第8章 理科学倶楽部オールロスト 第4話『旅』
「ムジカ先生、野花が綺麗ですよ。山もあんな近くに」
レイチェルはムジカの手を引き、長閑な森の遊歩道を歩いていた。自然豊かな森で、木々が青々と茂り、草むらには小ぶりな色とりどりの野花が咲き乱れている。
いずれの景色もムジカにはほとんど見えてはいなかったが、レイチェルが教えてくれた情報を元に想像して楽しんでいた。泣いてばかりいた彼女の顔に、笑顔がこぼれる。
「素敵な場所ね。風も心地良いし、過ごしやすそう」
「楽しい休暇……もとい療養になりそうですね」
レイチェルとムジカはモーブの手から逃れるため、オリヴィエの指示で国外の片田舎へ長期旅行に来ていた。学校関係者と家族には「ムジカの療養のため」と説明してあるので、今のところ怪しまれてはいない。
肝心のモーブは、オリヴィエが他の生徒も使って見張っている。旅行の行き先を知っているのも、オリヴィエとレイチェルのみ。到底見つかるはずがない、とレイチェルはたかを括っていた。
「レイチェル、他には何が見えるの?」
「林の向こうに大きな湖が見えます。水面がキラキラと輝いていて、とても綺麗ですよ。夏だったら泳げそう」
レイチェルは木と木の間から湖を覗き、ムジカに知らせた。
対岸が遠過ぎて見えないほど大きな湖で、水が透き通っている。水深は奥へ行くほど深く、底が見えなかった。
「ムジカ先生は近づかない方がいいかもしれませんね。誤って転落したら、溺れてしまいますから」
「そうね。気をつけるわ」
ロッジへ戻った後、レイチェルは使用人と混じって食事の準備に取り掛かった。
使用人達はレイチェルにも休むよう言ったが「ムジカ先生の口に入るものは、私が作りたいんです」と言って聞かなかった。本当は、使用人の中にモーブの息がかかった者がいて、その者が食事に毒を混ぜるかもしれないと危惧しての行動だったが、別段変わった動きを見せる者はいなかった。
一方、ムジカは庭のベンチに座り、休んでいた。そばにはメイドの女性が控えている。
「ムジカ先生」
ふいに、その女性がムジカへ話しかけてきた。外見は全くの別人だったが、声はモーブのものと全く同じだった。
ムジカもモーブだと気づき、驚いて振り返った。はっきりとメイドの姿が見えているわけではないため、突然モーブが現れたように感じた。
「モーブ先生、いつのまに? てっきり、学校にいらしているとばかり思っていたのですが」
「親戚の見舞いに来たんです。家がこの近くにあって……たまたまレイチェルとムジカ先生が歩いていらっしゃるのを見かけたので、来ちゃいました」
「まぁ、そうだったんですか。気がつかなくて、すみません」
ムジカは一切モーブを警戒することなく、謝罪した。
というのも、ムジカはレイチェルから「モーブに命を狙われている」とは聞かされていない。それどころか、今回の旅行の目的も本当に自身の療養のためだと信じていた。
モーブはムジカの様子からレイチェルが自分のことを話していないのだと分かると、声を潜めて切り込んできた。
「ムジカ先生、ご存知ですか? 貴方の目薬を劇薬に入れ替えた犯人が誰なのか」
途端に、ムジカの表情がかげった。
「いいえ。まだ見つかっていないそうです。誰も犯行を目撃しておらず、劇薬の出どころも判明していないままだそうで。でも私、犯人が見つからなくても構いません。レイチェルとの暮らしが楽しいですから」
「では、そのレイチェルが貴方の目薬を劇薬の入れ替えたのだとしたら、どうします?」
「……何ですって?」
ムジカは耳を疑い、モーブを問い詰めた。
「それは私が知るレイチェルのことですか? それとも、同じ名前の別人? あるいは私の聞き間違いかしら? レイチェルではなく、レイシェルとかレイチルとか、よく似た名前の……」
「正真正銘、ムジカ先生の最愛のレイチェルですよ。理科室でオリヴィエがレイチェルに劇薬を渡しているところを、たまたま目撃したんです。その時は大したことのない薬を劇薬だと大袈裟に言っているとばかり思って見逃したのですが、その後にムジカ先生が劇薬によって負傷されたと聞いて、驚きましたよ」
「……偶然の一致ではないのですか? まさかレイチェルが"犯行を行なった"と自らの口から言ったわけでもあるまいし」
「残念ですが、そのまさかなのです」
モーブは不憫そうにムジカを見下ろし、首を振った。
「犯行があった後、再び理科室の前を通りかかった際にオリヴィエとレイチェルが二人で話していました。劇薬を使って貴方を負傷させたこと、本来は薄めて使うはずだった劇薬をわざと原液で使ったこと、その劇薬をレイチェルに渡したのはオリヴィエであること……」
「嘘よ! 私を誰よりも愛してくれているあの子が、私を傷つけるなんてあり得ないわ!」
ムジカは思わず声を荒げた。
コテージにいたレイチェルと使用人達が「何事か」と振り返る。レイチェルは信用のおける使用人に食事の準備を任せ、庭へ出て行った。
「ムジカ先生、どうかしたんですか?」
「草むらから急にバッタが跳ねたので、驚かれたんですよ」
モーブはとっさに声を作り、言い訳した。
そしてレイチェルが到着する前に、そっとムジカに囁いた。
「嘘だと思うなら、本人に聞いてみてはどうです? "オリヴィエから聞いた"と言えば、正直に答えるはずですから」
レイチェルが到着するのを待ち、ムジカは思い切って尋ねた。
「……レイチェル。オリヴィエから聞いたんだけど、貴方が私の目薬を劇薬に入れ替えたの?」
「えっ」
一瞬、レイチェルの顔がこわばる。
しかしすぐに「なーんだ」と笑った。
「オリヴィエ先輩、言っちゃったんですか。私が言うまで秘密にしておいてって言ってたのに。まぁ、いつ殺されてもおかしくないんで、いいですけどね」
「じゃあ……本当に?」
「えぇ」
レイチェルは密かにプロポーズを計画していたのがバレてしまったかのように、照れ臭そうに頷いた。
「どうしてもムジカ先生が泣いているところが見たかったんです。すぐに洗えば大事には至らないと聞いていたんですが、先生の潤んだ瞳があまりにも美しくって、思わず見入ってしまいました。でも、こうして先生と毎日一緒にいられるようになったので、結果的には良かったです!」
「……」
悪びれもなく犯行を自供する恋人の姿に、ムジカは絶句した。全身から血の気が引き、悪寒が走る。
やがて頭が現実を理解してくると、怒りで顔を真っ赤にした。ベンチから立ち上がり、ほとんど見えていない目を頼りにレイチェルへ詰め寄る。
「何で、そんな楽しそうに話せるの? 貴方のせいで、私の人生はめちゃくちゃになったのよ?! 吹奏楽部の顧問からは外されるし、一人でまともに生活も出来なくなったし、ピアノだって弾けなくなった! どうしてくれるのよ?!」
以前のレイチェルなら確実に泣き出すような剣幕だった。
しかし、今のレイチェルにとってはそのようなムジカの行動すらも、癒しだった。
「はぅ……怒り狂ったムジカ先生も、素敵。ろくに見えない目で私を見ようとしてくれるなんて、最高の愛情表現じゃないですか! もっと罵ってくれてもいいんですよ?」
高揚し、頬を赤らめる。ムジカの目にはレイチェルの顔はぼんやりとしか見えなかったが、声の調子から興奮していると察した。
レイチェルの予想外の反応に、ムジカは拒絶を通り越して、恐怖を覚えた。レイチェルと過ごした幸せな日々が、どす黒く濁っていく。こんな狂気的な人間と今まで恋人として暮らしていたなど、信じられなかった。
「……警察に通報します。貴方と会うことは二度とないでしょう」
「いいんですか? 私がいなくなって困るのは、先生ですよ? 無償で二十四時間、介助してくれるアテなんてあるんですか?」
「貴方といるよりはマシよ」
ムジカはモーブの袖を握ると、「逃がして」と小声で訴えた。
モーブは承諾の意味をこめて微笑みかけると、ムジカを抱き上げ、森へ駆け込んだ。
「あっ、待って!」
慌ててレイチェルは二人を追いかける。
「そういえば、あのメイドはいつからうちにいたっけ?」
と疑問に思う頃には、湖が見えてきた。同時に、湖で溺れているムジカの姿も。
「助けて! 誰か!」
ムジカは両手をバタつかせ、浮いたり沈んだりを繰り返していた。
元々、泳ぐのが得意ではないのだろう。目がほとんど見えないのも相まって、パニックになっていた。
「そこに誰かいるの? モーブ先生に放り投げられたのよ! 誰でもいいから、人を呼んできて頂戴!」
湖に来たのがレイチェルとは気づかず、助けを求めてくる。
しかしレイチェルはムジカを助けようとも、他に助けを呼んで来ようともしなかった。それどころか湖畔に腰掛け、ムジカが溺れている様を優雅に鑑賞した。
「溺れてるムジカ先生、可愛い! 必死に手足を動かしてるのに、全然進んでない! むしろ、沖の方に行ってる! あのまま放っておけば、先生が絶命する瞬間が見られるってことでしょ? 最高!」
やがてムジカは力尽き、沈んでいった。再び水面に浮かび上がった頃には、ピクリとも動かなくなっていた。
レイチェルは桟橋に繋がれていたボートを使ってムジカの死体を回収し、コテージへ戻った。
そしてムジカの体を丁寧に洗い、湖に入って付着した汚れや臭いを落とすと、オリヴィエから学んだ防腐処理を施し、人形へと作り変えた。すぐさま処理を行なったおかげで腐食は最小限に留めることができ、生きたままと変わらない姿を保てた。
「これで旅行を続けられますね、ムジカ先生」
レイチェルは二人用ベッドにムジカを寝かせ、話しかける。
ムジカが死んだことを知らない使用人達の目には、寝ているムジカにレイチェルが愛を囁いているようにしか見えなかった。
その後、レイチェルはムジカの死体と共に各地を転々としながら旅を続けた。
その間、ムジカが死体だとバレることは一度もなかった。しかし生前のムジカと違って、何の反応も示さない彼女に、レイチェルは次第に飽きてきた。
「ごめんなさい、ムジカ先生。今の先生には何の面白みもないです。笑いもしないし、悲しみもしないし、怒りもしない。何をしても、無反応。そんな先生はつまらないです。さようなら」
終いには崖から投棄し、誤って落下して死んだことにした。レイチェルの迫真の泣きの演技に、警察も疑うことはなかった。
死体の状態を詳しく調べれば、すぐにでも真実は明らかになりそうなものだったが、
「まぁ、シルヴィ。人が降ってきたわ」
「本当ね、セレーネ。腐りかけだけど、美しい顔立ちをしているわ。食べてしまいましょうか?」
「そうね。肉は腐りかけが美味しいと聞くものね」
たまたま通りかかった旅行者に食われ、骨しか見つからなかった。
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