√2 手汗

「中島さん、私たち別れましょう」


 最後にそう言い残して、僕の彼女、吉村さんは去っていった。


 しかし、それは前回の話である。


 今の僕には、時を戻す力がある。




「中島さん、私たち別れましょう」


「ちょっと待ってくれ!」


「なんですか?」


 前回はここですぐに逃がしてしまったが、今回は阻止できた。


「その、どうして急に別れようなんて」


 吉村さんは僕の目をじっと見て、


「わからないならいいです」


 と言って去っていった。


     〇


「中島さん、私たち別れましょう」


「ちょっと待ってくれ!」


「なんですか?」


「すまない、僕が悪かった」


 僕は今にも出ていきそうな吉村さんの前で土下座をしたのであった。


「やめてください、土下座なんて」


「いや、これが僕の今の気持ちなんだ! だからその、決断を早まらないでくれ!」


 玄関を向いていた吉村さんは、僕のほうを向き、


「じゃあ、具体的に何が悪かったんですか?」


 まずい。非常にまずい。


「そ、そうだな。あの時だろ?ほら、あの時」


 これはいかがなものだろうか。


 いかにも言い訳をしている男であると、自分でもわかる。


 しかし吉村さんはしばらく考えたような表情をしてから、


「そうですよ、あの時です。さすがにあれはないです」


 これまたどうしたことか。


 先ほどの言い訳が通用してしまった。


「そ、そうだよな。この際だ、あの時どう思っていたか教えてくれ!」


「そうですね、はっきり言って気分が悪かったです」


 僕はそんなに嫌われていたのか!


 あまりのストレートな感想に、僕はしばし沈黙するのに精一杯であった。


 それを見兼ねてか、吉村さんが続けた。


「手を握るたびに手汗がべったりつくんです。汗が滴るほど」


「手汗?」


「ええ、そのことを言っていたのではないのですか?」


「ああ、いや、そのことだ。そうだそうだ。さすがにいやだよな手汗。うんうん」


 僕は一人で頷き、威勢よく立ち上がった。


 無論、手には時計が握られている。


     〇


 時を遡り、一か月前。


 僕はこの日、吉村さんと遊園地に来ていた。


 待ち合わせ時間の30分前に到着し駅のトイレで、つい先ほど人でも殺めたのではないかと疑われるほど、ひたすら手を洗っていた。


 前日には手汗を出さない方法をネットで調べたりもした。


 あまりにも調べすぎて、ネットの広告がすべて、手掌多汗症治療の広告になってしまうほどだ。


 そして現在に至る。


「おはようございます。待ちましたか?」


「いいや、全くこれっぽちも待っていないよ」


「そうですか、ならよかったです。では行きましょう」


 そうって吉村さんは手を差し出してきた。


 ゴクリと唾をのむ音が脳内に響いた。


 ゆっくりと吉村さんの手をつかむ。


「どうしたんですか?」


 吉村さんの表情を見る限り、セーフだ。


 ああ、よかった!


 それから僕は一日、いや、一か月、吉村さんと会うたびに手汗に全神経を集中させ、広告にまんまと乗せられ結局、手掌多汗症治療を受けたのであった。


     〇


 一か月後。


 吉村さんが突然、この八畳の広いとも狭いとも言えない部屋に来た。


 そしてテーブルをはさんで向かい合うように座る。


 なんだかこれは、デジャヴというやつではないか。


 いやな予感しかしない。


「中島さん」


「はい」


 まずい、手汗が出てきた。


「私たち、別れましょう」


「へ?」


 最後にそう言い残して、吉村さんは去っていった。

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