第10話 毬萌と漢字

 生徒会室で仕事に精を出す俺と毬萌。

 花梨は一年生の学園生活ガイダンスを受講中なのでお休み。

 もうすぐ会計も着任すると言う噂である。

 つまり、毬萌と二人きりの生徒会活動も終わりが近い。


「コウちゃん、ここ、漢字間違ってるよーっ!」

「おう。マジか。どこだ?」

 俺は修正テープを片手に毬萌の席へ移動。


 高校生にもなって漢字の書き間違いなどするなと思われるかもしれないが、スマホが便利すぎるせいで、案外と読めるけど書けない漢字と言うものはある。

 新潟とか、岐阜とか、自分に縁のない県名だってたまにやらかす。


 勉強不足?

 それを言われると言葉もない。

 でも、左と式とか、時々ごっちゃになったりしない?

 しつこい? これは申し訳ない。仕事をします。


「ここだよっ! 山縣くんの縣が形になってるのだ!」

「俺としたことが……。横着して簡単な方と思い込んじまっていたか」

「にははーっ。コウちゃんの負けーっ!」

「言っとくが、俺はお前に負けてないからな? 漢字に負けたんだ。……よっと。テープをペタリと。んで、縣ね、縣……」


「みゃあっ!? こ、コウちゃん……!!」

「なんだよ、動くなって。すぐ終わるから」

「そうじゃなくてぇー! ち、近い、かも、だよっ!」


 ちなみに、今俺は毬萌の後ろから手を伸ばして、修正作業中である。

 そうとなれば、毬萌の指摘も正しい。

 確かに俺と毬萌の距離はかなり近いと表現して差し支えないだろう。


「もうちょいで終わるって」

「みゃ、こ、コウちゃーん……。コウちゃんは、その、へ、平気なの?」

「何がだよ? あれ、縣の右って糸だっけ?」

「もうっ! こんなにわたしとくっ付いて、平気なのって聞いてるんだよぉー!!」



「おう。大丈夫。別に臭くねぇぞ、お前! 平気へいとぅわあぁぁっ」



 毬萌が急に頭を動かすものだから、完璧なヘディングを喰らった俺である。

 まったく、酷いことをする。


「痛ぇじゃねぇか」

「ふーんっ! コウちゃんなんか、知らないもんっ!!」

「なんだよ、どうした毬萌? 怒ってんのか?」

「怒ってないもんっ! 怒ってないけどっ!?」


 むちゃくちゃ怒っていらっしゃる。

 何かまずい事があったかしら。


「ああ、そうか。そうだよな。確かにちょいと自覚が足りなかった。すまん」

 俺はすぐに真実と出会う事に成功。

 これは謝罪の必要があると判断し、頭をペコリ。


「そうだよーっ! コウちゃんには、そーゆうとこが足りてないと思うっ!」

「だよな。ごめん、悪かったよ。謝る」

「むーっ。反省してるなら、許したげるっ」



「やっぱり生徒の苗字くらい書けねぇとまずいおっほぅぅぅぅぅぇ」



 毬萌が俺の脇腹を小突くものだから、興奮した時のオランウータンの鳴き声みたいな声が出てしまった。

 まったく、酷いことをする。


「お、おまっ……。ちょっと、痛いんだけど……」

「知らないよっ! コウちゃんのバカっ!!」

「わ、悪かったって。だから、こうして修正をしてるんだろ」

「みゃーっ!! だから、コウちゃん、近いんだよぉー!!」


 さすがに俺だって学習する。

 かの高名なパスカル先生が言った『考える葦』って、あれ多分俺の事を指しているんだと思うもの。

 俺は、毬萌の小突きと言う名のラフプレーをひらりとかわす。

 かわしついでに、体勢を崩してそのままゴミ箱に頭から突っ込んだ。

 紙くずしか入っていなかったのは、もはや僥倖である。


「コウちゃん! コウちゃんは、わたしの事を何だと思ってるのかなっ!?」

 実に哲学的な質問である。

 パスカル先生をお呼びたてまつる必要ありと見たが、あいにくとイタコの知り合いが俺にはいない。

 ちょっと、一回、恐山の電話番号だけ調べても良いだろうか?


「コウちゃんっ!!」

 なるほど。分かった、ダメなんだな。

 てめぇでどうにかしろ、と。


「毬萌は毬萌だろう? 俺にとって、それ以上でもそれ以下でもねぇよ!」

 我ながら、上手いこと言ったものである。

 これほど哲学的な返答の出来る男子高校生もそうはいまい。

 そうとも、俺こそデキる男子高校生。


「そ、それは、あの、オンリーワンって事、かな……!?」

「おう? うん、まあ、そうね。そう言う事じゃない?」

「も、もうっ! コウちゃんってばさ、すぐそーゆう事言うんだもん! もうっ!!」


 何か知らんが、毬萌のご機嫌も回復。

 理由は分からんが、哲学的問答は終わったらしかった。


「じゃ、じゃあ、コウちゃん。く、くっ付いても良いよ?」

 元よりそのつもりである。


「へいへい、と。おっし、これで良いな! 他には誤字ないだろ? んじゃ、俺ぁ戻るからな。……おう?」

 何故か引っ張られる、俺のシャツの裾。

 しかも結構な勢いである。

 俺の首が締まっちゃう。


「こっち! こっちの、齋藤さん齋の字が潰れちゃってるから! こ、これも、修正だよっ!」

「マジかよ。ったく、仕方ねぇなぁ。んじゃ、隣を失礼っと」

「にへへっ、いらっしゃいませだよー」



 その後、さらに数回、毬萌の添削に引っかかった俺は、一つの机で二人が作業すると言う、効率も悪ければ腰にも悪い苦行を強いられた。


「にへへっ……。でも、コウちゃん、ちゃんと指摘したらすぐに直せるところは偉いと思います!」

「そうかよ。おー、腰が痛ぇ」

「そう言えば、小学生の頃は漢字得意だったもんねっ!」

「そうだったか?」



「だって、金と女は小学一年生で覚えてたじゃん!」

「言い方! 漢字の話だろうが!! こんな事、誰かに聞かれたらどう……する」



 ドサッという音に振り替えると、扉の前には鞄を落とした花梨が立っていた。


「そ、それでも、それでも、あたしは、先輩の事、尊敬してますからー!!」

 そして走り出す花梨さん。


「おい! ちょまぁぁぁっ!! 誤解だ! 待ってくれぇぇぇぇっ!!」



 その後、俺の必死な弁解が聞き届けてもらえたのは、二時間後であった。

 漢字の勉強は怠るなかれ。

 今回は多分、そういうお話。

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