貴様たる証
叩き付ける飛沫の音。耳に流れる潮騒。
ここは、
「やっと起きたか、ピーター」
「ピー……ター?」
「珍しく海を漂ってると思えば、記憶も無くしたか。なら、これも忘れたか?」
朧げな視界に、ふと、鋭く湾曲した何かが写る。
鋭利な先端、ギラリと鈍く明滅。
馴染みがある。
フックだ。
「そう、フックだ。しかしここには本来右手があった。貴様が切り落とした右手がね」
切り落とした?
何を言ってるんだ、俺は……。
そこで、初めて誰と話してるのかを理解した。
「やっと目覚めたって顔だな、ピーターパン」
貴族。最初はそう思ったが、背後にゆらゆらと揺れる特徴的な旗が彼の印象を逆転させ告げた。
海賊。
つばの広い帽子。落ち着いた青い瞳。ゆったりとしたコート。ブーツは曇りがないほど磨かれていて、そして、腰に細身の剣を携えていた。
荒くれた雰囲気を身なりの良い服装で緩和したような、しかし、確かな気品を漂わせる佇まいの男が、威圧的な態度で自分を見下ろしていた。
「貴様も自殺しようとするのだな。それとも泳ぎの練習でもしていたか?」
周りから、男とは対象的に動物園を彷彿とさせるような下品な笑い声がわっと沸き起こった。
男が右手のフックを上げると、それが合図だったかのようにピタリと止む。
ここはどこだ。
両手両足が縛られているのか、身動きが上手く取れない。
首を回すと、
海があった。
右にも、左にも。
「どうした? 本当に記憶を無くしたか? それとも新しいお遊びか」
意識がだんだんと明確になるにつれ、ゆっくりと揺れていることに気付く。
ここは、船の上だ。
「まあいい。貴様に記憶があろうと無かろうと私の知ったことじゃない。野郎ども!! ピーターパンの命乞いを見たくないか!」
姿が見えない海賊達が催促するように雄叫びを上げる。
その声に驚き瞬きすると、いつの間にか場所が変わっていた。
「さあ。ここに立て。おっと、後退するなよ。すれば私の剣がお前の足を抉る」
金属の擦れる音が背後から発せられる。どうやら下がる選択肢は無いようだ。
恐る恐る進む。飛び込み台、と比べれば嘆いたくなるような耐久の薄い板の上を、ゆっくりと確かめるような足運びで付けられた重りと共に歩んだ。
ドンッ! 後ろから激しい音が鳴る。
「おい! これは貴様の舞台なんだ。命乞いをしろ! でなければ俺の恨みが晴れん!」
そんなの知るかよ……。
慎重に板の道を進む。この先は海で、沈んだら助かる余地も無いのに、不思議と恐怖が湧いてこない。
何故だろう。何百回も見た映画のように、この先の展開について心が微動だにしない。
理論で紐解いた自然現象のように、全てが分かっているような陳腐な気持ち。
助かる。ロストボーイ達がこの船にいて、誰かが救い上げてくれる。
このあとフックと戦って、ウェンディを助け、フック船長はワニに喰われる。
そんな舞台裏事情地味た
早かろうと、遅かろうと、絶好のタイミングでフック船長の思惑は進まない。
永遠に。
板を歩む、予定通りのハッピーエンドに向けて。
「……え?」
海面に何か映った。人魚か? 最初そう思ったがそうじゃない。
薄暗い。散らかってる。
誰かいる。笑ってるのと、誰かを庇ってる女の子。
女の子は膝立ちで男の子に寄って、何かを言い続けてる。
体調でも悪いのか、女の子は床に手を着いた。
でも、何故だが女の子は男の子を見上げて、必死そうに何か言ってる。
男の子は膝から崩れた人形みたいにその場でじっとして、ずっと空を眺めている。
夜空でも見てるんだろうか。
「……違う」
天井だ。
体育館の無骨な天井。
もちづき、くん。
「え」
さざ波に混じって声がした。
何だかとても安心する、声。
まもるから、わた、しがっ。
「……」
海面に映し出された少女が、死角から出てきた狼に火の玉をぶつけた。
見れば、少女の奥にうつ伏せでにじり寄ってくる狼がずらりといる。
少女が、だらりと垂れた男の子の手に触れた。
わたし、がまもる、から、ぜっ、たい、に……!
ギュッと、その手を強く握る。
「なんで……」
左手が暖かい。
ただ暖かいんじゃない。たまに感じる心地良い痛みに、心の底から感謝したくなるような想いが、流れ込んでくる。
「なんで、なんでそんなに必死に俺を守るんだよッ!」
いつもそうだ。助けてもらったあの日から、必要以上に助けてくれた。
護衛までしてくれて、いつも学校での様子を気にかけてくれて、知らないところで危険な目にあって、でも、いつも、助けてほしい時に手を差し伸ばしてくれた。
「もういいよ! 俺のことなんて放っといて逃げてくれよ!」
お願いだから!
さざ波から声はするのに、俺の声は届かないのか。
握られた手の暖かみは一層増して、映像に写る少女の苦悶な表情が徐々に深くなっていく。
「本当に、もういいよ……もういいからさ! いい加減離れてくれよ! 俺は! 俺は……、これ以上、傷付くところを見たくないんだ」
板の上に、斑点の模様があった。
どんどん増えてく。気付いた。
俺の涙だ。
俺は、泣いていた。
泣いてるんだ、俺は。
「ピーター、やれば出来るじゃないか。この手の恨みには足りないが満足だ」
「黙れ! それに俺は――」
「ピーターパンじゃない、か?」
手にしていた剣を鞘に戻し、フックがこちらへ左手を伸ばす。
甲板の上に放り投げられた。
「最初から気付いてたさ。そもそも、宿敵が目の前で命を散らそうって時に助ける訳がないだろ。こんなでかいガキ、この島にはいないからな」
その辺にあった樽に座ると、フックが「それで」と続けた。
「貴様は何がしたいんだ?」
「何って、助けたいんだ、あの子を」
「ウェンディか?」
「違う。いや、ウェンディもだけど、彼女、彼女だよ……あれ?」
名前が出てこない。
「何故私が貴様をピーターパンと呼んだか、分かるか? 貴様がピーターパンだからだ」
「だから違うって」
「いや、間違いなく貴様はピーターパンだ。それを貴様が認めてる」
認めてる?
どういうことだ。
疑問を感じ取ったのか、フックが鉤の腕を高々と上げる。
「私がフックなのは、この腕のせいだ。貴様との因縁は貴様に腕を切り落とされたあの日から始まり、同時に、フック船長が生まれた日でもある。だが、貴様は特別だ」
差し向けられた鉤に目を張った。
「貴様はピーターを認めた。ピーターの姿に自分を重ねた。だから、貴様が薄まった」
「それの、何が悪いんですか? 自分を重ねちゃだめだったって言うんですか」
「そうは言ってない。誰かに自分を重ねるなんて誰でもやる、私でもやる。だが、お前は――」
認めただけだ。
「認めた、だけ」
「そうだ」
フックは丈夫な縄に鉤と足を引っ掛け、海を眺める。
「貴様は過去を受け入れた。ピーターで上書きされた過去をな。でも、それだけなら何も変わらない。貴様は持ってるか、前に進むための、貴様が貴様たる証を」
「証……」
そんなの、分からない。
今まで大変な目に巻き込まれてきたけど、どれも誰かが助けてくれた。
狼に襲われたあの時だって、差し伸ばした手をピーターが取ってくれたからどうにかなった。
今だって、この手を強く包む少女の鼓動が伝わってくるばかりで、何も出来ない。
「……」
「……ふん」
手と足が突然自由になった。フックを見る。片手で帽子を抑えながら遠く海を眺めていた。
「せめて、友の死ぐらいは眺めさせてやる」
甲板に足を下ろし、階段を上り去った。
「友の死」
ふらふらと柵から半身を乗り出す。
海面に映る少女は、今も戦っていた。
きっと目を覚ますのを待っている。だから、襲いかかる狼を何匹倒そうと瞳の奥に灯る火が消えないんだ。
「あなたは死ぬんですか、俺を守って。守った末に死ぬんですか。そんなの、そんなのってッ!」
耐えきれない想いが、身体を動かした。
階段目掛けて駆け出した。登り切るとフックが驚いた顔をして舵を握っている。
「どけッ!」
フックは体当たりを受けて転んだ。
舵を握る。
「おい! 貴様に舵取りなんて許してないぞ!」
「行くんだ! 絶対に!」
「おい、どけえ!」
「嫌だ! 絶対に辿り着くまで、離すもんかッ!!」
フックが鉤を振り下ろす刹那、ポケットからそれは飛び出した。
「なんだっ!?」
「これはっ」
骸骨の指輪だった。
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