第72話 不機嫌芽衣は怖すぎる
「そろそろ……隠してること、話してもらってもいいですか?」
「……え!?」
急に芽衣の声色が変わり、思わず顔を拭いていたタオルを落とす。
「華蓮さんが眠っているとき、うなされていたのは本当です。それはもう、苦しそうに」
こちらに視線を向けることなく、黙々とリンゴの皮を剥きながら話す芽衣。
慣れた手つきでリンゴを回転させているが、何故かその姿が怖く見えた。
「あの……芽衣……?」
「昨日、ホテルで二手に分かれたあと……いや、正確にはその直前からでしょうか。明らかに様子がおかしかったですよね」
ブチ、とリンゴの皮が途切れてはらりと落ちる。
「えっと……いや、それは……」
「昨日、何かあったんですよね。それがもし、麻子さんに関係することなら……力づくでも聞き出しますよ、わたしは」
長い前髪を揺らし、ゆらりと視線をこちらに向ける芽衣。
目のハイライトが完全に消えている。
果物ナイフを持った手が、ゆっくりと黒い闇に包まれていく。
「ちょちょ……怖い怖い怖い!」
「麻子さんのこと……何かわかったんですよね? ね? ね? ね?」
闇の中から微かに覗かせる刃が、ギラリと光るのが見えた。
「待って待って待って! ごめんごめんごめんだから!」
思わず芽衣から遠ざかり枕で身体をガードする。
芽衣はペン回しのように果物ナイフをくるくる回すと、くすりと笑った。
「……冗談ですよ、冗談。そんなに怯えなくてもいいじゃないですか」
「じょ、冗談……? ほんとに?」
完全に極まっているメンヘラ彼女みたいな顔してたけど。
そんな素質もあったっけ、芽衣って……
「でも、その怯えよう。隠していることがあるのは、事実ですよね?」
芽衣は皮を剥いたリンゴを手に持つと、わたしの口元に突き付けてきた。
「教えてください、華蓮さん」
リンゴをぐいぐい押し付けてくる芽衣の目は、真剣だった。
「わたしは、味方ですよ」
「……む、むぐ」
口に押し付けられたリンゴを頬張る。
「……おいしい」
「おいしい、ですよね? うんうん、そうですよね」
満足そうに頷く芽衣。
「やっぱり、リンゴと言えば王林ですよね」
「え、リンゴってふじが一番人気なんじゃないの?」
「は? 戦争ですか?」
「なんでリンゴの品種で戦争になるのよ……」
思わず笑ってしまった。
いやいやこれは大事な話ですよと熱く語る芽衣が面白い。
「……そうよね。芽衣は、味方よね」
聞こえないぐらいの小さな声で呟いてから、芽衣の顔をじっと見る。
「芽衣、聞いてほしい話があるの」
わたしは覚悟を決めると、芽衣のリンゴ談義を遮った。
「昨日、話しそびれちゃったけど……実は……」
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「ミラージュに……光の魔法少女に……魔法を跳ね返す魔法少女、ですか」
芽衣は不満そうな表情を隠そうともせず、思い切り眉間に皺を寄せて頬杖をついていた。
……どう見ても怒っている。
「えーっと……その……」
芽衣の周りで風が吹いているのだろう、髪がゆらゆらと揺れている。
おまけに肩から漏れる黒い闇が、芽衣の周りに拡がっている。
「ご……ごめんなさい」
自分よりも小さい子の圧に負け、思わず謝罪の言葉を口にしていた。
不機嫌芽衣、怖すぎる。
「はあ……いえ、華蓮さんが謝ることないです。でも、わたしが思っていたよりも遥かに情報が多かったので。そうですかそうですか。そんなことがあったのに昨日は何も話さなかったと。そうですかそうですか」
早口で独り言のように呟く芽衣を見て、思わず俯いてしまう。
「だ、だって……どうしたらいいのかわからなくなっちゃって」
下を向いたまま落ち込んでいると、芽衣が小さくため息をついてから言った。
「華蓮さんの不安は、全くの杞憂ですよ。魔獣が現れている……そのことは、わたしには何の関係もありません」
「……やっぱり?」
「やっぱりです」
芽衣は自分で剥いたリンゴを口に放り込むと、飲み込んで言った。
「そもそも、魔獣は今でも時々こちらの世界に現れているんです。それは、普通のことなんですよ」
「え? そうなの?」
初耳である。
芽衣が魔王になってから、わたしは魔獣の姿を一度も見ていない。
だから、もう人間界に魔獣はいないものだと思い込んでいたのだが……東京ではそうでもないらしい。
「それじゃ、魔獣は何のために人間を襲ってるわけ?」
「いや、そうじゃないんですよ。確かに魔獣は姿を見せていますが、今は人間を襲ったりしないはずなんです」
「……どういうこと?」
「魔獣はアストラルホールとこちらの世界を自由に行き来できますから。特に理由がなくても、ふらふら迷い込むことがあるんですよ」
芽衣はリンゴを摘まむと、今度は口に入れずにそれをじっと見つめながら言った。
「でも、華蓮さんの話では……その雷の女は、魔獣が現れていること自体を異常事態のような言い方してたみたいですね」
「……うん、わたしはそう思ってた」
「そのうえ、ミラージュの魔法少女は実際に魔獣と戦っていると……違和感ありますね」
「……違和感?」
「本当に、魔獣は人間を襲っているのでしょうか? もし魔獣が人間を襲い始めたら、わたしも気付くと思うのです。これでも、魔王ですから」
「……確かに」
これ以上ない説得力である。
芽衣は魔王の力を持っている。
一時的とはいえ、魔獣を従えていた魔法少女。
そんな芽衣のあずかり知らぬところで、魔獣が暴れ始めてしまうのだろうか。
それが疑問だったから、わたしも京香の言葉を頭ごなしに否定することができなかったのだ。
「でも、雷の子はそう言ってた。あの子、器用な嘘をつけるタイプとは思えないのよね」
「そうなんですか……」
芽衣が首を傾げる。
雷の魔法少女――瑠奈は、典型的な優等生タイプだ。
あの子が嘘をついているようには見えなかった。
むしろ隠し事があることがバレバレの態度。
だから、瑠奈の言うことは本当で……
「いや……違うか」
ハッと気付き、思わず声が漏れる。
瑠奈が嘘をついていないからといって、瑠奈の言うことが全て真実とは限らない。
もし、瑠奈自身が認識を誤っているとしたら。
この前提は――成り立たない。
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