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こんにちは、ご無沙汰しています。
血のつながった親子であるはずのあなたに改めてこうして手紙を送るだなんて、なんだか照れくさいものですね。
こちらは午後十七時、夕暮れ時を迎えています。
耳慣れない言葉でしゃべる人たち、摩訶不思議な記号のように見える見慣れない文字の看板、目に鮮やかな総天然色の色彩、おおよそこの瞳で直に確かめるのははじめてのはずなのに、どこかしら郷愁を感じさせてくれる風景、そのすべて、ひとつひとつを新鮮に感じながら日々を過ごしています。
とはいえ、日常の雑事を忘れるためにこうしてはるばる遠い町までやってきたのだとはわかっていても、やはり自分はここでは異質な存在であるのだ、ということを改めて感じてしまっているのも曇りない事実ではあります。
『落ち着く』『帰りたくない』と口にするその度に、心の片隅でいつも、言の葉の力に頼ってしまっている自分に気づくのです。
すなわち、言葉にすればきっとそれが現実のものになるのだ、ということ。何事においても、こんな風にして自らをだますことが大事なのですよね。
なにやら非難めいた言葉が続いたように思われるかもしれませんが、決してこのすばらしい旅に不満があるといいたいわけではないのです。
帰る場所があるからこそ旅に出られるのだということ。
見慣れぬ景色、見慣れぬ天井、よそよそしいほどのぱりぱりにのりの利いたシーツ、いい香りのするリネン、ふかふかのベッドを好ましく感じられるのだということ、ただそれだけなのです。
ところで、あなたが見慣れぬ町へと、『帰らない旅』に出てからはもうとっくにひとつの季節が過ぎ、しまいには新しい年を迎えるようになっていますね。
あなたはいま、どんな風に新しい年を迎えているのでしょうか?
便りがないのがよい便りとはよく言ったもので、変わりなく平穏に過ごせているのだと、私たちはみなそう信じています。
あなたの選んだその場所は、あなたを受け入れてはくれましたか?
そこをあなたにとっての新たな『帰りたい場所』にすることは出来ましたか?
心地よい場所を増やしていくことはとても大切なことです。あなたの選択が、あなたの人生をより豊かなものにしてくれていることを心より願っています。
あなたの旅は、いつまで続く予定ですか?(羽根を休める場所としてより長く留まり続けることを決めたのだとしても、それもまた、『旅』の終わりであることには変わりませんよね)
せかすつもりはすこしもありませんが、『いままで』と、そして『これから』について、あなたから聞かせてもらえる機会がくる日を私たち家族は何よりも楽しみにしています。
じきに私たちはあなたも慣れ親しんだはずのあの家へと帰ります。
また都合のよい時で構いません。いつでも顔を見せに帰ってきてください。あの家はいつでも、私たちだけではなく、あなたにとっても最上の『帰る場所のひとつ』であればと思っています。
拙い手紙を最後まで読んでくれてどうもありがとう。
親愛なる我が息子へ 愛を込めて
なめらかなカーブを描く金色の書体でホテルのロゴの記された便箋を手に取りながら、もう何度目かわからなくなってしまった感嘆のため息をそうっと吐き出す。
深いネイビーのインクで書き記された懐かしい文字の向こう側には、自然と慣れ親しんだ表情と声色がみるみるうちに浮かんでくる。
アイボリー地に金色のごくシンプルな縁飾りが描かれた封筒に、ホテルのロゴが入った便箋。数枚にわたる手紙には、夕暮れの橙色の光に染め上げられていく、海を望む異国の町並みを捉えた絵はがきが同封されている。
おぼえていてくれたんだよね、ちゃんと。気まぐれにめくった写真集や雑誌の中でなら幾度も目にしたような目にも鮮やかな異国の風景を前に、思わずゆっくりと瞼を細めるようにして見とれる。
らしいとしか言いようがないや、ほんとうに。
なんども繰り返し読んだ果てに、はしがよれてすこし折れ曲がったそれをぼうっと眺めながら、もう一度だけとそう決めて、深く息を吸い込む。
――答えなくちゃ、ちゃんと。何よりも、自分自身のために。
覚悟を決めるような心地で、机の上で無造作に転がったままの万年筆をそっと手に取り、言葉を引き寄せていくように、すっとペンを滑らせる。
親愛なるお母様へ
ご無沙汰しております、度重なる不義理をお詫びするのと同時に、こうして不承の息子を気にかけてくださったことへの心よりのお礼を申し上げます。
先日は素敵な旅の便りをくださりありがとうございました。新鮮な驚きや喜びとともに、変わらない真摯なまなざしを持ち続けるあなたさまのするどい視点のありように、こちらも気づかせていただくことがたくさんありました。
バカンスのなによりも優れたところは、自身に課せられた日々のちいさな雑事から逃れられることだと思います。あなたが思う存分に羽根をのばした上で、新鮮な出会いに恵まれた時間を過ごせたことを、心からうれしく思っています。
さてはて、気づけばお便りをいただいてからずいぶんと時間が経ってしまっていましたね。みなさまはもう、いとしい我が家で慣れ親しんだ日常を取り戻しているころでしょうか。
僕はと言えば、まさかこんな風に遠く離れた町で新しい年を迎えるだなんてことを思ってはいなかったため、どこかしら不可思議な、それでいて、これ以上ないほどにしっくりと心に馴染んだような心地で新年を迎えています。
おかげさまで顔なじみとなった他愛もない言葉をかわす人たちとの縁にも恵まれ、中には友人と呼べる人もいるほどです。
終わりを決めず、ただ気の済むまで無為な日々を過ごしたい。
お世辞にも大衆向けの娯楽作品とは呼べない、憂いや迷いをそのまま溶かし込んだかのような小説を書いて、どこの誰ともしれない作家を名乗る男の申し出にさぞかし戸惑ったはずの大家とも、いまではすっかり気心の知れた間柄を築くことが出来ました。
長い人生の時間をおもえば取るに足らないはずのものであるこの数ヶ月を、僕はまるで、この先の人生の中でもきっとかけがえのないピースとなってくれるものを手に入れたかのような心地で受け止めています。
とは言え、僕がこんな風に気楽な受け止め方を出来るのも、ひとえにこれが『非日常の旅の中』で得た出来事に過ぎないこと、すべきなにもかもを置き去りにしてきたからだというのは痛いほどにわかっているのです。
「世捨て人を気どるにはまだ早すぎるんじゃないの?」
この旅へ出ることを報告をした時、知人のひとりに言われた言葉がそれでした。
ほんとうに、その言葉のとおりです。
すべてを投げうってしまいたいのではなく、見失いかけたものをもう一度見つけだしたい。それが、僕がこの旅へと出ることを決めたきっかけでした。
幸いなことに、その願いはすこしずつ形になりはじめています。
この町で出会った人が教えてくれたもの、この目や心が捉えたものが、確実に新しい色彩を描き始めたのです。
安堵するのと同時に、どこかしら寂しい気持ちを感じているのもまた事実です。それほどまでに、この町や、ここで出会った人々と過ごす時間は僕にとってのかけがえのないものになりつつあるのです。
あなたの言葉通りに、ここがいつしか僕にとっての新たな『帰りたい場所』になったのだということなのだと思います。
これからどうするべきなのか、どうしたいのかは、情けないことにまだはっきりとはわからないままです。
幸いなことに、僕の仕事は場所を選びません。新しく慣れ親しんだ人たちとともに、ここで仕事を続けることにすれば? そんな風に思ってしまうことはいくつもあるのですが、かならずしもそれが『正解』だとは思えないのです。
ひとまずはまだ、おぼろげに形になりつつあるあらたなこの物語に向きあうことで、自身を見つめ直せればと思っています。
近いうちに、また顔を見せにお伺いさせていただきます。素敵な旅についてたっぷりと聞かせてもらえることを心より楽しみにしています。それまでどうぞ、お元気で。お体にはくれぐれもお気をつけください。
あなたを心より愛する、不肖の息子より
「手紙が届いたんだ。ホテルの備え付けだったらしい便箋に何枚にも渡って綴られたものが。はがきを出してくれるとは聞いていたもんだから、すっかりそのつもりで待っていたんだけれど」
「へえ」
おぼろげに告げる言葉を前に、ぱちぱち、と興味深げなまばたきがそうっと送られる。
「いつ以来だろうって思ったけど――学校を出た時以来な気がする。懐かしいなと思って。いまでもちゃんとしまっているはずなんだ、前の部屋においてきて、そのままなんだけれど」
「いいね」
うっとりと瞼を細めるようにしながら、やわらかな言葉が投げかけられる。
「宝物じゃない、うらやましいな」
「……あぁ、」
ぎこちない照れ笑いで答えながら、胸の奥に突き刺さる鈍い棘の感触をおぼえる。こんな風に思ってしまうこと自体が、ひどく傲慢な思い上がりのはずなのに。
「母はね、教員の仕事をしているんだ。大学で教鞭をとりながら、子ども向けの哲学の講座をいまでも年に何回か開いていて。――むかしから、ほんとうに、たくさんのことを教わった気がする。耳にしたそのころにはおぼろげでうまく掴めずにいたことが、何年も経ったその後でやっとわかるようになった、だなんてことがいくつもあって。僕はほんとうに不出来な生徒に過ぎなかったけれど、いつでもちゃんと、根気よく向き合ってくれた」
「素敵なお母さんだね」
「周りのお母さんとはやっぱりどこか違うから、戸惑うこともたくさんあったけれどね」
笑いながら答えれば、いくつもの記憶のかけらたちが音もたてないまま、泡のようにしずかにはぜる。
「聞いてもいい? 君が作家になるんだって宣言した時のことを」
じいっとこちらをのぞき込むようにしながら放たれる優しい問いかけに、うっすらと笑みを浮かべるようにして僕は答える。
「あら生意気ね、お母さんだってまだ単著を出したことがないのにって」
「百点満点の回答だ」
くすくすと遠慮がちに声をたてながらあげられる笑い声に、心ごと包み込まれるようなおだやかさを味わう。
「……聞かれたんだよね、あなたはいつまで旅を続けているつもりなの? って」
おそるおそる、とばかりに本題を切り出せば、見つめあうまなざしの奥で、わずかに鈍くくすんだ色の影が落ちる。
「もっともではあるよね。帰る場所は残したままだなんて、ある意味卑怯な形でここまで逃げてきたんだから」
「そんなこと、」
やわらかくこちらを包み込むためだけに落とされる優しい言葉を遮るように、そっと静かに頭を振り、僕は答える。
「だから答えたよ、おぼろげにだけれど、ここでしか得られなかったなにかを掴めそうな気がするんだ。それがなになのかがちゃんとわかったら、これからどうするのかを考えるつもりだって」
旅を終えること――それは、ただ慣れ親しんだこの場を後にするということには限らないのだけれど。まだ言えない、それは。
胸の奥に飲み込んだ言葉は、まるで鉛かなにかのようにぐらりと重くのしかかる。
「ほんとうに軽い気持ちだったんだ。出来るだけ、ただ日常を過ごせる場所がいいと思った。世界中からひっきりなしに旅人が訪れるような有名な町なんかじゃないほうがいい。ゆっくり本が読めて、美味しいコーヒーとパンがあればそれでよかった。退屈であればあるほど味方になってくれると思った。毎日なにかに追われていると、いつのまにか自分自身の心の声に耳を傾けるだなんてかけがえのないことすら忘れてしまうからね。―思いもしなかったんだ。帰りたいと思える場所が、また新しく出来るだなんてこと」
「……うん、」
おぼろげに震えながら投げかけられる言葉に、心ごと淡くゆさぶられるのを感じる。
「書きたいことが見つけられたんだ、もう一度―ほんとうに意味があるのかなんてわからない。それが誰かやなにかのためになるはずだなんてそんなのきっと、おこがましいだけの思い上がりにすぎなくって、それでも。自分の中にそれを見つけ出せたことに何よりもすごく励まされていて―うれしくって」
この気持ちを、大切な贈り物になれるようにと心を込めて伝えることが出来たらとそう思わずにはいられなかった――いま目の前にいてくれる、たったひとりの相手に。
「――ごめんね、なんだか。どうしても聞いてほしかったんだ、君に」
ここで出会うことが出来た、かけがえのない大切な『友だち』が君だから。
胸の奥にそうっと飲み込んだ答えは、あたたかな波紋を音も立てずに静かに広げていく。
「……光栄だよって、そう言ってもいいの? ほら、言葉って使いようが難しいでしょう」
「ありがとう、僕にはもったいないくらいだよ」
やわらかにほほえみかけるようにしながら答えれば、胸の奥でわだかまった想いはたちまちに音も立てずにほどかれていく。
「はがきも送ってくれたんだ。約束してくれたとおりにね。見てほしくって、よかったら」
「見てもいいの?」
「遠慮なくどうぞ、なにも書かれていないものだしね」
答えながら、遠い海辺の町の夕暮れ時を捉えた印画紙をそうっと手渡す。
「きれいだね、すごく」
「この町だってじゅうぶん負けてはないよ」
「それならいいんだけれど」
遠慮がちに笑う表情に、ほかの何よりも、ただ静かに赦されているかのような心地を味わう。
「それで思い出したんだ。そういえば、ぜんぜん写真を撮ってなかったんだよなって。これから毎日あたりまえみたいに目に焼き付けていくものになるんだから、残さなきゃなんてことすら思わなかったのかもね」
刻一刻と移り変わるそれは、いつだって二度と見られなくなるものであることには変わりはないのに。
「――思い出すために?」
かすかに震えた声で告げられる言葉を前に、にっこりとおだやかに笑いかけるようにしながら僕は答える。
「それもあるけれど、知ってもらうためもあるのかなって。こんなにも美しくて優しい場所があるんだよっていうことをほかのだれかにも教えてあげることが出来れば、僕が受け取ることが出来た宝物が僕だけのものじゃなくなるから」
「……君らしいや、すごく」
「ありがとう」
ぬくもりだけを閉じこめたような言葉をそっと受け取りながら、天窓から静かに降り注ぐ光をぼうっと見上げる。
『見晴らしのいい丘の上に、僕の勤める教会があります。手入れの行き届いた広々とした庭はすっかり町の人たちの憩いの場として知られていて、待ち合わせをするかわいらしい恋人たちの姿をしばしば見かけることもあるほどです。
果たして僕がどうなのかと言うと―それはいまのところはないしょにさせてください。お会い出来た時にでもお話させてもらうつもりです。
季節ごとに花々の咲き誇る庭のすぐ裏には、緑の草の生い茂る豊かな草原が広がっています。
お天気に恵まれたその日には手綱を離してもらい、おてんばな妹ともに草原の中を思いっきり駆け回り、みずみずしい緑とお日様のにおいをおなかいっぱいに吸い込むことを、僕は何よりも楽しみにしています。』
ああしまった、これじゃあいけない。打ち出された文面を前に、ダレンは思わずくぅうと力ないうなり声をあげる。それもそのはずだ、彼の文通相手の『ダレン・メイフィールド』は二十七歳の落ち着き払った物腰もおだやかな青年のはずだ。三歳の妹とともに草原を走り回るだなんてありえない。そもそも、大の大人が首輪をはめられているだなんて、ファッションだと言い張るにはこんな田舎町では斬新すぎる。
お父さんお母さん、そして神様ほんとうにごめんなさい。僕はまたこうして限りある資源を無駄使いしてしまいました。ばつが悪い気持ちになりながらくしゃくしゃと頭をかき、慌てて『ダレン・メイフィールド』らしい手紙の文面を書き直していく。
『下宿先の牧師一家に今年で三つになる愛くるしいお嬢さんがいるのだとお話したことを、君はおぼえてくれているでしょうか?
僕がこの家にお世話になりはじめたばかりのころにはまだよちよち歩きだった彼女もいまではすっかりおしゃまなお嬢さんにすくすくと成長し、僕たちはまるでほんものの兄妹のように仲むつまじく過ごしています。
お天気のよい日には僕たちは手を繋いで散歩に行き、おてんばな彼女はいつもちょうちょや虫を追いかけては走り回り、おひさまの光をめいっぱい浴びながらはしゃいでいます。
僕はしばしば彼女のかくれんぼにつき合わされ、すっかり隠れることがじょうずになりました。
とは言え、おちびさんとのかくれんぼにはふたつのこつが必要です。
ひとつめは、かわいらしいその姿が隠れきれずにぴょこんとはみ出していても、見つからなかったふりをしてあげること。
そしてふたつめは、はじまってすぐには見つからないけれど、おちびさんが飽きてしまわない程度にすこしだけ見つけやすい場所をうまく選んで隠れてあげることです。』
うん、これなら正解だ。あながち嘘ばかりをついているわけではないんだから。
文面の中から浮かび上がる『二十七歳の牧師見習いの青年』の姿を前に、ダレンは満足げに笑みを浮かべる。
ゆっくりと静かにとじた瞼の裏に浮かぶのは、自らが作り上げた牧師見習いの青年、ダレン・メイフィールドのその姿だ。
すこしうねりのあるやわらかな黒い髪の毛、琥珀の色の瞳、首にはお気に入りのスカーフとぴかぴか光るブローチ――こればっかりははずせない、大好きなおばあちゃんにプレゼントしてもらった宝物だから。
衣服はきっとお父さんが普段着ているようなものに違いない。洗い晒しでぱりっとのりのきいた白いシャツに黒いスラックス、よく手入れした黒い革靴。
……ほんとうにそうなれたのなら、どれだけよかったろうか。最初に嘘をついたのは自分のほうだけれど、それにしたって。ふかぶかとためいきを吐き出すようにしながら、万年筆もうまく持てない毛むくじゃらの掌をぼうっと眺める。
もし自分が犬ではなくって、ほんとうに人間の男の子に生まれていたら―きっと、いまの姿のままでは叶わなかったことだってたくさん叶えられたはずだ。
姿を隠さなくたってみんなともっとたくさん話を出来たはずだし、お父さんの仕事だってもっとたくさん手伝えたはずだ。家のことだってもっと手伝える―この不器用な四つ足では、せいぜい新聞や手紙を運ぶことくらいが精一杯だから。
かわいい妹のマディに勉強を教えてあげることだって出来ただろうし、家族の誰かに付き添ってもらわなくたってうんと遠い町へ旅に出ることだって出来る。遠い町に住んでいる『ともだち』にだって、きっとこちらから悠々と会いにいけたはずだ。
ほんとうは呆れているんじゃないだろうか。目は見えるし声も聞こえる、手足も自由に動かせる、どこを取っても不自由なんてないそのはずなのに、言葉の裏に閉じこもって「会いに行くね」だなんてすこしも言い出そうとしないひきょうもののペンフレンドのことなんて。
途端に駆られる不安を前に、ぶんぶんと乱暴に身を震わせ、大きなため息をこぼすことでどうにかやり過ごすのに必死になる。
ねえ神様、どうしてあなたは僕にこんな力をくれたんですか?
頭をもたげるような嘆きを抱えたまま、ダレンはただ、力なくぐったりと手をとめる。
正直に打ち明ければいい、ただそれだけなのに。そんなかんたんなことが、こんなにもいまは苦しい。
はた、とタイピングの手を止めると、思わず物語の中で息をする彼が乗り移ったかのように、力ないため息がかすかにこぼれる。
物語に気持ちを引きずられているのか、気持ちに引きずられるようにしてこんな風に物語が吐き出されていくのか、果たしてどちらなのだろうか。くすぶった憂いをすこしでもかき消せるようにと、すこしぬるくなったコーヒーにそうっと口をつけながら、ひとしきり物思いにふける。
物語がこの先に歩む道はあらかたは決まっている。
ダレンの住む町からほど近い田舎町に住む叔父の家にしばらく滞在することになったという彼はある日、叔父に連れられてダレンの住む教会を訪れることになる。
こちらで見習いの仕事に就いているダレン・メイフィールドさんと約束をしていたのですが、お通ししていただくことは出来ますか?
問いかけを前に、牧師は彼が職務に励む告解室へと大切な友人を案内する。
こんにちは、はじめまして。
はじめまして、遠いところをはるばるようこそ。
いま僕にはあなたの声だけが聞こえています。いつもここでこうやって、いろんな人たちの悩みを聞いてあげることを仕事にしているんです。不思議ですよね、姿が見えないというただそれだけで、なぜだかさまざまなものから解き放たれたみたいに、みんな軽やかに自分の中にある気持ちを手渡してくれるんです。
それなら僕にははじめから相手の姿が見えないんだけれど、その分だけいくらだって自由に気持ちを言葉に出来るってことなのかな?
顔や姿が見えない、というのは手紙でも同じですね。僕がこんなにもやすやすと自分の中に眠っていた気持ちを打ち明けたくなってしまったのは、お互いに顔が見えないからだったのかもしれません。
僕はよい聞き手だった?
ああ、そりゃあもうじゅうぶんすぎるほどに。
ねえダレン、ところでお願いがあるんだけれど。
なんでしょうか?
思わず身をかたくこわばらせるダレンを前に、ついたて越しの優しい声はささやくように答える。
せっかくこうして会えたんだから、大切な友だちと握手をさせてはもらえませんか?
はじめは言葉だけ、その次に声をかわしあうことを得た彼は、『触れる』ことを求める。
『見る』ことを奪われた世界に住む彼が、自らを取り巻く世界を知る手段になるのがそれだからだ。
姿さえ見せなければこちらを知られることはない――とうの昔に手に入れた、とっておきの手段がそれだった。
まさかついたての向こう側で話を聞いてくれる相手が教会で飼われている犬だなんてこと、誰かが冗談で言い出したって、本気にする人なんて誰もいない。姿を見せない――その条件さえ守られていれば、ひそやかな秘密は守られたまま、『謎の青年』は彼らの想像の中にしか存在し得ないものとして生き続けることが出来る、そのはずだった。
それでも手をのばせば、触れて確かめれば―あっけないほどに、『秘密』はつまびらかにされてしまう。
君に出会えてよかった、ほんとうにありがとう。僕だってずっと、君に触れてみたかった。もし僕の正体を知ってしまえば、君がどんな風に思うのかがずっと怖くて言えなかった―こんな卑怯な僕を、それでも君は『ともだち』だとそう思ってくれる?
幾重にも絡まった迷いをふりほどくように、ダレンはすっとその場を立ち上がる。静寂の時の中で、古びた木製の椅子がたてる鈍い音がかすかに響く。
「ごめんなさい、すこしだけ待ってくれますか? すぐに行きます、君のところに」
きつく閉じた瞼の裏に浮かび上がるのは、ついに果たされることとなったダレンと彼の大切な友人との邂逅のその時だ。
二十歳をすこし過ぎたところのおだやかなたたずまいを漂わせた盲目の青年と、首に巻き付けたスカーフが目印の優しい瞳をした黒い犬。一見飼い主と従順なペットにしか見えない彼らふたりが遠く隔たれた場所でそれぞれに日々を過ごしながら、いつしか心を通わせ会う親友になれたのだということは、彼ら自身が何よりも知っていることだ。
彼はきっと心の底から驚くだろう―物語の中でしか起こりえないようなこと―言葉を話し、書き綴ることの出来る犬が、大切な友だちの正体だったのだというのだから。
それでもきっと、拒絶などするはずもない。
ひどく驚いて、光を宿さなくなった瞳をまあるくして――そして、とびっきり優しい掌でふわふわの豊かな彼の毛並みに触れながら言うのだ。
「ほんとうにびっくりした、こんな不思議なことがあるんだね。きっとはじめから話してくれていたって、こうして会えるまで信じられるはずなんてなかった―よかったほんとうに、ほんとうにうれしい。きょうはとびっきりの記念日だ。僕の親友はこんなにもとびっきりきれいなふわふわの毛皮の美しい身体と優しい声の、不思議な力の持ち主だったんだね。なんてすてきなんだろう」
迷いや不安はたちまちにほどけ、心からの安堵と幸福感が彼を包む。
―だってこれは、何よりも僕自身のために生み出したおとぎ話で、お話の結末はハッピーエンドであればいいと、僕が誰よりもそう願ったからだ。
彼らがほんとうの意味で親友になり、心を通わせたその後、ダレンの家族だけが知っていたはずの『秘密』は彼の親友や、親愛なるその家族のごく一部の人々にもあかされることとなる。
牧師一家のあいだだけで守られていたひそやかな秘密はそんな風にしてほんのすこしだけ外に向けて開かれ、彼らの手の中で大切に守られながらこれからもおだやかな日々が続いていくことが示唆されながら、物語はいったんの幕をおろすことになる。
語り部としての僕の果たせる役割は、せいぜいそこで終わりだからだ。
たとえ『お話』の幕がおろされたとしても、彼らの、そしてそれを受け取った僕たちの人生は幕の外側で変わらずに続いていく。
――問題は、その一部始終を語り終えた僕の選ぶ道筋がどんな風に続いていくのかだ。
もう一度思い起こすことが出来ればと思った――心の片隅にいつしか顔を覗かせてくれた大切な友だちの聞かせてくれたとっておきの想いに耳を傾け、夢中で物語を紡ぐ時に感じたあの胸の高鳴りを。
顔の見えない『どこかに居るはずのない誰か』ではない、もっと身近な、うれしそうにこちらの拙い言葉に耳を傾けてはとびっきりの笑顔を返してくれる相手の喜ぶ顔を思い描きながら物語を綴る喜びを。
いつしか心のかさはすり減り、あたりまえだと感じていたはずの、いつも心の奥底に携えていた気持ちを見失いかけていた。ただ流されるままに息をし、手を動かしていることに気づいたこと―ここへと来ることを決めたすべてのきっかけはそれだった。
自らの意志で選んだはずの日常を投げ捨てなければそんなことすら叶えられないだなんて、ひどく子どもじみて馬鹿げているのは百も承知だ。
それでも、そうしなければ見ることの出来なかった景色が、知ることの出来なかった感情がいくつもあった―そのすべてが、こんな風にぶざまに足がすくんで立ち止まるままでしかいられなかった自分を奮い立たせてくれた。前に進ませてくれた。
その先で見つけることの出来た新しい景色―きっとあともうすこしで、そのゴールにたどり着ける、そのはずなのに。
――ねえ、君はどうしたいの?
りんと輝くようなまなざしをむけながら、優しい瞳をした黒い犬は僕へと語りかける。
(言葉を形にして届けていきたいんだ。かつての僕や彼のような誰かに。きっとどこかにいるはずの、たやすく手放すことの出来ないような不安や痛みを抱えながら、それでも前に進もうとしている人たちにむけて。)
――それはここでは出来ないことなの?
(わからないんだ、ほんとうにここに居続けてもいいのか。まだなにかを探し続けている途中だからって、そう言えるあいだならきっとそんな風に思わないで済んだ気がするのにね。)
――そんなにも大切なもの? ここに来る前の暮らしは。
(すべてが大切なものだよ。だから怖いんだ。気晴らしや慰めになればいい、ただそんな風にしか思っていなかった。戻ろうと思えばいつだって戻れるから、そのつもりだったんだ。)
――会いたい人がいるんだね。
(ここにも、ここじゃない場所にもたくさんね。)
――その中にはきっと、君が書き続けることを選ばなければこれから先会えなくなってしまう人がたくさんいるんだろうね。
(そうだね、きっと。)
――いったいどんな気持ち? それは。
(とてもうれしくて、すこしばかり責任重大で。でも、とっても誇らしいことだと思うよ。)
――ごめんね、君を追いつめてはいなかった?
(気にしないで、どうもありがとう。)
うっとりと瞼を細めてくれる姿を思い描きながら、まぼろしの黒い犬のやわらかな毛並みをそうっと撫でる夢想にほんのひとときだけふける。ぱちぱち、とゆっくりのまばたきを繰り返したのち、目の前に広がるのはすっかり見慣れてしまった仮住まいのつもりの部屋の風景だ。
備え付けられていたこっくりと深い焦げ茶のデスクには執筆用のパソコンと筆記具の一式、乱暴に書き連ねたアイデアノートと、封を切った後も散らばったままのいくつかの書類たち。
デスクの前の壁には、乱雑にいくつかのポストカードが貼られている。曇天の大海原の上で力強く翼を広げた姿の鳥が夏の青空を内包した不可思議な絵画の下には、遠い異国の海辺の町が茜色の夕日に染め上げられていく光景が切り取られた絵葉書。
――大切な人が、僕に見せたいと持ち帰ってくれた風景だ。
見せてあげられたらと思うものが僕にもいつの間にか出来ていた。それはきっと、「彼」だけではない。これから先、出会えるのかもしれないたくさんの人たちに。
――そのためにするべきことだなんて、たったひとつしかないに決まっている。
すこしだけぬるくなったコーヒーにそうっと口をつけ、ゆっくりと飲み込む。
(ありがとう、もうすこしだけつき合ってくれるよね?)
誓いをそっと胸に抱きながら、すこしだけ震えた指先を、キーボードへと導く。
……描きたいとそう心から望んだことは、まだ終わってはいない。
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