉の意味はわからないけど、感覚的にはわかるというか。そういうこと」


 先輩は不安げな顔をしてこちらを見てくる。そんな顔をしていて尚、その瞳は真っすぐにこちらを見据えていた。


 正直に言えば、少し要領を得ない説明だったと思う。ただこの人は自分の中の言葉を尽くしてわたしに伝えてくれようとしている。その真っすぐさはわたしには全くないもので。


 だからこのとき、わたしは先輩に憧れを抱いた。


 その憧れを無邪気に『好き』という言葉で言い切ることができたなら、どれほどよかっただろう。憧れを好きと呼んでしまうことはきっと悲劇だ。


『わたしが先輩に、『好き』っていう言葉の方程式を教えてあげます』


 自分のこともわかっていないのに。


『いい子じゃないっていうのは認めます』


 わたしは嘘吐きだから。


『先輩のことが好きです』


 わたしは自分が嫌いだ。


 先輩もめんどうくさいけど、わたしだってめんどうくさい。

 いろいろなことをおくびにも出さないで『好きです』なんて言ってしまえる、そんなズルい自分が嫌いだ。


 〇


 後輩は泣いていた。表情自体はいつもとそんなに変わらなくて、だからこそ頬を伝う涙が異質に映る。


「『好き』っていう言葉の意味、先輩はわかりましたか」


「……わからないよ」


「わからないままじゃあ、ダメなんですか?」


「え、だって」


 その意味を知るっていうことは後輩から言い出したことで。


「わかったふりをして、誤魔化して、そうやってもいいじゃないですか。好きじゃなくたって付き合っている人たちはいるんです。わたしもそれで……」


 後輩の足が少し動く。下駄がカラと音を立てた。セミの声が響く中でもその音は耳に届く。涼しげな風が吹いてこずえも鳴き始める。かさかさ、ジジジジ。嗚咽を上げない後輩に対して、周囲だけは確かに音を立てて騒ぐ。


「いいの? 本当にいいと思ってる?」


「いいんです」


「嘘だよね」


「……どうして先輩にそんなことがわかるんですか」


「いいと思ってるなら、どうして後輩は泣いているの?」


 後輩は泣いている。涙を流しているという意味じゃなくて。声も出していないけれど、きっと泣いている。


「それに自分で言ったじゃん。『わたしは嘘吐きなんです』って」


 だから私は笑って、茶化すようにして言った。


「だから、いいって言うことも信用してあげない」


 たっぷり三十秒ほどの沈黙だっただろうか。お互いに口を開かない時間が少し続く。やがて後輩の方から口を開いた。


「わたし、先輩のそういうところは嫌いです」


「嫌いでいいよ」


 不思議だった。嫌いだと言われたのに、まったくイヤな感じがしない。


「即答できるの、本当に何なんですか」


「私は気にしないから。元から近くにいた人が離れたらそれはすごく寂しいけど、それはちゃんとしないで離れたときなんだよ。だから嫌いって言われたら諦めも付くというか、好きって言われたまま、断っただけで離れていかれるとこっちはどうしていいかわからないから。嫌いって言われること自体は気にしないってこと」


 冗長なわかりにくい説明だった。いつもこうだ。自分のことを話すと考えがまとまらなくて、長く話してしまう。


「……ほんとに、先輩って変わりませんよね」


 後輩は最初から、会ったときから変わってないです、と続ける。失礼な、と思ったけれど言われてみれば全然変わってないかもしれない。身長も伸びてないし、考え方もまるで変わらないし、好きという気持ちさえもわかってないままだ。


「確かに変わってないかもね」


「先輩のそういうところが好き、いや……わたしは先輩のそういうところに、憧れているのかもしれないです」


「『好き』と『憧れ』は違うの?」


「さあ、わたしにもわからないです。ただ少し前のわたしは憧れを好きと定義することにしていました。これからのわたしの定義は、これから知っていくしかありません」


「よくわからないなぁ」


「わからなくていいと思います。これはわたしの中の話ですから。先輩は先輩の中に『好き』を見つける他にないと思います」


「わかったようなことを言ってから」


 ふふ、と笑う。さっきまで泣いていたとは思えないほどに饒舌だ。


「先輩はどうしますか?」


「どうって?」


「返事、聞いてません」


「返事……ああ、そうだね」


 後輩は私に『好きです』と言った。それに対して何らかの返答をしてほしいということだろう。いや、よく考えたら言われただけなのだから返事は必要ない気がするけれど……それは気にしないことにした。


 どちらにせよ、ここで答えないと私は私を好きになれないから。


 ……まあ、後輩も私が何て答えるかはなんとなくわかっていると思うけれど。


「私は後輩が好きだよ。でもそれが恋愛感情かはわからない」


 空がパッと光って、花火の音が鳴る。始まったみたいだった。


 その光に照らされながら、後輩は笑ってこう言うのだ。


「知っていました」


「じゃあ何で聞いたの……」


「言葉にすることが大事だと思ったからです」


 再び光。次いで音。その繰り返し。後ろの空で花が咲くたびに腹の底から響くような重音が聞こえる。


「帰ろうか」


「そうですね……」


 後輩が先に進んで、なぜか手を差し伸べてくる。


「行きましょう。やっぱり」


 後輩は私よりも強くて、私よりも先に進んでいる、嘘吐きでかわいい後輩だから。


 わからないなぁ、と思いながらその手を取ってみるのだ。


 私たちは花火の下に向かって、いつもみたいに取り留めのない話をしながら歩いた。やはり空では大輪の火花が咲いては散っていた。


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