ピョートルに恋して

@suzumutsu

第1話 ヒューマンコミュニケーションズ

 人生において他者との出会いはかけがえのない「宝物」となります。


 私たちヒューマンコミュニケーションズは弊社オンラインサービス事業「ミライゴト」を通じ、皆様が普段ご利用されている「習い事」をより身近に、より気軽に感じていただくことで出会いの機会を増やします。


「ミライゴト」で出会うのは他者かもしれませんし、今まで感じたことのない新しい自分かもしれません。


 出会いを増やすことは「宝物」を増やすこと。


 今日も「ミライゴト」で新しい自分、新しい「宝物」を探してください。


 このたった数行の文章を整えるのに、えらい苦労をした。僕が勤めている会社『ヒューマンコミュニケーションズ』は3年に1回、ホームページの企業理念を見直す。そして今年はその年に当たり、その文章の原案を作成するのは僕が所属するシステム管理部と決まっている。文章の原案を作成する社員を決めるときに、今回はなぜか僕に白羽の矢が立った。それが2ヶ月前。これは結構時間がかかるんだろうなと思ったから、例年の文章を一通り読み直し、傾向や構成を確認して原案を作成して、1ヶ月前に権藤部長に見てもらおうと提出しに行った。そこからが大変だった。いつ提出しに行っても権藤部長は「今は忙しい」の一点張り。ようやく1週間前になって確認してもらえるようになったと思ったら、怒涛のダメ出しが始まった。提出してはここの構成が、ここの表現がおかしいと指摘され、何度も何度も文章を練りなおした。そしてようやく昨日、権藤部長から専務へ書類が提出された。今日は3月31日。権藤部長のOKはもらえているし、あとは専務が書類に目を通して印鑑さえ押してくれれば、すぐに更新ができる。予定表を見て確認したけど、専務は今日一日ずっとデスクワークだ。実は今朝、僕は誰よりも早く出社して専務のデスク上に積み重ねられた決裁書類の一番上に、僕の書類を持ってきておいた。これでなんとかなる……。と思って、朝から専務の動向を伺っているのだが、まだ書類に手をつけようとはしてくれてない。もうそろそろお昼になる時間なのに……。専務に一言、声をかけたほうがいいのだろうか……。

 と、僕がやきもきしている時に、専務のスマートホンから着信音が鳴り出した。


「あぁ、いつもお世話になっております。ええ、ええ。あぁそうですか。それは是非。いつです?ええ、ええ。はぁなるほど。承知しました。それでは今から向かいます」

 専務は電話を終えるとスマートホンをデスクに置いて、デスク周りの整理をし始めた。


「権藤部長、すまないけど私はこれから外出するよ。取引先と食事に行ってくる」

 専務はデスクの整理をしながら権藤部長に声をかけた。


「承知しました。またワタナベさんですか?」

 権藤部長は席から立ちあがり、両腕を後ろで組みながら専務のデスクへと歩み寄った。


「あぁ、そうだよ。話好きな方でね。でも、また良い人を紹介してくれそうだからね」


「それはそれは。どうぞ、楽しんできてください」


 え、外出?聞いてないよ……。今日はずっと社内って予定表に書いてあったのに……。どうしよう……。


 と僕が悩んでいる間にも専務はテキパキと身支度を済ませ、外出の準備を整えている。すぐに専務のところに言って、申請書類を見てくださいってお願いをするべきか……、それとももう諦めて明日の朝一で決裁もらってすぐに更新をするか……。専務はいつも朝早く来るし、なんとかなるだろう……。


「今日の食事はなんでしょうね?前回は鍋だったんですよね」

 専務に話しかけながら権藤部長はチラチラと僕の方を見てくる、というか睨んでいる。


「ああ、そうだったな。今日は鍋は勘弁して欲しいな。もう気温も高いしね。それじゃ、行ってくる」

 専務は立ち上がった。ああ、もう駄目だ……。


「あっと、専務、すみません」

 権藤部長が専務のデスクから1枚の書類を取り上げた。


「ん?」


「出がけにすみません。こちらだけ決裁いただいても宜しいでしょうか?ホームページの企業理念の更新についてです」


「おぉ、出来たんだね。どれ、ちょっと拝見……」

 専務は上着のポケットから老眼鏡を取り出して書類を見始めた。


「うん。いいね。権藤部長もチェック済みだよね?」


「はい」


「うん、そしたらオーケー。あとは私の印鑑を押しといて。今年は誰が文章を考えたの?」


「はい、上海わみです」


「おぉ、上海くんか。上海くん、いい文章だったよ。ありがとう」


「はっはい。あ、ありがとうごじゃいましゅ……」

 専務から声をかけられるとは思っていなかったので、僕は緊張してドモってしまった。専務はそれを聴いて笑いながらフロアの出口に向かっていった。周りの社員もみんなクスクスと笑っていた。


「上海」

 権藤部長が書類を片手でスッと僕の方へ差し出した。僕はすぐにそれを取りに行った。

「す、すみません。お手数をおかけしてし、しまいました」


 権藤部長は自分のデスクに戻り、僕はすごすごとそのあとを付いて行った。権藤部長はドカッとイスに深く腰を下ろすと僕に向かって話を続けた。


「なぜ、一言『見てください』が言えないんだ、お前は。専務が出かけるのは聞こえていたんだろう」

 権藤部長は真剣な面持ちで僕を見ている。僕は背中を丸め両手を身体の前で組み、両足の甲を杭で床まで撃ち抜かれているかのような不動の姿勢で権藤部長の話を聴いていた。


「す、すみません……」


「お前のことだから、どうせ『明日の朝、決裁もらってすぐ更新すれば……』とか考えてたんじゃないのか」


「え?は、はい……」

 僕の返事を聴くと権藤部長は眉間にシワを寄せた。


「甘い。今日の食事次第では、明日の専務の行動も変わるかもしれん。今日紹介された人に明日会いに行くってなったら、どうするんだ。ホームページの企業理念は明日の営業開始後も去年のままか?……大事故だ」


「す、すみません」


「まぁいい。とりあえず、すぐに更新しろ」権藤部長は二度ほど右手を軽く払い、自分の席に戻るように僕を促した。

「は、はい」

 僕は急いでデスクに戻り、ホームページの更新作業を始めた。


 「おーら、上海わみ、たかだかホームページの文章更新するのに何分かかってんだ。とっととやらねえと昼飯なんか食ってる時間はねえぞ!」

「すみません!今、更新しました!」

「ったく、遊びでやってんじゃねーんだからな……」


 そう言うと権藤部長は席を立ち、フロアの出口に向かっていった。身長はそれほど高くはなく身体つきも細いが学生の頃は柔道部でならしていたらしく、歩く姿にどことなく凄みがある。多分、昼休み前の一服をしに喫煙所へ行ったのだろう。僕は大仕事が終了したので、一息ついた。


「はー、間に合ってよかった……」

 僕は両腕をだらんと降ろし、ぐったりとイスの背にもたれかかって、天井を仰いだ。


「上海さん、おつかれさま、でしたね」

 隣の席の加蔵かくらさんも安心したのか、にっこりと人懐こい笑顔で声をかけてくれた。笑うと可愛らしい八重歯が覗く。僕はだらんとした姿勢はそのままに、顔だけを加蔵さんに向けた。


「加蔵さん……ありがとう」

「権藤部長、ギリギリまで上海さんの書類に目を通さないんですもん。見ててこっちがヒヤヒヤしちゃいました」

 加蔵さんは段ボールに捨てられた子犬を憐れむような表情で僕を見ている。


「ご、ごめんね。心配かけちゃって……」

「いえいえ。でも上海さんすごいですよ。3年に1回のホームページ更新って、本来は課長以上の方でないと任せてもらえない仕事なんですよね?」

 加蔵さんは目を細め、優しい視線を僕に送った。


「う、うん。でも、ま、な、」

 せっかく加蔵さんに褒められたのに、僕は大したリアクションもとれず口先でモゴモゴと言葉になっていない言葉を発した。


「上海」

 不意に後ろから声を掛けられ、僕は慌ててだらんとした姿勢を正し、後ろを振り向いた。そこに立っていたのは1枚の書類を右手にぶら下げた経理の源川みながわさんだった。源川さんは控えめに言ってもかなりふくよかな体型で、それに加えて髪の毛がアフロのような天然パーマなので存在感と威圧感が半端ではない。「経理部のボス」と社員の間では言われている。


「これ、申請書、書き方おかしい」

 源川さんは右手に持っていた書類を僕の眼前に突き出した。


「え、すみません。どこか間違ってましたか?」

 しまった、余計な一言だった……と思うやいなや、ギロっ、と細く鋭い眼で睨まれた。ドコカマチガッテマシタカジャネエヨコゾウ、そう言っている。源川さんは眼で語るのだ。


「ここ。システム保守課で得意先に出した郵便ハガキ、まとめて購入したでしょ。郵便ハガキは税表示なし」

「ああ、すみません。じゃ、合計金額だけでよかったんですか」

 ああ、また余計なことを……。


「……。他の案件で使った申請書の書式使い回してるからそうなるの。修正してとっとと持ってきな」

 そう言い終え、ドンっと僕の机の上に書類を置くと源川さんはくるりと僕らに背中を向け、ゆっくりと経理部のデスクに戻っていった。どっしりした身体が一歩一歩動くたびに、アフロがファサ、ファサと揺れる。


 あちゃー。またやっちゃった。月に1回は経費の申請ミスを源川さんから指摘され、もう確実に目を付けられてしまっている。自業自得だけど、また仕事が増えてしまった……。源川さんは入社してもう30年近くになるらしい。役職こそ主任といって平社員とほぼ変わらない待遇だが、実際に会社で発生するお金の出し入れはすべて、源川さんが厳重に管理している。


「……やっちゃいましたねー」

 加蔵さんは眉尻をさげ、口元にわずかな笑みを浮かべながら、僕になぐさめの言葉をかけた。


「やっちゃったね。ま、でもすぐに直せるから……。午後はそんなにやることないし……」

 と言いながら僕は書類に視線を落とした。


「どこがおかしかったんですか?」

 加蔵さんがイスごとゴロゴロと移動して僕の書類をよく見ようと顔を近づけてきたので、僕はドキっとしてしまった。


「こ、っこっこここのところ」

 源川さんに指摘された箇所を指さしながら、僕の声は緊張のあまりニワトリの鳴き声みたいになってしまった。加蔵さんは僕の方をチラッと見上げて、また八重歯を見せながらクスッと笑い、改めて書類に視線を落とした。


「あ―。なるほど……。ここは総額だけ記載しておけばいいんですね。覚えとこっと」

 右耳にかかっていた髪をかきあげながら、加蔵さんはフムフムと頷いた。僕の目と鼻の先に加蔵さんの頭が見えている。頷いた動きに合わせて、美容院に行ってきたばかりのようなサラッサラでツヤッツヤのストレートヘアからは鼻をくすぐるような甘い香りが漂った。その芳醇な香りを吸い込むと僕の頭はぼうっとしてしまう。考えてみればここ数日、終わらなかった仕事を自宅に持ち帰ってこなしたりもしていたからロクに寝ていない。この香りはやばいよ……理性が飛んでしまうよ……。


「加蔵くん、ちょっといいかな?」

 営業部の水谷課長の低く、渋みの効いた声で現実に引き戻された。


「あ、はい。どうしました?」

 加蔵さんは顔を上げた。


「企業の契約が新しくとれたから、企業名と契約番号の紐づけをお願いできるかな。割引率とかはこの申請書に書いてあるから。」


 水谷課長は爽やかな笑顔を浮かべながら加蔵さんに仕事をお願いした。水谷課長は身長が183センチもあり体型もスマートだ。イスに座っている僕と加蔵さんは自然と上を見上げる形になる。


「はいっ、かしこまりました。すぐやりますね」

 加蔵さんは水谷課長から書類を受取るとすぐに自分のパソコンに向き直りタン、タンと軽やかにキーボードを打ち始めた。


「いやいや、もうお昼だし、午後からで構わないよ」

 水谷課長が慌てて加蔵さんの作業を制した。


「本当に、加蔵くんは真面目だね……もう少し手を抜くことを覚えたほうがいい」

 そう言うと水谷課長は右の掌でそっと加蔵さんの右肩に触れようとした。細長いスマートな指先に、手入れされた爪がキラッと光る。指は加蔵さんの制服の上でピタッと止まり、加蔵さんの肩がほんの少し、ビクっと動いた。


「加蔵くん、もしよかったら、今から……」


「慎く~ん、メシ行こうよ~メシ。もうお昼だよ~ん。あ、水谷課長おつかれさまです。もう今日は外回り終わりっすか?」

 同じく営業部の山さんが呑気な笑顔で手を振りながらやってきた。僕を昼ご飯に誘いに来たのだ。


「いや、午後からまた外出だよ」

 加蔵さんを昼食に誘おうとしたところに水を刺されて、水谷課長はややイラッとした表情をちらつかせた。


 山さんは僕と同期で入社した。入社だけではなく、大学もそして学部も一緒だった。入学から卒業まで4年間、ずっと一緒だ。まさか会社まで一緒になるとは夢にも思っていなかったけど。ただし、山さんは1年浪人してるから、年齢は僕より1つ上だ。


「あ、そうだね。外行く?」

 僕はかがんでデスク下に置いてあるバッグから財布を取り出し、お昼を食べに行く準備をした。


「そうね~。今日はラーメンの気分かな~。お、加蔵さんこんちわ。元気してる?こっちでも評判いいみたいね~。今度またメシ行こうね~」山さんは食後のデザートを待つ子供のようにウキウキした声で、パソコンに向かったまま固まっていた加蔵さんに声をかけた。


「あ、はい。おかげさまで。上海さんにもとてもよくしてもらってます」

 加蔵さんは笑顔で山さんに返事をした。ただ、その口元はわずかに歪み、震えているように見えた。


「おっいいね~。その笑顔!午後から気合入っちゃいますよ~」

 と言いながら、山さんは加蔵さんの様子に気付くこともなく、さながらブルペンで投球練習をするピッチャーのように両肩をグルグルと回した。


 加蔵さんは入社して3年目になる。入社してまず営業部に配属され、山さんと一緒に外回りを担当していた。半年前に僕が所属している、権藤部長率いるシステム管理部に異動をしてきた。でも正直、加蔵さんのシステム管理部への異動にはみんなから疑問の声があがった。山さんの交渉力も混みだとは思うが、加蔵さんはかなり営業上手だったみたいで、取引先の男性社員にも人気があったからだ。


「ヤマカン、こんなところで油を売っていていいのかい?今月の契約目標、少し届いていないみたいだけど。」

 そう言う水谷課長は余裕の表情だ。恐らく、もう今月の契約目標は達成しているのだろう。ちなみに、ヤマカンとは山さんの会社でのあだ名だ。フルネームは山南貫太郎。数年前から社内ではコンプライアンス上のルールとして、あだ名で社員を呼ぶのは禁止になっているはずなのだが、唯一なぜか、山さんだけはみんなにヤマカンと呼ばれている。


「そうっすね~。今月は厳しいですね~」

 山さんは痛いところを突かれたのか、ちょっと困った顔をしながら右手でポリポリと七三分けの髪を掻いたが、すぐに水谷課長の口撃に応戦した。


「でも水谷課長こそ、外出時間対比での契約数がちょっと少ないよ~な気がしますが~」

 山さんはわざと間の抜けた声を出すことで水谷課長をからかったのだが、それを聞いた水谷課長の顔がほんの一瞬だけ真顔になった。しかし、すぐにニヤっと笑って「このやろう~」と山さんに歩み寄り、ちょっかいを出そうとした。山さんはそれをかわそうとして少しだけ身体を後ろに引いたが、そのせいで後ろにあった何かにぶつかった。


 ドン。


 そこに立っていたのは源川さんだった。源川アゲイン。


「あ、すいません源川さん。失礼しました。」

 山さんはぶつかった衝撃でズレた眼鏡を直しながら源川さんに詫びた。


 ピィィン、ポォォン、パァァン、ポォォォォン


「優ちゃん。お昼いくよ」


 ややひび割れたチャイムがスピーカーからフロア全体に鳴り響き、昼休憩の始まりを告げた。チャイムが鳴り終わると、スピーカーからは緩やかなクラシック音楽が流れだした。


「あ、はい。すぐいきまーす。すみません、みなさんそれでは……」

 加蔵さんは小柄な身体をさらに屈め、コソコソっと僕らの間を縫うようにして源川さんの後を追いかけた。加蔵さんの名前は優子。源川さんは女性社員を下の名前で呼ぶ。男性社員のことは2名を除いて全員呼び捨てだ。例外の1人は山さん。山さんのことは源川さんもヤマカンと呼ぶ。あと1人は……。


「おーう、あっちゃん。お昼かい」


「ゴンちゃん、煙草臭い。近寄らないで」

 権藤部長だ。権藤部長と源川さんは同期入社らしい。たまにフロアの奥で2人が話しているのを見かける。源川さんの名前は温心あつこ。だから、あっちゃん。


 僕と山さんは会社を出てすぐの中華料理店に入った。


「慎くんさぁ、なんで同窓会こなかったのよ」


「あぁ、あれね。だって僕は正直、仲良い友達いないし……。いってもつまらないと思ったから……。どうだった……?」


「おぉう。結構楽しかったよ。同じクラスだったやつも何人か参加してたし。もう結婚してるやつもチラホラいたし。僕らも悠長に構えてはいられませんよー」

 山さんはラーメンの湯気で眼鏡を曇らせながら、同窓会の様子を楽しそうに話してくれた。


「結婚かぁ……」

 もうそういう年齢になったんだな、僕らは。まだ卒業して5年しか経っていないけど、僕は大学での生活を、古ぼけたモノクロームの写真を見ているような、はるか遠い出来事のように感じていた。


 僕と山さんは教育学部出身だ。入学式が終わったあと、教職課程の履修方法を説明するオリエンテーションがあって、そのとき隣に座っていたのが山さんだった。僕はそのとき、ひどい花粉症で入学式からオリエンテーションのあいだ、ずっとクシャミと鼻水が止まらなかった。突然の花粉症スイッチオンに、僕は何も準備をしていなかった。すでに鼻水でビショビショになっていたハンカチをそれでも使い回し、何度も何度も鼻水を拭いとっていた。鼻も、鼻の下も擦り切れて赤く腫れていた。オリエンテーションが一刻も早く終わることを心底望んでいた。すぐにでも家に帰りたかった。


「君、ひどいね~。これ使っていいよー」

 そう言って山さんは僕にポケットティッシュをスッと差し出してくれた。僕は「あ、ありがとうございます」と言ってそのティッシュを受け取った。


「それにしてもさ、異様なまでに必修科目多くない?せっかく大学に入ったんだからさ、もっと変な学問、たくさん勉強したかったんだけどな~」

 山さんはこんなはずじゃなかった、というように眉間にシワを寄せながら、きれいに揃えられた七三分けの分け目を右手でポリポリと掻いた。


「クシュンッ、変な学問って、例えば、クシュンッ、どんな?」

 僕は山さんにもらったポケットティッシュから1枚のティッシュを取り出し、それを小さく割いてからクルクルと丸め、鼻に詰めた。


「う~んそうねぇ。アイドル学、とか」

 山さんは履修方法が記されたレジュメに目を通しながら答えた。


「あ、アイドルとか、クシュッ、す、好きなんですね」

「う~ん好き。大好き。最近、地下アイドルにはまってんのよ。今一番来てるのはね、『おたすけマトリョーシカ』っていうグループ。推しはピロシキ美里ちゃん。この子がかわいいのよ~」


 山さんはチョンチョンと人差し指で僕にくれたポケットティッシュに触れた。裏返してみると、裏の台紙には5人の若い女の子がそれぞれポーズを取って映っていた。見た目から察するに、女子高生から女子大生くらいの年齢だろうと思われた。


「右から2番目ね。ピロシキちゃん」

 右から2番目の女の子を見てみると、顔は少しぷっくりとしているけれど、確かに見る人を自然と笑顔にするようなかわいらしい笑顔だった。


「どう?ピロシキちゃん。きみ的には」

 山さんはうっとりとした表情で台紙に映ったピロシキ美里を見つめながら、僕に感想を聴いた。


「うーんクシュッ、僕は、その、クシュン、真ん中の子がいい、フグッ、かなぁ……」

 それを聴いた山さんは心なしか残念そうな表情を浮かべながらも、ウンウンと頷きながら言った。


「あぁ。そっち。う~ん正統派美少女系ね。ウォッカ舞衣子ちゃん。そう、みんな舞衣子ちゃんは通る道。大丈夫、何も問題ない」


「問題?」


「うん。今度の日曜日、ヒマ?」


「へ。あ、はい。ゥクシュゥ」


「OK。じゃ、昼の1時に秋葉原ね。ヨロシコ」



 こうして僕と山さんは友達になった。『おたマト』のライブに山さんに連れられては行ったものの、僕はあまりハマらなかった。結局2、3回しか行かなかったと思う。それから山さんと疎遠になるかなと思ったけれど、クラスが同じで必修科目が多かったこともあり、ほぼ毎日顔を合わしていた。その腐れ縁が今でもずっと続いている。


「ところで、さっき水谷課長が契約のことを山さんに言われて、一瞬だけだけど何か険しい顔になったような気がしたんだけど……なんかあったの?」

 僕はお昼前の水谷課長と山さんのやりとりが少し気になっていた。


「あ~、あれね。やばかったね。契約のことであんな真顔になるとは思わなかった~。失敗。失敗」

 山さんは眼鏡をとってハンカチで拭いて、またかけなおした。


「実はね、慎くん。ここだけの話なんだけどね、今度うちの会社、新事業部作るって話になってんのよ」


「えっそうなの?全然知らなかった。システムは?」


「システム自体は今までのヨガとか英会話とかのをそのまま使うのよ。ただ販売する習い事がまた1つ新しく増えるのよね。今度はコミュニケーション講座をやるんだって」


「そうなんだ……。忙しくなるね」僕はふぅ、とため息をついた。


「う~ん、どうかね?もうシステム自体は出来上がってるもんだからね。でも今のヴァリエーションだと顧客数も頭打ちでしょう。決算数字もここ3年くらい微増と微減を繰り返してるしね。社としてもここらで目玉をもう1つ作っていきたいのよ~」


「それで今、営業の人たちは契約数に敏感なの?」


「それもあるけど、さっきの水谷さんのはそれだけじゃない。実はこれもここだけの話、営業部から新事業部立ち上げへの異動があるらしいのよ。新事業部への異動なんて大抜擢だからねぇ。どうやら異動の条件は営業成績だけで決めるみたいだからねー。水谷さんも気合の入り方が違うわけよ。おっとそろそろ戻ろうかっ」

 山さんは伝票をサッと取ってレジに向かった。


「あ、これ僕の分払っといて」僕は山さんに千円札を渡した。


「ほ~い。サンキュー。はいお釣り。さてと、午後もテキトーに外回ってこーよおーっと」

 山さんは両腕を上げて軽く伸びをした。


「僕は午後はのんびりだなー。あんまりやることないし……」

 そんな他愛のない話をしながら、僕らはそれぞれの部署に戻っていった。



 僕らの会社、『ヒューマンコミュニケーションズ』は講師と生徒のパソコンやスマートホンをオンラインで繋ぎ、自宅にいながら都内のヨガ教室のインストラクターに習ったり、日本在住の外国人に英会話を習ったりすることができるサービスを提供している。最初は英会話のオンラインレッスンから始まった、ベンチャー企業だった。権藤部長や源川さんは創業当初からの生え抜きだから、その頃から働いている。英会話レッスンが軌道に乗ると、人気がある習い事を次から次へと増やしていくことで売上高を伸ばし、業界内でのシェアを拡大していった。このシステムであれば、ヨガ教室を開きたい人がいれば、都内のテナントを賃貸するよりも遥かに安い金額で教室を開くことができる。また生徒にとってはわざわざ教室に通うことがないので、時間もお金も節約することができる。習い事には様々なニーズがある。楽器、料理、トレーニング、勉強……。そしてさっきの山さんの言葉を借りて言えば、僕らの会社がこれから大きな目玉として売り出していこうとしているのがコミュニケーション講座、ということだ。


 帰りの電車で僕はつり革につかまって、ヘッドホンから流れ出る激しいミクスチャーロックに合わせて小刻みに頭を揺らしながら、加蔵さんのことを考えていた。加蔵さんは半年前に僕らのアシスタントとして異動してきて、僕の隣の席になった。僕はあまり人とコミュニケーションをとることが得意ではない。人見知りをしない山さんとは違って、営業には全然向いていない。加蔵さんが移動してきた当初も、隣の席でありながらYES、NOの札があれば成立するくらいの会話しか出来なかった。半年経ってようやく少し慣れてきて、以前よりはまともに話が出来るようになったけど、さっきみたいに急に至近距離になると緊張してしまって何も話せなくなる。そして加蔵さんはちょいちょい僕のパーソナルスペースにスッと入ってくる。パソコンの使い方を教えてくださいとか、かわいい付箋見つけたんですよーとか……。ひょっとして僕に気があるのかな、と勘違いをしてしまう。僕も山さんみたいに軽い感じで他人と接することが出来たら、加蔵さんを食事に誘ったりできるのかな……。加蔵さんみたいな女の子が彼女だったら、毎日がとんでもなく楽しい日々になるんだろうな……、お弁当を作ってきてくれたり、帰りがけに食事に行ったり、金曜日の夜にお互いの家に泊まったり……そして2人の身体は一つに……


「ウホンッ」


 隣に立っていた男性が咳払いをした。小さく頭を揺らしていたつもりが、妄想に耽っているうちに、いつの間にか体全体が少しずつ右隣に動いてしまっていた。


「あ、すみません……」

 と僕はヘッドホンを外し頭を小さく下げ、すぐに謝った。隣の男性は少し顔をこちらに向け「ウン」と小さく頷くと何事もなかったかのように、また視線をスマートホンに戻した。

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