104 本物の悪魔
――チッ、チッ、チッ――
六畳ほどの小部屋。腕時計の秒針が規則正しく小さな小さな音を鳴らす。時刻は午後十一時三十分。短針は間もなくその日二回目の十二を指そうとしている。時計と天井カメラしかないその部屋で小林源治はその時を静かに待っていた。
あれは源治が三十歳の頃だった。職も失い、薄汚れたボロアパートの一室でしがない生涯を閉じようとしていた時だ。目の前にあるのは天井からぶら下がるロープと小さな椅子。死ぬための準備は出来た――源治はロープに手を伸ばす。突如、目の前に現れた人らしきもの。黒いスーツを纏った三十代と思われる長身痩身の男。突然の事に源治はロープにかけていた手を一瞬緩めた。が、今際の幻覚でも見たのかと思い、再度ロープに手を伸ばす。その様子を見ていた男はにいと口角を上げながら声を発した。
「おいおいおい、無視かよ。俺が見えるんだろう?」
「……」
「へっ、なんだよ。折角俺が願いの一つでも叶えてやろうと思って来てやったのによ」
「……願い?」思わず顔を上げ、聞き返す。
「そうそう、願い願い。お前どうせ死ぬつもりなんだろ? クソつまらない人生だったもんなぁ」男はケタケタと笑い出した。
「……」男の馬鹿にした態度に源治は目を逸らし椅子に右足を乗せ始めた。
「そのクソつまらない人生を変えてやろうって話で来たんだよぉ」いつの間にか男は源治のそばにおり、耳元へ囁くように話しかけてくる。
「いいか、俺は悪魔だ。俺はお前の人生を激変させるだけの力を持っている。巨万の富、溢れる程の名声、女だって自由だ。そんな人生を送ってみたいと思わないか?」
「……本当にそんな人生を送れるのか?」
「悪魔の俺が言ってんだ。保障してやるよ。ただしなぁ、五十歳になった日にお前の命をいただく事が条件だがな」クックックッと悪魔が笑い声をあげる。悪魔は源治の耳元に口を更に近づける。
「俺はなあ、欲望にまみれた魂を喰らうのが大好きなんだよぉ。お前の欲にまみれた魂を喰らいたいんだよぉ。なあ? いいだろう? どうせお前は今から死ぬつもりだったんだ。どうせ死ぬなら欲望にまみれて死にたいと思わないか? なあ?」
悪魔の凍えるような吐息が耳にかかり源治は思わず身震いをした。
「……本当に俺の思い通りの人生になるんだな?」
「ああ、俺は嘘をつかねぇ。お前の思い通りだ。お前が五十歳で死ぬこと以外はな」
「……お前が殺しにくるのか?」
「いいや、俺は直接手を出せないことになってんだよ。病気で死ぬこともない。前日まで最高の人生を歩めるんだからな。自殺他殺事故天災。そんなとこだな」
気付けば悪魔は源治の目の前に戻っていた。源治は暫し思案し、椅子にかけていた右足を静かに降ろした。
それからの源治の人生は成功の連続であった。その日の内に買った一枚の馬券が万馬券となり当面の生活費を手に入れると源治はギャンブルにのめり込んだ。パチンコでは毎度ドル箱を山のように積み上げ、競馬や競艇では九割を優に超える的中率を誇った。宝くじの高額当選も一度や二度の事ではない。毎晩のように大金をばらまき、毎日のように大金を手に入れていた。群がる女も両手で数えきれないほどであった。欲望の濁流に身を任せていた源治は決して溺れることはなかったのだ。
四十となり金をばら撒く人生に飽きてきた源治は会社を立ち上げた。IT関係の会社であった。無論その方面の知識は全くない。が、他社から引き抜いた社員の力で会社は急成長を遂げ、源治は一躍時の人となった。労せず、数年足らずで地位も名誉も手に入れることが出来たのだ。そして、結婚もした。相手はまだ二十歳を過ぎたばかりの女だったが、美人過ぎると話題になった女優だった。テレビでその女優を見た源治はすぐさま伝手を使い連絡を取り結婚に至ったのだ。その間僅か一ヶ月。失敗するリスクのない源治だからこそ取れた行動と言えよう。
そして今日、五十歳の誕生日を迎えた源治は妻と自分だけが知る小さな地下室にいた。四十五を過ぎた頃から秘密裡に準備してきた今日の為の地下室だ。部屋は二部屋あり、片方の部屋には源治が、もう片方の部屋には妻が待機している。
欲にまみれた源治は悪魔との契約である五十を過ぎても尚生きたいと思ったのだ。その為に絶対に死ぬことが出来ない場所を作る必要があった。源治は妻とその場所で五十歳の誕生日を過ごすと決めていたのだ。
その場所は東南アジアの名もなき小さな無人島。動物や虫は一匹残らず駆除しており、また火気の類は全くない。島の中央には小高い丘があり、地下室の入口は余程の津波でなければ浸水する事もない。それ以前に地震の少ない地域を選んで買った島なので天災はまず起こらない。つまり外部の要因で死ぬことはほぼない状態だ。
自殺の線はどうだろうか。部屋の壁は全て衝撃吸収材で覆われている。爪は全て短く切り、念には念をと舌を噛み切らないよう鍵付きの口枷もはめている。自殺しようにも出来ない状態である。
部屋の入口はどうだろうか。部屋のドアにはタイマー付きの鍵がついており内部からは明日にならないと開かない仕掛けになっている。どんなに力を込めようがドアノブが回ることはない。源治が外に出て死ぬことも出来ないのだ。ただ、一つだけある鍵を使えば外から扉を開ける事は可能だ。その鍵は妻が持っている。もし何らかの方法で源治が自殺を試みた場合、隣室で待機している妻が助ける事になっている。その為に源治の部屋には天井カメラが付いており、妻が逐一モニターを監視しているのだ。沢山の女性と関係をもっていた源治が一人の女を娶ると決めたのもこの考えがあったからなのだ。
ならば妻に殺される可能性はあるだろうか。源治は保険と名の付くものは全て解約している。また、夫婦の財産は全て源治の名義となっており源治が死んだ場合全ての財産を寄付するようにしたためた遺言を銀行の貸金庫に預けてある。つまり源治が死んだ場合、妻には一銭も財産が回ってこないのだ。妻が殺す理由もないようだ。
源治は時計の針を見つめていた。長針は十を指している。あと十分、十分経てば悪魔の契約から解放される。ここから先の人生は悪魔の手助けはないが莫大な財産がある。どう転んでも残りの人生も楽しく暮らせるはずだ――そう思いながら源治は時計の秒針に見入っていた。秒針がチッチッと時を刻む。源治はじいと秒針を睨む。
数秒が数時間にも感じられる中源治はおもむろに立ち上がった。緊張で汗がにじむ。源治は思案していた。俺はもしかしたら夢を見ているんではないだろうか。どうして莫大な財産を手に入れられたのか。頭が悪い俺が何故会社を成功できたのだろうか。女優を娶るなど、そもそも俺が出来るはずがないのだ。俺の人生はあの日ボロアパートで終わりを告げていたんではないだろうか。大体悪魔などこの世に存在するはずがない。これは今際の際に見ている夢なのだろうか。夢なんだろうか。夢だろうか。夢だ。夢――源治は腕時計の風防をドアノブに何度も打ち付けた。サファイアガラスで出来た風防は数度の衝撃に耐えた後、粉々に砕け落ちた。源治は文字盤が露わになった腕時計から長針を折り曲げた。垂直に立ち上がる長針を、見つめる。剣先のように、尖った、長針。ゆっくりと、左手に、右手を、添える。そして、首元、へ、何度、も……
ある居酒屋。二人の若い男が顔を赤らめながらしゃべっている。
「なあ、ところでうちの社長ってどこいったんだろうな?」
「さあ? いなくなって一ヶ月は経ったか? どこいったんだろうな」
「まあお飾り社長だったからいなくなっても問題ないけどな」
「ぎゃははは、そりゃあ言えるわ。あいつまじ何も出来なかったもんな」
「それでもあの美人の奥さん、今も社長の事探してるみたいだぜ」
「あんな社長のどこがいいんだかねぇ。……でもよぉ、聞いたか?」
「何?」
「実は社長がいない事をいい事に裏ではかなり豪遊してるって噂だぜ?」
「まじ?」
「まじまじ。それに社長の金で海外に土地買って近々移住するっても聞いたぜ」
「はぁー羨ましいわぁ。俺も金持ちの嫁出来て行方不明になんねぇかなあ」
「ぜーったい無理だわ。諦めろ」
二人の笑い話は深夜まで続いた。
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