「クリティカルな球体」

牛次郎

第一章「林の光景」 1

伊豆半島は、観光の半島である。

夏休みの間は、一車線の国道一三五号線は、渋滞で、長い駐車場状態になるが、九月の声を聞くと、手の掌を返したように、閑散となる。伊東市の駅前の目貫通りでさえもが、シャッター通りになってしまうのであった。

観光に関係する仕事以外には、これと言った産業はなかった。

他県からの客がなかったら、大の男にも、これと言った仕事はなかった。

伊豆高原の一角である、大室山地区の別荘にも、殆ど人が居なくなってしまう。

年間を通じて、居住しているのは、現役を退いた、年金族の老人だけである。

鳥山裕介夫妻も、既に定年退職をして、やがて、十年になる。

年の瀬には、裕介は、七十歳になる。持病の糖尿病と、仲良くしながら、どうに

か、妻の静子と、ペットのマルチーズと、生活していた。

静子は、五歳年下であった。

 

いつものように、午前中に、愛犬のコロを連れて、静子と散歩にでた。

糖尿病のこともあったので、散歩は欠かせない。

すでに、習慣のようになっていた。

年齢からして、激しい運動は、出来なかったので、

「せめて、散歩ぐらいしなさい」

と主治医に勧められて、散歩を仕事にしていた。

子供は二人いたが、孫とともに、東京に住んでいて、滅多に、伊豆の家には、来なかった。

「仕事があるのだから、来なくても、仕方がないよ」

と裕介が、静子に言った。

年に二回、盆と暮れにしか、会うことがない孫たちよりも、

飼い犬のコロの方が、可愛く感じられた。

裕介は、静子に、諦めたように、

「まあ、こんなものだよ。人生と言ってみてもな。子供たちとは、人格が別なんだ。結末は、夫婦でってことだろうな」

夫婦は、相談の上で、伊豆高原にある、寺院に、自分たちの、墓も用意していた。

「どっちが先に逝っても、墓は、近いところの方が、お参りしやすいよ」

と言う、現実的な、意見からであった。

いつものように、夫婦と、愛犬のコロとで、歩き慣れている別荘地内の道を、散歩していた。

殆どの別荘は、雨戸を閉め切って、留守であった。

年間を通じて、住んでいる家は、鳥山夫妻と、同じような、境涯の、老人夫婦た

ちで、住んでいる家の場所も判っていた。

別荘地内の、メインストリートから、道を外れて、いつもの散歩コースなのだけれども、枝道を入っていった。

予定のコースを歩くと、一周で、約八千歩になるはずであった。

主治医からは、

「一万歩々きなさい」

と言う指導を、受けていたが、

「一万歩は、なかなか、歩けるものではないな」

と裕介が言ったときに、コロが、突然、吠えた。

「なんだ? コロ、急に吠えたりして」

「雑木林の中に、台湾リスでも、居たんじゃないですか」

「そうだな。最近は、やたらに、台湾リスが増殖しているからな」

「ペットで飼っていた人たちが、東京で、飼い切れなくなって、伊豆高原に捨てて行くんですよ。それで、増えてしまったんですよ」

「犬も捨てて行くらしいな。野犬が、増えているともいっていたな」

コロは、さらに吠えていた。

「妙だな、もう、台湾リスなら、コロの鳴き声で、逃げ去っているはずなのに」

と、少し不審に思いながら、いつもの、ペースで、歩いていくと、前方の林と、道路の際に、奇妙な物体を、発見した。

「む? あれは、なんだ?」

裕介が、視線を凝らした。


         *


管轄は、伊東警察署と言うことに、なった。

閑散とした、大室高原の別荘地内に、ときならない、サイレンの音が、鳴り響いて、パトカーが、署内のすべての、パトカーが来たのかと思うほどに、現場(げんじょう)に、急行してきていた。

鳥山夫妻が、はからずも、発見してしまった、「奇妙なもの」は、男性の全裸死体だったのである。

ケータイを持っていなかった、鳥山夫妻は、近所づきあいをしていた、川辺夫妻の家に、飛び込んで、

「で、電話を、か、貸して下さい」

と血相を変えて、頼みこんだ。

鳥山夫妻の、ただならない様子に、

「どうしたんです?」

と川辺夫妻が、訊ねた。

「け、警察に・・・死体だ。男の、全裸の死体が・・・ここから、五十メートルほどの所に・・・」

裕介の息が、上がっていた。

聞いた川辺夫妻も、驚愕して、

「え?・・・い、行って見よう」

川辺為吉が、今にも家を、飛び出しそうになったが、

「駄目ですよ。一一〇番が先です。鳥山さんご夫婦の真っ青な顔を見れば、理解出来るじゃないですか。あるがままに、警察に伝えなかったら、飛んでもないことになるでしょう。こんな、ときの野次馬根性は、大怪我の因です。お父さんは、一一〇を廻して。いま、お水を持ってきます」

と細君の、亜希子が、気転を利かせて、コップ二つに、水を持って来た。

裕介も、静子も、その水を一気に飲み干した。

警察に繋がった、電話で、裕介が事情を、切れぎれに、伝えた。

裕介と、静子が、第一発見者ということになった。

「その、ご近所のお宅にいて、下さい」

と警察からの指示があった。

「正確には、最初の発見者は、コロだと思いますが」

「コロ?」

警察が、聞き返したが、散歩に連れて歩いていた、愛犬のマルチーズだと、判明すると、納得して、

「ともかく、そこから、動かないでください。気持ちを落ち着けて」

と再指示を出した。

四人には、パトカーが、到着するのが、とても長い時間に感じられた。

しかし、実際には、十分ほどの時間であった。

パトカーが、到着すると、今度は、コロを、川辺夫妻の家に預かってもらい、四人と、二人の警察官の六人で、死体のある場所に、行った。

警官がいるというだけで、精神的に安心が出来た。

「あれです」

裕介が、死体を、指さした。

裕介の言う通りに、全裸の男性が、うつ伏せで、倒れていた。

警官が、近寄って行き、声をかけたり、手袋をした手で揺すったりしたが、生体反応がなかった。

道路にテープを張って、現場確保に努めながら、もう一人の警官が、無線連絡

を、所轄署と取っていた。

「救急車は?」

と川辺が、警官に訊いたが、

「いや、もう死んでますから、呼ばなくていいですよ」

と制止してから、林の中にも、テープを張るために入って行って、思わず大きな声を上げた。

「もう一人いるぞ。女だ。全裸だ。仰臥している」

警官の声に、鳥山夫妻と、川辺夫妻の、四人が、驚いて、互いに顔を見合わせた。

「そっちは、知りません。男性の死体を、目撃しただけで、驚愕して、川辺さんのお宅に電話を借りに行ってしまいましたから」

裕介は、自分が、犯人のような錯覚に陥って、なぜか、首を左右に振っていた。人間の、咄嗟の行動の原理に素直に従ったのかもしれない。

庶民的な、感情では、そのようになるものかも、しれなかった。

「男性の死体には、触りましたか?」

「いえ。こんな状況ですから、触るなんで、恐ろしくて、出来ませんよ」

鳥山は、定年まで、文学部の教授として、東京のF大学に、奉職していたのである。およそ、死体などには、縁のない世界であった。

まして、全裸死体など、あまりに、猟奇に過ぎた。

夫妻と、コロは、転がるように、川辺宅に駆け込んだのである。

「それは、そうだね。我々でも、滅多に見ない恰好の、仏さんだからなあ。驚いたでしょう」

警官は、さり気なく、第一発見者の、鳥山を、尋問していた。

その間に、パトカーや、普通の形の乗用車が何台も駆けつけて、俄然、騒然となった。

捜査一係以外にも、応援で、生活安全課からも、私服警官が、駆けつけていた。

普段見慣れない、ワゴン車も来た。

降りたったのは、ジャンバーの背中に、鑑識の文字が入っている、係官であった。

鳥山らは、テレビドラマなどで、見ることはあっても、現実に、見るのは初めてのことであった。

鑑識の係員は、早くも、現場の死体の写真などを、撮影し始めていた。

第一発見者の、鳥山夫妻は、警察に、発見した時の状況を、訊かれた。

厳しい尋問という感じではなかったが、同じことを何度も訊かれるのには、閉口した。

散歩は毎日、習慣のようになっていて、大体午前九時ころには、自宅の玄関を出たので、死体を発見したのは、

「時計を見るゆとりもありませんでしたが、午前九時十五分ぐらいだと思います」

と裕介が、答えた。川辺夫妻も、

「そのくらいの時間に、血相を変えて、電話を貸して欲しい、と鳥山夫妻が、飛び込んできました」

と裕介の答えを、裏付けるように、答えた。

一一〇番は、その直後に掛けていたので、それは、受信した、係官が、時間を記録していた。

発見後、時系列には、殆ど矛盾はなかった。

ケータイは、鳥山夫婦のような老齢になってくると、使い方が難しいのと、必要がないということ、それに、年金で生活をしているのである。

余分な経費は、節約したい、ということで、持っていなかった。

川辺夫妻も、同様に持っていなかった。

イエデンと呼ばれるようになった、従来からの電話があれば、取り立てて、不便なことはなかったのである。

そうした、つましさが、なかったら、老後の生活は、出来るものではなかった。


夕刻の、テレビのニュース番組で、伊豆高原の別荘地帯に、男女の全裸死体が、発見されたことが、流された。

テレビでは、「全裸」という、猟奇的な表現は、避けられて、

「遺体には、衣類が着けられておらず」

といった、言い回しになっていた。

「静岡県警本部の発表では、遺体の状況から判断して、事件性は否定出来ない」

とのことであった。「心中」ということも、念頭に入れている、と一応は、発表していたが、捜査上のマスコミ対策で、言っている情報の流し方であった。

伊豆高原の別荘地内では、新聞は、夕刊は配達されなくて、前の日の夕刊は、朝刊と一緒に配達されたので、朝夕刊セットというのは、不合理であったが、セット購読でないと、配達してくれなかった。

「これでは、若い人たちに住めとは言えないな」

と、裕介がいったことがあった。



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