さばのぬくもり

小箱

第1話

 食欲がなかった。


 ある日突然食欲と体重が落ち、原因は不明のまま。身体にそれ以外の不調はなく、体重の減りが止まったのもあって、病院に行くタイミングもすっかり見失ってしまった。小学生の妹と同じ、もしくはそれより少ない量のご飯を食べて、満腹になる日々……。


 あの量でよく腹が膨れるな、と自分でも思う。


 今日の夕食も、茶碗一杯にも満たない白米に、少しのおかずと、さばのみりん干し。妹と同じ量だ。


 目にしてみても、食欲は湧かなかった。


「いただきます」


 手を合わせ、箸を取る。


 今日も、申し訳なさと胃の気持ち悪さを抱えながら、夕飯を食べ進めていく。食べる前は大丈夫だろうと思っていたのに、いざ食べ進めると思った以上に腹が膨れた、なんてこともある。だから食べている間も、多少の不安は残っていた。


 しかし、今回は大丈夫そうだ。既に満腹だが、白米もおかずも平らげた――。安堵したその時、視界の隅に見えたものがあった。


 それは、すっかり頭から存在が抜け落ちていた、さばのみりん干しだった。


 先ほどの通り、こちらは既に満腹だ。だからといって、折角の食事を食べずに捨ててしまうのも忍びない。あれこれ考えた末、一つの結論にたどり着いた。


 そうだ、明日食べよう。


 そうと決まれば、冷蔵庫に保管しなければ。その前に、と棚からラップを取り出した。


 丁寧にラップをかけて、冷蔵庫へと運ぶ。あることに気づいた。


 皿の底が、あたたかい。


 気づいた途端、色々な思いがこみ上げてきた。温かいうちに食べた方が、絶対に美味しいだろう。電子レンジで再加熱したとして、さばを一番味わえる温かさになるのだろうか? どうせなら、一番美味しい時に食べてしまいたい。


 そう思うと、手の中にある温かいさばが、魅力的に見えてきた。


 食べないと勿体ない。


 満腹で、あまりこれ以上食べたくないと思う状態はあるが、少しだけ。一口だけなら、食べられるかもしれない。


 だからラップを丁寧に開けて、再び箸を取り、一口だけ食べてみた。


……美味しい。


 もう一口だけ、半分だけ、四分の三だけ……。次第に「だけ」の範囲は広がっていく。


 いつのまにかさばのみりん干しは、皿の上から消えていた。普段なら、風味が苦手で食べたくないと思う、血合いの部分まで、美味しいと思いながら食べていたようだ。


 さらに満腹になってしまった。もう水すら飲めない。大好きないちごも、甘いケーキも、食べたいと思っても食べられないだろう。


 結局、食欲がないのは変わっていない。しかし、今日のさばは、格段に美味しかったような気がする。


 さばのぬくもりが、自分の中の何かを癒してくれたようだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

さばのぬくもり 小箱 @kobako_

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る