宗教の闇は生贄を欲する

10月の半ばを過ぎた頃、『ウィッカーマン ファイナルカット』がミニシアターで上映された。伝説的なカルト映画の再編集版である。なんでも、当時に紛失したはずのフィルムが発見されたとかで、そのぶんの数分間が足されている。それを見てきたときの話をしよう。


『ウィッカーマン』自体、完全に初見だった。カルト映画のなかのカルト映画という評判は以前から耳にしており、いつかは見たいと思っていた。だから今回の上映は、絶好の機会だった。


なお、ファイナルカットで継ぎ足された部分は、別になくても問題なかった。むしろ当該部分の映像が明らかに古いせいで違和感が大きかった。好事家ならともかく、初見の人はまず通常バージョンで見ることをおすすめする。


有名な映画で、古いこともあり、ネタバレに配慮する必要はないだろう。


簡単にあらすじを説明すると、男性の警察官が、行方不明の少女を捜索するために孤島を訪れる。その島では、原始的なケルト系の宗教が信仰されており、とにかく性に開放的な文化だった。警官は敬虔なクリスチャンであったため、この文化に吐き気を催すほどの嫌悪感を覚える。そんななかで祭りの日に生贄の儀式が行われることを知り、少女が生贄にされると思った彼は、当日、儀式に潜入する。しかし、島の住民たちに警官の行動はすべて把握されており、彼はあっさりと捕まってしまう。そして領主の口から真実が明かされる。実は祭りの生贄は警官自身であり、そもそも彼を島へ導いたのも住民たちの陰謀だった。彼が選ばれたのは、生贄の条件をすべて満たしていたからだった。かくして警官は、巨大な木人形「ウィッカーマン」のなかに放り込まれ、火炙りにされて死んでしまう──。


映画の見所は、まちがいなく、終盤でウィッカーマンが登場するシーンだろう。住民たちは誰も直接「今からお前をひあぶりにする」とは言わない。しかし、ウィッカーマンが姿を見せたそのとき、これから行われる残虐なことが、言葉にせずとも明確にわかる。警官の絶叫と相まって、迫力のあるシーンだ。


この映画は、一見すると、原始的な宗教の恐ろしさを描いただけのホラー映画に思える。


しかし、そうではない。この映画は、宗教に共通する闇を描いているのだ。そう思えるのは、主人公の警官もまた、宗教の信者だからだ。本作には、無神論者や不真面目な──あるいは柔軟な思考の持ち主の──宗教者は、一切登場しない。そこに意味がある。


警部と島民は真逆の文化で育っている。だが、自分の宗教を盲信している点は同じだ。どちらも自分の宗教を疑っていない。警官は「(住民が信仰しているような)太陽の神や豊饒の神などいない!」と言うが、かくいう彼もキリスト教の神は信じている。もし彼が島で生まれ育ったなら、島の文化に染まりきっていただろう。


そして神を疑わない姿勢が、そのまま人間を生贄にして殺すことを疑わない姿勢につながる。まさに宗教の闇だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る