雨のち曇りとぬるい風


 その日は夜じゅう雨が降り続き、朝になると小雨ではあるものの、まだ止む気配はない。

私はいつもの折り畳み傘だけでなく普通の傘も手に取った。ローファーに詰めた新聞紙は力を発揮せず、靴の中は湿ったままだ。私は仕方なく靴箱からスニーカーを取り出す。いつのものか中には小石が入りこんでいて、ひっくり返すと待ってましたとばかりに小石が飛び出してきた。私はその小石の行く先を見つめながら、


「今日から夏休みなのになあ。」


と呟く。夏休み初日。だが今日は全員参加の英語の補習がしっかりと入っていた。夏休みだからと言ってすぐに遊びまわることなどできやしないのだ。私は雨雲が一つ増えてしまいそうなくらい大きなため息をつき、小さなハエの羽音くらいの大きさで


「いってきます。」


と家を出た。


 いつも希と合流するお豆腐屋さんの前に立つ。ここのお豆腐屋さんでは豆腐だけでなく、コップ一杯のお手製の豆乳を五十円とかで売っていて、小学生の頃は学校帰りに毎日のように飲んでいた。それくらいここの豆乳のファンだったのだ。だが最近は私が学校に行っている時間帯にしか営業しておらず、その味を忘れてきてしまっているのを少し寂しく感じる。

 

 閉まったシャッターにはA4サイズの紙が一枚貼られていて、夏休みの営業時間が書かれているのではないかと期待した私は、すぐさまそこに駆け寄る。だが予想外の内容に私はがっくりと肩を落とした。


「閉店のお知らせ。」


うなだれていると、携帯の着信音がけたたましく鳴った。希だ。もしかして、と思い私は急いで画面を開く。


少し不安だったのだ。昨日自分が傘に入ったせいで希が風邪を引いてしまったのではないかと思っていた。結構な雨だったのに私が傘を出すのをめんどくさがったから・・・

だがその心配はすぐに余計なものとなった。


「ごめん寝坊した! まあでも仕方ない。夏休みだし!」


夏休みだし! と書かれた部分を一瞥し、私は長いため息をついた。


そう、今日から夏休みなのだ。


 仕方なく一人で学校まで向かう。昨日の公園に差し掛かかると、なんと朝から小寺くんが池の周りでしゃがみこんでいる。昨日のこともあるしと気になった私は、少し寄り道することにした。


「小寺くん。朝からなにしてるの。」


「だめなんだよ。」


「何が?」


「青いザリガニ。」


「ああ、昨日の。小寺くん持って帰ってたよね。」


「青くなるってことは栄養不足ってことなんだ。本来摂取すべきものを体に取り込めてないから青色になる。誰が何を思ってあんなことをしたのかは知らんが、ザリガニにとってはいい迷惑なんだよ。青くするなら責任をもって元に戻すまでやらないと。」


そう言って小寺くんは、池に向かって煮干しのようなものをバラまいている。ザリガニの本来の餌をまいているのだろうと思う。


「この餌をまけば元に戻るんだ。」


小寺くんは無言でうなずく。


「この中にまだ青いザリガニいるのかな。」


「可能性は低い。池の中に直接青くなる餌を入れても、ザリガニは自分で正しい餌を選んで食べるだろうし。けど万が一のことがあるからな。今日学校帰り、また釣りに来よう。」

 

 結論から言うと、小寺くんの望みは叶うことはなかった。昨日の委員会をサボったことが沙原峰猿にバレていたのだ。

雑用を押し付けられ夏休み初日から運の悪い小寺くんが、沙原峰猿に聞こえるかどうかギリギリの声で


「このAIハゲ猿スピーカー。」


とハゲまで付けて呼んでいたのを、私はしっかりと聞いていた。

 

 希はというと授業開始の見事5分前には教室に着いていた。そして帰り道、自分が起きてからどれだけ素早く用意し、どれだけのスピードで学校に行ったのだと言うことを延々と語り続けていた。私は間に適当な相槌を打つものの、耳に入ってきた言葉がもう片方の耳から抜けていくのを感じていた。


 雨は止んでいた。だが、湿ったアスファルトの臭いがそこら中からするし、木の下を通るとパラパラと雫が落ちてくるし、まだ終わりそうにないなと今日で何回目かになるため息をつく。

けれどそのため息は、生ぬるい風にさらされて、なかったことにされたような気がする。


 公園にはもちろん小寺くんの姿はなかった。そういえばと私は、今朝の出来事を思い出し、希の話が終わるのを待ってからそのことを話してみる。


「小寺ってさ、変人だよね。」


私の話を聞いてから希はどうでもよさそうにそう言った。無理もない。高校生にもなって一人でザリガニ釣りをするなんて、変人としか置き換えようがない。さらに希は、


「友達いるのかな。」


とも言った。そういえば同じクラスなのに彼の交友関係を全く知らないなと思った。この子とこの子はいつも一緒にいるな。とか学校生活を送ればなんとなく見えてくるものだが、まあでも男子は女子よりもそういうのが分かりにくい気もするし、小寺くんは一人だろうが気にしないタイプな気もする。


「ていうか青いザリガニ。結局誰の仕業なんだろうね。」


「小寺くんは誰かが池の中で育てたって可能性は低いって。」


「じゃあ持って帰って青くしてからここに連れてきたってこと?もっと謎だってそれ。」


私はその通りだと相槌を打つ。


青いザリガニ。希も小寺くんもそう言うけれど、私はそうは言い切れない気がした。どちらかというとグレー寄りのような。曇り空のような色をしている気がする。


「ていうか夏休みだし、小学生がそろそろザリガニ池に集まるかもね。」


希のその言葉を聞いて、私は少し不安になった。あの状態が弱っているというのなら、小学生の手にわたってすぐに死んでしまったりしないだろうか。何しろそうなってはあの小寺くんが黙っていないだろう。


私は小学生に長々とザリガニ講座を開く小寺くんを想像する。だがそれと同時に沙原峰猿に連れられる姿も浮かび、さらに明日までにやってこいと言う相変わらず機械的な沙原峰猿の声と、英語の課題プリントがちらつく。


いまはザリガニよりもそっちが最優先だと思い希にそのことを告げると、


「この学校おかしいよ。夏休みなのに始まって一週間は補習。さらには課題も出してくるなんて。」


そう言いながら希はどこからやってきたのか可愛らしいわんこを撫でまわしていた。連れているのは大学生くらいの綺麗なお姉さんで、ビーグルとコーギーの雑種犬らしい。


「やっと雨が止んでお散歩に来れたと思ったけれど、これはまだ降りそうね。」


お姉さんはそう言うと曇った空を悲しげに見上げている。

連れられたわんこは希に撫でられながら、呑気に尻尾を振っていた。



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