11

「すみません、相談したいことがあるというよりは、ただ話を聞いてもらえればと思ったんです。それも、うまく話せる自信はあまりないのですが」

 緊張を隠せないようすで力なくつぶやく言葉に、すっかり耳におぼえのある優しいささやき声が返される。

「構いませんよ、そういった方はたくさんいらっしゃいます。こちらもまた、なにもかもを見通せる万能の神ではありません。それでも精一杯に役目を果たすことは出来ると思っています。ひとまずは、あまり固くなりすぎないでくださいね」

「ええ、」

 こくりとうなずいて見せながら、膝の上でかすかに震えた掌をぎゅっときつく握り返す。

 不思議だ、隔てられた壁の向こう側からは聞こえるのはすっかり耳に馴染んだおだやかなあの声で、きっとお互いが誰なのかなんてことは尋ねるまでもなくわかっているそのはずなのに―こんな風にお互いの姿が見えないこと、ただそれだけで、こんなにもたやすく心の境界がもろくなっていることに気づくだなんて。


 思いもしなかったのに、まさか自分が利用者になるだなんてことを。

 どこか不可思議な心地になりながら、小さなカウンターの向こう側、衝立と薄いカーテンで遮られた壁の向こうをぼうっと眺める。

 取材のために、という名目で使われていない時間に何度か見学をさせてもらった告解室――それが、いまこうして僕のいる場所だ。

 洗いざらい話してみればいい、そうすればきっと、まだ見えてこないものに手をのばせるのかもしれないから――そんなあたりまえの、だからこそたやすくつかむことの出来ない答えを差し出してくれたのは、手探りでたどる物語の世界を生きる登場人物だった。


「……きょうはどんな風にしてこちらに?」

 黙り込むこちらを気遣うように投げかけられる問いを前に、こほん、とわざとらしく咳払いをひとつこぼした後に僕は答える。

「教会にこういった施設があることは噂に聞いていて……それならいいのかな、と思ったんです。ちょうどすこしばかり聞いてもらいたいことがあって。ほんとうは大切な友だちに伝えたいことだったんですが、その前にまだすこし、迷いがあったから」

「大切な人だからこそ、まだ話せないことなんですね」

「ええ……でもちゃんと話すつもりで。きょうは、そのきっかけをもらいに」

「光栄です、ご期待に恥じないようにしますね」

 あたたかに広がる言葉に、おだやかに背中を押してもらえたかのような心地よさを味わう。

 覚悟をするように深く息を呑み、おそるおそると言葉を吐き出すようにする。

「ここに来たのは――逃げ出すためだったんです。さまざまな、自身の身に降りかかってくることから。子どものころから望んだ仕事に就くことが出来て、なにもかも、申し分ないほどに恵まれていて―それでもいつしか、ちいさな違和感のようなものが募ってくるのを感じていました。最初はかすかだったはずのほころびはいつしかぐんぐん広がっていって、危機感のようなものすらを覚えるようになりました。立ち止まったほうがいいと、そう決めたのは自分です。幸いなことに、周囲の人たちは理解を示してくれました。それがたやすく叶えられる環境にあったのは、ほんとうに幸福なことだったと思います。ひとまずはどこか遠くへいきたいと思いました。縁もゆかりもないような場所に―出来れば、人々がただ日々の暮らしをおだやかに過ごしているだけのような、そんな町に。いくつかの条件をかかげ、知人の後押しも受けて選んだのがここでした」

「選んでいただけたことを光栄に思います」

「……いえ、そんな」

 ゆるく頭を振り、おぼつかない言葉をつなぎ合わせていくようにする。

「はじめから、どのくらいの期間を過ごすのかは決めていませんでした。それが一週間二週間になるのか、数ヶ月になるのか、はたまた数年になるのかも――気の長い話だと思います。でもそんなわがままを許される機会だなんてもうずいぶんなかった気がしました。使い古しの旅行鞄を手に一歩家を出た時、なんだかすごく久しぶりの気持ちを味わいました。こんなにも晴れやかな気持ちになれたのだなんていつ以来だろうなって。おかしな話ですけれど、ほんとうに」

 いまでも憶えている。あの日に感じた、みるみるうちに心を覆い尽くしていくかのようなあざやかな感情のひとつひとつを。

「……誰かと打ち解けられるだなんて、思ってもいませんでした。もとより人と話すことはあまり得意ではなくって、それもあって、どこかしら社会の枠組みからはみ出しているかのようないまの仕事に就きました。それでもほんとうに、ごく自然に声をかけてくれた人がいて―特別な理由なんて、きっとなかったんだと思います。いかにも浮ついたよそものがいたからだなんて、きっとそれだけで。彼は言ってくれました、自分もよそから来た人間だからって。もしかすれば、なにか懐かしさのようなものを感じてくれたのかもしれない。うれしかったです、すごく。不安がないわけじゃなかったから。そそがれるまなざしも、言葉も――すべてがやさしくて、おだやかで」

 まるで、なにもかもを放り出して逃げてきたこんな不確かな自分をただおだやかに受け止めてくれたかのような、そんな心地にさせてくれたから。

「すこしずつ言葉を交わすようになるうち、おぼろげにしか見えていなかったものが明らかになっていきました。ひどく驚くこと、ショックを受けることもその中にはたくさんあって――それでも、どこか安心もしていました。振り返ることの出来るだけの過去にきちんとなっていて――いま目の前で、彼は笑ってくれている。こんな不確かな自分を信じて、些細な言葉ひとつひとつにきちんと耳を傾けてくれる。それは、何よりもの救いのように思えました。お互いにもっと幼い子どものころに出会えていればよかった、そうすればきっと、僕に出来ることがもっとたくさんあったはずなのに――なんどもそう思いました。でもきっと、いまじゃなくちゃだめだったんだと思います。なんどもそうやって言葉を交わしていくそのうちに、いまの自分に出来ることはなんなんだろうかって、そんな風に思うようになりました。誰かのための救いになるもの―たとえ過去にさかのぼることは出来なくたって、心の中にいるちいさな子どもにそっと手を差し伸べてあげられるような、そんな。おこがましいとは思います。でも誰もがきっとそんな風に、誰かの言葉に支えられてきた過去がたくさんあって、それがいまにつながっていて」

 深く息を飲み込めば、あたり一面をたおやかな静寂が包み込む。

「――あなたは、言葉を紡ぐことを仕事にしていらっしゃるんですか?」

 促すようなやわらかな問いかけを前に、こくり、とちいさく頭を振るようにしてから僕は答える。

「文筆家のまねごとのようなことをしていました。それもいまは見失いかけていて、いまはただの世間知らずのつまらない臆病な男です」

「私にはそうは思えません」

「……そんなこと」

 ぎこちなく言葉を震わせるようにして答えれば、たおやかな言葉は静かにこちらを包み込む。

「あなたには自分の心の中にあるものを描き出す言葉が、それを伝えようとする力と勇気があふれている。つまらなくて臆病だなんて、いまこうして目の前にいてくれているあなたを表すのにはまるでふさわしくありません」

「ありがとうございます」

「当然のことを言ったまでです」

 誇らしげに告げられる言葉は、すくんだ背をそうっと撫でてくれるような飾らないぬくもりに満ちている。

「まだお話が途中でしたよね、続きをお聞きしても?」

「……ええ、」

 膝の上でいびつに震えた指先をぎゅっときつく握りしめるようにしながら、おぼつかない言葉をたぐり寄せるように僕はささやく。

「書きたいと思う物語に出会えたんです。作り物のおとぎばなしなんてなんの役に立つんだろう。僕自身が何よりもそう思いました。でもそれ以上に、その中でしか生きることの出来ないたくさんの思いが、叶えられない願いがあることを、その出会いこそが変えてくれる未来があることを僕は何よりも信じていました。ただ思いつくまま、夢中で書き始めました。こんな気持ちいつ以来だろう――すごくわくわくして、主人公たちとおなじだけ悩んだり迷ったりすることすら楽しかった。それでもその喜びはいつしか、すこしばかりの不安や寂しさに塗り替えられていきました。物語はいつか終わります。僕は彼らに相応しい結末を用意してあげなければいけない―送り出したその後は、僕には僕の、彼らには彼らの人生があるから」

「寂しくなったんですね、彼らと別れ別れになってしまうのが」

「……もう子どもなんかじゃないのに」

うなだれるようにしながらぽつりと落とす力ない言葉を前に、包み込むような優しいささやき声が返される。

「大人になったっておなじです。どれだけ大切に思っていたとしても、選ぶもの、生きていく場所がそれぞれに異なっているのなら、おなじ場所に留まり続けることは出来ません。寂しい、悲しいとそう思う気持ちは子どもだけの特権ではありませんよ」

「そんな自分が赦せなくても?」

「たとえ赦せなくても愛せなくても、あるがままを受け入れて乗り越えていくことは出来ます。あなたの愛情は決して恥ずべきものでも、赦してはいけないものでもありません」

「……ありがとうございます」

 壁越しに届く言葉は、まるで渇いた土に水を注ぐような静けさでひたひたと心を満たしていく。

「手放すことはいつでも不安でした。僕の心の中にだけあったものは、ひとたび手を離してしまえば、途端に僕だけのものではなくなってしまう。それでも信じていたから――きっと大きな世界を僕に見せてくれる。僕を歩ませてくれる、そんな風にしてみなが生きているから、だからきっと。ここに来たのだって、元はと言えば立ち止まるためでした。いままでの暮らしの中にいてはきっと、意にそぐわないまま流されてしまうだけになってしまう、立ち止まることも逆さに道を歩くこともきっとうまく出来ない――情けない話だと思います。歩みたいと思える道が見つけられたことはきっとすごく幸福なことなんだろうと思います。それでも、」

 ――それでも時は、誰しもをこの場に置き去りにしたままにはさせてくれない。

「寂しいと思えるのは、自分の心がそこにあることを受け止めているあかしです」

 言葉をつまらせるこちらを前に、優しい言葉は続く。

「すこしだけ、私のことをお話させていただいても構いませんか?」

「――ええ、」

 わずかばかりためらいながら落とす言葉を前に、やわらかなささやき声はしずかに響く。

「私の家族は、母と妹と私の三人きりの、すこしばかりちいさなものでした。傍から見れば欠けたいびつな集合体でも、私たちはそれぞれに心を寄せ合い、それらを守りあうようにして日々を過ごしていました。私が大学を卒業してすこし経ったころ、母は病気で命を落としました。心は塞がれ、ひどく悔やみました―それでも、私たちは立ち止まってはいられなかった。たとえ共に居られた人が居なくなってしまっても、築き上げてきた思い出は消えたり、意味を無くしてしまったりはしません。もっと残酷な言い方をすれば、あらかじめ諦めがついていたとも言えます。いずれ来る別れが予定よりも幾分か早まっただけだから――そう思えば、どうにかやり過ごすことも出来ました。それから数年の後のことです。どうにか見習いとして就いたいまの職務にも慣れはじめたころ、妹と、その婚約者が旅行中に乗っていた列車が脱線事故に遭いました。かなりの大きな事故でした――新聞の一面を飾るトップニュースになり、どれだけ耳を塞いでいたとしても、報道を目にすることを余儀なくされました」

 身をこわばらせるようにして深く息を呑むこちらを前に、伝えられる内容とは裏腹の、ひどく落ち着いた冷静な口ぶりで、おだやかな言葉は続く。

「―即死だった、と聞かされました。彼らと共に多くの人たちの未来がその日、閉ざされました。やみくもに犯人探しをして責め立てたとしても、なにも始まりはしません。ただ祈ることしか出来ない――いくら頭でそうわかっていても、視界は真っ暗に塗りつぶされてしまい、なにも見えなかった。ほどなくして私は当時住んでいた家を引き払い、生まれ育った町を後にすることを決めました。彼らとの思い出が詰まった町で暮らしを続けることはどうしても耐えられなかったからです。正直なことを言わせてもらえれば、次の行き先だなんてものはどこだってよかった――家族とともに過ごした時間を思い出すことが出来ない場所なら、もうどこでも。ひどくふさぎ込んだ私を見かねるようにして仕事を与えてくれたのが、この教会の先代の神父でした」

 わずかに震えながら――それでも、確かな決意を込めるように、静かに言葉は放たれていく。

「新しい居場所を得たことは、よい方向に作用してくれました。見知らぬ人たちはいつしか頼るべき隣人となり、よそものだったはずの私を心よく迎え入れてくれました。次第に、逃げ延びてきたはずのこの町にも、自身の居場所のようなものを感じられるようになりました。そうして過ごすうちに、この町を訪れる多くの人たちと出会いました。やがて私と同じようにここに新しい居場所を定める人もいれば、様々な理由から町を出て行く人もいました。その中には、ほかに頼れる人もいないまま、この教会を拠り所とする人たちもいました。そのうちの多くの人たちはいつしかこの町を離れて独り立ちをしていきました。それでも、時折彼らはここを訪ねてくれます。その中には、新しい暮らしで得た新たな家族を連れてきてくれる人もいます。出会ったばかりのころとはまるで見違えるような彼らの姿を目にするその度、自分でもずっと忘れかけていたようなおだやかな気持ちに駆られるのを感じます。なにもかも失ったと思っていた私はいつしか、こんなにもかけがえのない宝物を手にしていた――そんな感情を、いくつも受け取ることが出来ました」

 ありありと紡がれていく言葉の端々から伝わる思いに、息が詰まるような心地を味わう。

 おなじなのだ。置かれていた状況も、向き合わなければいけなかったことの重さがどれだけ違っていたのだとしても、根底にあるものはきっと。

 求めずにいられなかったもの、気づけば掌の中に静かに落とされていた、こんなにも確かな宝物の正体が。

「……すみません、気づけば私ばかりがこんなにも一方的に話を聞いてもらって。これでは立場がまるで逆ですね」

 自嘲気味な笑い声まじりにかけられる言葉には、掛け値なしのぬくもりが満ちている。

「いえ、そんな―ありがとうございます」

「ほんとうに優しい人ですね、あなたは」

「……ありがとうございます」

 遠慮がちに告げられる言葉は、心を隅々まで明るく照らし出してくれる。



×月 ×日


 教会の告解室で話を聞いてもらうことにした。

 物語の舞台としてたびたび登場し、使われていない日に取材と称して見学をさせてもらったその場所にまさか自分が利用者として訪れることになるだなんて、なんだか物語の中の登場人物にでもなったかのような不思議な気分になった。

 顔の見えない言葉だけのやりとりは不思議だ。壁の向こう側にいるのが誰なのかなんてことはお互いにわかっているはずなのに、姿を隠し合い、お互いが他人同士であるのだとあたかも共犯関係であるかのような間柄を結ぶ、ただそれだけで、不思議と心の中でわだかまった言葉は魔法のように解き放たれていく。

 自分はただ、みっともなくておぼろげな心の内をこんな風にして聞いてほしかったこと、それが『誰でもない誰か』であることをなによりも必要としていたことに気づく。

 物語はこんな時、ひどく無力だ。それでもきっと、物語に出来ないようなこと、物語や、語り継いでいくための言葉にすらならないようなものに生かされているのだということもおなじだけ感じる。


 話の中で、壁の向こうに居る『彼』の境遇を知る。

 共に過ごした家族を亡くしていたこと、失意のどん底でもがきながら新しい生活をはじめたこと、やがてこの町での暮らしを紡いでいく中で、かけがえのない出会いに恵まれたことを。

 おこがましいことだとは思っても、奥底にあるものはきっと同じなのだろうと感じた。

 いつしかおそれや不安に怯え、身動きがとれなくなっていたこと。自分をまるで知らない誰かばかりの居る新しい場所に飛び込めばきっと変わらざるを得ない――その中でならきっと新しい生き方を見つけられるとそう信じていたのだろうということ。

 そこではぐくむことの出来た新たな絆や手にしたぬくもりが、生きるために何よりもの必要なものを与えてくれたこと。


心の傷を癒し、羽根を休めるためのシェルターを必要としている人間がこの世にはいくらだっている。

 彼や、彼に助けられた人たちもまた、きっとそのひとりなのだろうと思う。

 助けを求める側にいたはずの彼はいつしかここで、迷いや不安に怯え、行く先を見失った人たちを導く役割についていた。

 そのことはどれだけすばらしく、誇らしいことなのだろうかと思う。

 たとえうぬぼれだと笑われても構わない、僕もまた、彼のような役割を果たせるようになりたいと強くそう思った。

 言葉を残すことを選んだ意味はきっとそこにあるのだとそう信じている。



 すこしばかり掠れた万年筆を置き、ふかぶかと息を吐き出せば、たちまちに緩やかな安堵に心を包まれるのを感じる。

 言葉は不思議だ、形にしようと筆を取った瞬間に心の奥底から自在に動き出しては、いつだって思いもよらぬ方向に心を導いてくれる。こんな風に自分の胸にとどめるためだけの言葉がある一方で、誰かに伝えるために解き放つ言葉がある。それぞれに意味合いや込めることの出来るものは異なっていて、そのすべてがきっとかけがえのない宝物になりうるものなのだ。

 ほんとうに、自分はいったい何に怯えていたんだろう。こんなにも確かに信じられるものならもうちゃんとこの手の中にずっと前からあったのに。すっかりぬるくなってしまったコーヒーを流し込むように口をつけると、机に放ったままにした万年筆をもういちど手に取り、走り書きを書き連ねる。



 たとえばそれが写真を撮ること、歌をうたうこと、踊ること、絵を描くことだと言う人もいるのだろう。

 僕は言葉を残すこと、それを遠くにいるまだ見ぬ誰かに届けることを選んだ。

 いまはただそれを誇りに思い、もう一度歩き出すための術を探している。それはきっと遠くないうちに僕の中でたしかなものになるはずだ。




「……なんだろう、すごくうれしい。いいねっていうよりもそのほうが相応しい気がするんだ。ほんとうにうれしい、すごく」

 噛みしめるように告げられる言葉に、心の隅々までを明るく照らし出されていくのを感じる。

「――ありがとう」

「こっちの台詞だよ、それは」

 肩を竦めるようにしながらの照れ笑いで精一杯に答えれば、子どものように無邪気に花開く笑顔がやわらかくそれを受け止めてくれる。

 手渡した物語の中では、親友同士だった彼らがついに対面での『ほんとう』の出会いを果たす、書き上げたばかりの場面が綴られている。

「なんて言えばいいのかな……僕はただの一読者で物語の外の人物に過ぎないはずなのに。まるでずうっと見守ってきた大切な友だちみたいに彼らのことを思っていて、だからほんとうにうれしくって。こんな気持ち、いつ以来だろう。うんとちいさな子どものころ以来だと思う。本を開けば会える友だちがいて、夢中で何度も読んだんだ。もうタイトルもどんなお話だったかも思い出せないのに、すごくわくわくして、眠る前のベッドの中で繰り返し読んだことだけはずうっとおぼえてる。すごく懐かしくて、すごくうれしい」

 うっとりと瞼を細めるようにして答えてくれるその姿に、出会えるはずのない幼い子どもの姿がかすかににじむ。

 きっとこちらの想像には及ばないほどの痛みや不安に覆われていたはずの幼い彼の生きてきた時間に寄り添ってくれた物語がそこにあったこと――それを思うだけで、胸が震えるような安堵感を呼び起こされるのを僕は感じる。

「ねえ、ひとつ聞いてもいいかな?」

 言葉を詰まらせるこちらを前に、無邪気に笑いかけるようにしながら彼は尋ねる。

「うん、なあに?」

 すこし皺の寄った紙束をぎゅっときつく握りしめながら、やわらかに言葉は続く。

「このお話をこうして読んでいるのは、いまでも僕だけだったりするの?」

 そうっと頭を振るようにしてから、僕は答える。

「うん、そうだね」

 書き上がったとしても、これからどうするかはわからない―ただ自分のために書いているだけだから。それは、彼にも繰り返し聞いてもらっていたことだった。

「……そうか、」

 感慨深げに息を吐き、遠慮がちな言葉が静かに落とされる。

「なんだろう……すごく贅沢をさせてもらっているなって誇らしく思うんだけど、おんなじだけ、すごく申し訳ない気もする。君のファンに知られたらきっと恨まれるだろうなって」

「……そんなこと」

 力なく答えれば、おだやかな笑顔はやさしくそれを受け止めてくれる。

「最後は君が決めるしかないよね。ただきっと、このお話に出会いたい人は僕以外にもずっとたくさんいるはずだから―わがままだと思って、頭の片隅にでも置いておいて。一番に読ませてもらえるのはほんとうにうれしいんだ。それでも、このまま君と僕だけのもので終わってほしくないんだ」

「ありがとう、」

「……うん」

 瞼を細めた笑顔を前に、心の奥底に沈ませた思いはぶざまに揺らぐ。伝えようと、そう決めたはずなのに。

 ごくり、と深く息をのみ、決意を込めるようにと静かに僕はささやく。

「結末はもう決まっているんだ、近い内に書き上げられると思う。全体的にちゃんと手を入れたいから、まだ完成まではすこしかかると思うけれど」

「そうなんだ」

 ぱちぱち、と長い睫毛をしばたかせたまばたきが落とされるのをじいっと見つめながら、ゆっくりと言葉を手繰り寄せるようにする。

「―話が変わるんだけれどね。すこし前に、君に教えてもらった革職人の店に行ってきたんだよ。四丁目の裏通りのね。前から気になってたんだ、ここに来る時に使っていた旅行鞄がもう随分痛んでいて、そろそろ買い換え時だなあって。店主に話を聞いてみたら、セミオーダーで鞄を仕立ててくれるって言うんだ。だから、お願いすることにして」

「……うん、」

 瞳を伏せるようにしながら、静かに僕は答える。

「あと一ヶ月もしたら完成するって、そのころには色々な手はずも整っているのかなって」

「あぁ、」

 ゆるやかに注がれるまなざしには、哀切の色がわずかに滲む。

「……楽しみだね」

「うん、」

 答えながら、ゆるく握りしめた掌にそうっと爪を立てるようにして、泡立つ感情に蓋をする。

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