チャチャチャ
「葵ちゃん、社交ダンスって興味あったりしない?」
突然、祥子先生が私に聞いてきた。
「えっ?」
ここは、ボーカルレッスンの小部屋。私は気まぐれに、何か新しいことを始めようと選んだボーカルレッスン。
練習曲は、人気歌手などの曲ではなく、クラシカルな歌を練習することにした。
新しいことをするなら、それに相応しく、新しいジャンルに飛び込みたいと思ったから。
「私、ずっと前に少し私やってたんだけど、他の生徒さんから先生を紹介されてね?また始めてみたの~」と、祥子先生は続ける。
「ずっと前から興味はあったんだけど……社交ダンスの教室って、敷居が高い気がしたというか……」と、正直に答える。
「じゃあ、お試しでもやってみない?すぐ近くにホールがあるでしょう?そこで個人レッスンできるから」
「うん、やってみたい!」
本当はずっと憧れてたのよね。特にラテン。ボーッと色々な動画を眺めていた時に見つけた、パソドブレに頬を叩かれた感覚。
ジャイブのハイテンションさに目を奪われて。チャチャチャは歯切れのいい動き。
ラテン種目は、パワフルでとても魅力的!
ようは、私は「明るく元気な」ダンスが好きってこと。ルンバは……ちょっと、今は避けたい。
何せ、ただ憧れていただけで。家のほんの近くに、昔からお教室はあったのに、ずっと何年も看板眺めてただけだった。
新しいことを始めたら、新しいことを始める機会が舞い込んだ!この波に乗って、もっと自分を満足させたかった。物足りない毎日を、変えたかった。
私は、いつも何かに餓えているような日々だから。
ダンスの先生は、細川先生。若いとは思わなかったけど、年齢が全く検討もつかない。
一体おいくつなのかしら……でも、年齢を聞いたところで、さほど興味もなかったし。
「両手を出してみてくれる?」と言うから、素直に両手を差し出す。それを、細川先生は、私の手のひらに自分の手のひらを乗せて、少しの沈黙。
先生は口を開く。「うん、大体わかったよ」
これは何のためにしたことなのか、何がわかったのか聞いてみたいとも思ったけれど、すぐにレッスンが始まる。
「まずは、踊りやすいチャチャチャから。ステップはルンバに共通していたりするよ。」
「……細川先生……私、ルンバ、あまり好きじゃないかも……」というか、今はやりたくないと心のなかで付け加える。
「大丈夫、まずは楽しむことから始めよう!」
……この先生、好きかも。恋愛的な意味じゃなくて。先生として、信頼できる。そんな気がした。
ゆっくり個人レッスンを受ける人や、大会のためになのか真剣に練習するペア。ホールに流れるのは色々な曲が絶え間なく流れる。
へぇ、色んな練習ができるようになっているのね。
「ワン、ツー、チャチャチャ」細川先生の、分かりやすくしてくれた言葉のカウントに合わせて、動いてみる。ぎこちないけど、なんとかやりきる。
でも、細川先生は笑顔で無茶振り!
「ワン、ツー、チャチャチャ、チャチャチャ、チャチャチャ!」
え!?なにそれ!?
「チャチャチャのところで僕を見ながら下がって、次のチャチャチャで後ろを向いてね進んでね、そしたら最後のチャチャチャでもう一度僕を見て下がってね」
もはや頭では理解できない。動くしかない。
ホールの曲が、チャチャチャになった!
「今のを曲に合わせてみよう!」
えぇー!今一回やってみただけなのに!と驚くものの、何故か「嫌だ!」という気持ちが全くなく、曲に合わせてリズムに合わせて、ステップを踏んでみる。
できた……私、できた!それが、初歩の初歩に習う簡単なステップなのだとしても、一つの課題を、クリアしたんだ!嬉しい……小さな達成感……成功体験。
私は知ってる。成功体験を重ねに重ね、自己実現に辿り着けるということ。嬉しい!
「葵さん、足元はね、つま先からつけるんだよ?ガツガツ足音たてないでね?」
ほ、細川先生……なんと無慈悲な……いや、必要です、必要ですよ、その基本知識は。
でも……もう少し別のタイミングで伝えてくださいよ……なんなら、先に言ってくださいよ……
成功体験の喜びは、大幅ダウン……
でも。やる気を無くした訳じゃない。
一年前、彼氏と別れた。十年付き合ったのに。だから、きっと結婚するんだって、私は思ってたのに。
青天の霹靂。崖から人生のどん底に突き落とされ、落ちる衝撃に自分を守る術もなく、惨めも惨め無惨な姿で、私はうなだれる。
一年経っても、傷が癒える気配が全くない。誰かに、好きな人に愛されたい、承認欲求の塊だった。
だけど、誰でもいいから愛して!というわけではない。そして、新しいことで心を少しでも満たそうと、無理に自分で自分の背中を押した。
でも、そんな動機で始めた社交ダンスは、ボーカルレッスンよりも夢中になってしまった。
足元を軽快に動かしながら、素早くターンした際によろけないように身体に芯を通して、腕は指先まで美しく。常につま先から床に足をつける。
だけど、テンポが早めのチャチャチャには、ゆっくり足をつけている暇もない。リズムに乗って夢中でステップを踏み。ポーズは素早くストップ。
少しでも何かを怠れば、鏡の中の自分は、みっともない現実を突き付ける。
そんな自分は見たくはない。これ以上みっともなくボロボロな惨めな自分は見たくない。
♪
今日も私はチャチャチャを細川先生と踊る。
もうキチンとつま先から床に足を自然と着けることができるから、ベーシックムーブメントをしっかりと軽快に。アンダーアームターンもスポットターンも、よろけたりしない。
ニューヨークだって、ただ腕を広げるだけじゃなくて、綺麗に腕を伸ばして一瞬のポーズを決められる。ヒップツイストでキュキュッと腰を動かせば、短いスカートの裾がひらひらっと揺れる。
もう、何もかもがボロボロで動くこともできない、惨めな自分はいない。
練習を終えたけど、急いで帰るような用事もないから、壁沿いに並べられた椅子にゆったり座って、ホールを見渡す。
やっぱり、いいな。なんか。
皆、笑顔なのね。穏やかな笑顔、優しい笑顔、楽しい笑顔、晴れやかな笑顔。私の語彙力では表現しきれない、皆の表情。
隣の椅子に、誰か座った気配。
思わず、服が邪魔になってないかしらと隣を見たら、男性と目が合ってしまって。
「あ、すみません」
ジロジロ見てはいないし、何も悪いことなどしていないのに、「すみません」って、挨拶みたいな言葉が第一声に出るって変ね。
「あ、いえいえ!今日はもうレッスン終わりなんですか?」と、隣の男性がそう言うので。
「はい。終わって、皆さんのダンスを眺めていただけです」
「僕もよくここで練習していて、あなたがレッスンを受けていた様子をよく見ていたんです。あ、ジロジロ変な目で見てたわけではないです!」
ちょっと慌ててる、少し顔を赤くして誤解しないでという様子。かわいい人だな。
確かに同じ曜日の同じ時間にホールにいる人は大体同じだから、私も眺めている人たちはいつも同じような顔ぶれだった。
「もしお時間ありましたら、これから食事でもどうですか?ダンスについて語れる友人少なくて」
「はい是非!私もダンスについて語れる友達なんていなくて。嬉しいです。お腹空きましたし」
二人でホールを出て、近くの個室居酒屋へ。
出会いは突然、前触れもなく。突然でなかったとしても止まった歯車が、急に動き出す。
ひとしきりダンスの話をして、彼が座り直して私を直視。
「前から気になってました!僕と付き合ってください!それで、ダンスパートナーになってください!」
私は、今26歳。彼は、今23歳。
私の方が先輩だけど、ダンス歴は彼の方が先輩。
良いバランスかもしれない。
青天の霹靂。崖から突き落とされる。
私は、恋に落ちる。身体は傷ひとつなく、心は喜びで溢れる。
「はい!私でよければ喜んで!」
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