第26話 ここは任せて先に行け
セナはダニエラを退けるように前に出ると、ぎらりと荊を睨み上げた。
「御託は結構。解呪の呪術師なんて関係ない。アイリス・オーブシアリーを渡せ」
煩わしさを払うように言い放つ。
セナの言葉を皮切りに、何人もの使用人たちが光に群がる虫のように湧いて出た。どこに隠れていたのか二十人はいる。老若問わず女ばかり。
その全員がナターシャの眠る部屋へと押し寄せようとしていた。
彼女たちが操られた傀儡人形なのか、呪具のせいで従わざるを得ない者なのか、ドルドの考えに陶酔している信者なのかは、見た目では判別できない。
荊は短く息を吐き出す。
多勢に無勢、そう思うのが当然な人数の差だ。
「アイリス、ネロ」
「はい」
「みー」
ネロはぴょんと荊に飛び上がった。アイリスはナターシャが寝ているベッドの上へと飛び乗り、床に座り込んでしまっているイーサンを自分と同じ場所へと引っ張り上げる。
ぱちんと手を打ち鳴らす音。
「ヘル」
荊の声とともに凍て風が吹き荒ぶ。
開け放たれた扉の代わりに、分厚い氷の壁が出入り口を塞ぐのはまたたく間の出来事だ。ばきばきと音を立て、床から氷の柱が何本も何本もそそり立った。
天井を突き破るように伸びる太い氷柱。壊された建物だった瓦礫は、荊たちの頭上に落ちる前に氷結して時を止めた。
もはやここは氷洞だ。
部屋の壁と床、天井以外のすべてが氷と化してしる。見た目通りに寒い。先程までの冷気とは比べものにならない。
「ヘル様あああ♡」
床に身体をこすりつけ、のたうち回るネロに荊は「まったく、こんな時まで」と呆れた。発狂。ネロからはヘルを讃える嬌声が止まらない。
荊は再度、手を打ち鳴らし「ツクヨミ」と真っ黒の飛竜を呼び出す。
ぐるぐると喉を鳴らすツクヨミは、荊の身体にまとわりつくようにすり寄った。
「上に道をお願い」
荊が天井を指差すと、すぐに掘削作業に取り掛かる。やはり、瓦礫が落ちてくることはなく、代わりに氷の結晶がきらきらと降り注いだ。
途端、わっとイーサンが飛び上がる。それから、凍りついた床の上に立つと、荊へ深々と頭を下げた。
「い、行かないでくれ!! ナターシャを、助けてください!! お願いしますっ!!」
氷に閉ざされた部屋、人語で叫びを上げる白猫、どこからか現れた飛竜――、彼にとってはこの悪夢のような状況よりも、恋人の安否が何よりも優先されるべきことだった。
「イーサンさん……」
荊は必死のイーサンからアイリスへ視線を移す。
アイリスの黄緑色の瞳は強い意志にみなぎっていた。
「ナターシャさんを今の状態のままにしておくのは本当に申し訳ないと思ってる。けど、ここから病院への短距離移動とはいえ、彼女がアイリスと離れた時の危険性を考えると一緒にいてもらう方が安心なんだ」
「……、…………え?」
「イーサンくん、すみません。すぐには解呪の呪術師さんに会わせられないんです。でも、代わりに、私がここに残りますから」
「――は、あ!?」
イーサンは目を瞠った。
さすがに危険でしかないと思ったのか、アイリスの身を案じて「今、ジジイの狙いはお前だって言ってただろ!!」と叫んだ。しかし、ナターシャのこともある。葛藤する少年はもどかしそうに手を動かしていた。
それでいいのか、と荊に無言で訴えても、特段に返事はない。
「だから、残るんです」
アイリスは力強く頷いた。
覚悟はとうに決まっているようで、どんな言葉でも動かせそうにない。
「私がいる限り、ナターシャちゃんは絶対に死なせません」
しかし、イーサンの顔は晴れない。アイリスの申し出が有難いものだとしても、この状況では手放しで喜べなかった。
「そう心配する必要ないよ、坊ちゃん。ボクがいる限り、アイリスには指一本触れさせないし」
軽やかな足取りのネロはイーサンの前に立ち、ふふんと鼻を鳴らした。ヘルの力を全身で堪能し終えたのか、細かい氷の粒に飾られた白の毛並みは輝いている。
イーサンは今更にしゃべる猫に驚いたようで、ぱくぱくと魚のように口を開閉した。疲弊している今の彼に、姦淫の悪魔はうるさすぎるかもしれない。
声高らかに自己紹介するネロを横目に、荊はアイリスへと歩み寄った。
「アイリス」
「そんな顔しないでください。お屋敷の狙いがペネロペちゃんじゃなくて私だったら、籠城作戦に切り替えるって言ったの荊さんじゃないですか」
「それはそうだけど」
この屋敷に来る前、ルマの街中を歩いている間に荊が提示した作戦の別案は“籠城作戦”だった。
相手方の狙いがペネロペならば、このメンバーで籠城する意味はない。しかし、狙いがアイリスならば、彼女をここに残すことで、ドルドの配下である屋敷の人間をここに留め置くことができる。
数時間後に予定されている騎士団の突入を考えれば、この判断は間違っていない。
「すぐ戻るから」
荊はアイリスの首に両腕を回し、ぐっと彼女を抱き寄せた。この寒さの中では、彼女が一層に温かく感じられる。
荊は彼女を敵地の中に置き去ることが心配だった。それも相手は尋常ではない色狂い。もしもを考えるだけでも殺意が湧く。
「はい、お待ちしています」
アイリスは荊の心配をよそに、ぽんと軽い調子で荊の背中を叩いた。
荊がそっと手を離せば、アイリスは「お気をつけてくださいね」と真剣な表情で握り拳を作っている。
「荊も過保護だなあ」
「ネロ」
「全部何とかする、でしょ? それなら、さっさと教会の方、片付けてきなよ。騎士団が来るまで――っていうか、来ても来なくてもボクらだけで平気だから」
ネロは余裕に胸を張っていた。ご機嫌に鼻歌を歌っている。
確かにネロの言う通りだった。
部屋を囲う氷は頑丈かどうか以前に、自然には融かすことのできない氷帝の御業である。脱出するのも、侵入するのも、ヘルと契約する荊にしかできない。
この状況では何に心配すればいいのか、といった具合だ。しいて言うならば、ナターシャの解呪を急がなくてはならないことか。
「イーサン君、俺は他に片付けなきゃいけないことがあるから、一時的にここを離れるよ」
「あ……」
「解呪の件は、俺が責任をもってナターシャさんを呪術師に会わせる」
「あっ、あの、俺は――」
「君はナターシャさんの傍にいてあげて。彼女もきっとそれが一番安心するだろうから」
どうしたらいいのか、と困惑するイーサンの肩を荊は強めの力で叩く。イーサンは「ナターシャを、よろしく、お願いします」とどうにか言葉を捻り出した。
荊は心の中で謝罪をする。助ける準備があるのに、命の危機のままにしておくことを申し訳なく思っているのだ。
しかし、今や命がかかっているのはナターシャだけではない。呪具をつけている使用人全員が死と隣り合わせである。
「アイリス、ネロ。後は頼んだ」
「分かりました!」
「いってらっしゃーい」
ツクヨミは空へ向かって飛び立つ。道すがら空気を凍らせていけば、出来上がったのは高くそびえる氷の塔であった。
振り返りはしない。黒の影はセルクとペネロペのいる病院に向かって翼を羽ばたかせた。
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