サヨナラ、小さな罪

無月弟(無月蒼)

サイン入りボール

 辺りがすっかり暗くなった頃、電車を降りた私は、足早に帰路へとつく。

 今日は残業でずいぶん遅くなって、前を見ても後ろをふり返っても、人影はない。そんな寂しい夜の町を歩きながら、家で待ってくれている彼のことを考える。


 付き合いはじめて、もう五年目。

 同棲をはじめてからは、帰りが遅くなった時は必ずお風呂や食事の用意をしてくれる、優しい彼。

 私には、もったいないくらい素敵な人。そんな彼の笑顔を思い浮かべながら、そっと自分のお腹に手を当ててみた。


 この中に新しい命が宿っているなんて、不思議な気分。だけど実感が無い訳じゃなくて、確かな暖かさを感じる。

 最初病院で告げられた時は驚いたけど、彼はとても喜んでくれて。今度正式に、籍を入れるの。やっぱりこういう事は、ちゃんとしておかなくちゃね。


 産まれてくるのは、男の子? それとも、女の子かな?

 私たちの場合、男の子の方が育てやすいかもって思ってる。彼にしてみればやっぱり、同じ男同士の方が気持ちがわかるだろうし、それに私も、昔は男女おとこおんなって呼ばれるくらい、男勝りだったもの。男の子の方が、接し方が分かる気がするんだよね。


 子供の頃からお人形遊びやママゴトよりも、キャッチボールをして遊ぶのが好きだった。

 学校でも女子同士でアイドルの話をするより、男子に交じって野球の話ばかりしていたっけ。


 もしもお腹の中の子が男の子だったら、一緒にキャッチボールをしてあげよう。

 白球を追いかける幼い子供の姿を想像すると、思わず笑みが込み上げてくる。こんなことを考えるなんて気が早いかもしれないけど、いいよね。

 キャッチボールをして走り回って、まるでカルガモの子供みたいに、私の後をテクテクとついてくるの。きっとその姿は、あの子みたいに可愛らしいはず……。


「……お姉ちゃん」

 

 ―—何、今の声?

 不意に後ろから幼い子供の声が聞こえてきて、足を止める。

 驚いて振り返ると、そこには半袖に半ズボン姿の、小学校中学年くらいの男の子が立っていた。


 子供? 見たところ一人みたいだけど、こんな遅い時間にどうしたんだろう?

 もしかして迷子かな。それともまさか、家出少年?

 一瞬のうちにたくさんの事が頭をよぎったけど、私が何か言う前に、男の子は再び口を開いてくる。


「ねえお姉ちゃん、僕の宝物、どこにあるか知らない?」

「宝物?」

「うん、野球のボール。けど、ただのボールじゃないよ。あの末井まつい選手の、サイン入りボールなんだ」


 男の子が口にしたのは、私も大好きだった有名なプロ野球選手の名前。

 なるほど、確かにそれは、宝物と言っていいくらいの価値があるわね。少し驚いたのは、その選手はもうとっくに引退した、元プロ野球選手だということ。

 男の子の歳を10歳とすると、引退したのは丁度この子が産まれたくらいの頃かな。


「君、ずいぶん古い選手を知っているのね」

「古くなんかないよ。末井選手は、僕にとって永遠のヒーローなんだから」

「ふふ、そうね。実は私も子供の頃―—ッ!?」


 瞬間、不意に頭に強い痛みが走った。

 同時に何か嫌なものが、胸の奥から込み上げてくるような気持ちの悪さに襲われる。

 サイン入りボール……子供の頃……。何だろう、何か大事なことを忘れてしまっているような……。


「どうしたの、お姉ちゃん?」


 不思議そうに首をかしげながら、私を見る男の子。

 そうだ、変に頭を悩ませてる場合じゃない。こんな夜遅くまで子供が外を出歩いているなんて、よくないもの。


「君、野球の話もいいけど、もうお家に帰らないと。お父さんやお母さんが、心配してるよ」

「でも僕、ボールを見つけないと。友達と遊んでて、失くしちゃったんだ」

「大事な宝物だっていうのは分かるけど、今は――っ!?」


再び、割れるような痛みが頭を襲った。

同時に、どこかで聞いた事があるような懐かしい声が、頭の中に響いてくる。


 ――サガサナクチャ、ボクノタカラモノナンダカラ。


 な、何これ?

 ふらつきながらも頭を押さえて、大きく深呼吸して、痛みを誤魔化した。

 何なの? 痛いのも嫌だけど、さっきから頭の中を、妙な言葉や映像がよぎってくる。


 思い出したのは、小学校の頃。故郷の町の外れ、山の麓にある小さな原っぱ。

 子供の頃、よく走り回っていた遊び場だけど、どうして急に思い出したんだろう?


 すると、不思議に思っている私を見ながら、目の前にいる男の子は語りだした。


「僕ね、お父さんに頼んで、プロ野球の試合を見に行ったんだ。スタンドで、お父さんと一緒に、頑張れーって応援してて。そしたら僕の目の前に落ちてきたんだ。末井選手のホームランボールが」


 ……そう、そして試合の後、末井選手にサインをしてもらったんだ。


「僕嬉しくなって、次の日お姉ちゃんに見せに行ったの。お姉ちゃんって言うのは本当のお姉ちゃんじゃなくて、近所にすんでいる三つ年上の女の子。僕のことを、ケン君って呼んでて、よく遊んでもらってるんだ」


 ……そうだ、この子の名前はケンジくん。上二文字をとって、ケン君って呼んでいたんだ。

 あれ、呼んでいたって、誰が?


「ボールを見たお姉ちゃんは、良かったねって言ってくれて。それから、せっかくだからそれを使って、キャッチボールをしようって言ってきたの。僕は失くしたらいけないから嫌だったんだけど、お姉ちゃんがどうしてもって言うから、結局やることにしたんだ。それで町外れの、原っぱに行ったの」


 ……原っぱって、あの原っぱ? 

 そうだ、その後しばらく二人でキャッチボールをしてたら、ケン君がボールを取り損ねて。それでどこかに飛んでいったボールを、二人で探したんだっけ。

 ケン君と私の二人で……。


「二人でボールを探したんだけど、全然見つからなくて。お姉ちゃんがもう帰ろうって言ってきたけど、僕は嫌だって言ったの。だってあのボールは、僕の宝物なんだから」


 そう、もう日が暮れるっていうのに、ケン君はまだ探すんだって言って聞かなかった。

 だけど私は、帰るよう強く言ったんだ。だっていくら探しても、見つからないって分かっていたから。

 分かっていた? どうして見つからないって、分かっていたんだっけ?


「ねえ、お姉ちゃん。マリお姉ちゃん」


 名前を呼ばれたことに気づいてハッと我に返ると、気がつけばケン君は目の前まできていて、じっと私を見上げている。


「僕のボール、本当はお姉ちゃんが持って行ったんだよね?」

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