聖なる獣の降臨
正直なところ、王宮に足を踏み入れるのは怖い。
先日、ヴァレリアに叩きつけられた言葉を思い返せばなおさらだ。
(……私は、大丈夫)
少なくとも、今回は一人じゃない。エドアルトが付き添ってくれているし、ルルも足元にいる。
ルルは左に右に廊下の端から端まで蛇行しながら歩いていく。遊びに来た気分なのか、ルルの尾は左右に揺れていた。
アイリーシャを奥へと案内しながら、エドアルトが問う。
「君は、困難に立ち向かうことを選ぶんだな。もし、聖なる獣と契約することができたなら、君は今以上に大変な立場に置かれることになる」
「逃げてもしかたないって思うんですよ。逃げたって何も変わらない。後回しにしたらしただけ、大変なことが増えると思うんです」
それは、嘘偽りのない本音だった。
せっかく、新しい人生を生きているのだから、何かひとつ、全力を尽くしてもいいのではないかと思うのだ。
("隠密"スキルを限界まで高めるのに、努力の大半は使い果たしたけれど)
先を行くルルが、足をとめてこちらを振り返る。ルルについて歩きながら、アイリーシャは付け足した。
「エドアルト様だって、そうでしょう?」
「守ることができなくて、後悔したことなら、ある」
考えながらエドアルトが言ったので、アイリーシャの胸がちくんとした。
彼が、誰かを守ろうとしていた。それに対して、アイリーシャが何か言えるはずもないのに。
「エドアルト様に」
そんな言葉が漏れてしまったのは、どうしてだろう。
「エドアルト様に、守ってもらえる人は幸せですね――だって、そうしたら、絶対安心じゃないですか」
「そうであればいいと思う」
その声音は堅苦しく、表情もむっとしているように見える。
それなのに、アイリーシャにはわかってしまう。彼が、今の言葉を喜んでいるということが。
「……ここだ」
王宮の一番奥。
普通なら、王族以外は立ち入りを許されない場所。アイリーシャはそこにいた。
そこは、円形の広間だった。床には、タイルで複雑な模様が描かれている。その模様はよく見れば、魔術円であった。タイルだけかと思っていたら、色のついている部分は宝石、貴石で作られているようだった。
(宝石や貴石には、魔術的な力があるっていうけれど……ここまで大掛かりなものは見たことがないかも)
対となる小さな水晶に魔力をこめ、ルルの追跡装置を作ったのはアイリーシャだ。
だが、小粒の宝石や貴石ならともかく、これだけ大掛かりな魔術的仕掛けは見たことがない。
トトト……と小走りに、ルルはその円の中央に向かう。ふわっと風が起こったような気がした。
(――これは)
その風に誘われるように、アイリーシャは一歩前に出た。
そして、もう一歩。
「アイリーシャ!」
エドアルトが声をかける。肩越しに一度彼の方を振り返ったけれど、足は止まらなかった。
風がやんだかと思うと、床の魔法円が激しい光を放つ。
あまりにもまぶしくて、思わず目を閉じた。
「……リーシャ……アイリーシャ……」
名を呼ばれ、ゆっくりと目を開く。
「――誰?」
「誰って、失礼……ルルなのに」
ルルが座っていた場所に、同じ姿勢で座っていたのは、黒く大きな犬だった。
きちんと座った姿勢だけれど、頭の位置がアイリーシャと同じくらいだ。これを犬と言っていいのだろうか。
先ほどまではチワワほどのサイズだったルルにつけていた首輪は、彼の前足にはまっている。
「だって、ルルは、こんなに大きくなかった!」
「ひどぉい!」
アイリーシャの言葉に"ルル"はぷくりと膨れる。表情が実にわかりやすい。抗議のつもりなのか、ふさふさとした尾がばんばんと床をたたいている。
「――ルルか?」
近寄ってきたエドアルトも、ルルを見てどう対応したらいいのかわからない様子だ。
「撫でる?」
「あ、いや……」
そう言えば、ルルはエドアルトに頭を撫でてもらうのが好きだった。彼が来ると、自分から手の下に頭を差し込んでいたくらいだ。
「撫でないの? 撫でないの?」
身体は大きくなったけれど、気質は子犬のままのようだ。エドアルトの前に伏せた姿勢になって、頭を撫でやすいよいうにした。
それを見て、頭を撫でないわけにはいかないと思ったらしい。手を伸ばし、そっとルルの頭を撫でている。
「いいなあ、我も撫でてほしい」
「……はい?」
懐かしい声に、また奇妙な声を上げてしまう。どこからどうやって入って来たのかなんて、この場合気にしてもしかたない。
ゆっくりとこちらに向かって歩いてきたのは、アイリーシャをこの世界に連れてきた"神"だった。
「よっ、久しぶり!」
つい数日前に別れた友人と再会したくらいの気安さで、神は右前足を上げる。ルルは大きくなったけれど、神はアイリーシャの知っている姿のまま。
「神様、あのね、あなたいったい――」
どうして、今まで姿を消していたのだろう。神様のくせに、アイリーシャに何も教えてくれないで。
「神様? これが?」
ルルにせがまれるままに撫でていたエドアルトが、こちらを振り返る。
(というか、猫がしゃべっているのに動じないあたり大物だわ……!)
アイリーシャは、素直に感心した。
「エドアルト様、気持ちはわからなくもありませんが、神様です」
「やあだって、この姿だと人間が可愛がってくれるしな」
それでいいのか、神なのに。
前世の自分がよみがえって、勢いよく突っ込みそうになったがこらえた。今、そんな場合ではないことくらいよくわかる。
「神様、今までどこで何をしていたの? 大変だったんだから!」
すっと近づいて来たのを抱き上げる。たしかに重み懐かしかった。
「あのさあ、我、こっちの世界に来るのにけっこう力を使うわけ。我の力も、無限じゃないんだよ?」
そんなことを言われても。
「神様、今、首都で人がこん睡状態になって目を覚まさないの。どうしたらいいか、知ってる?」
「うーん……まあ、できなくはないけど。先に、君とルルの契約をすませちゃおうか。話はそれからだな」
ルル、と呼ぶとルルはちょこちょこと円の中央に戻る。
「はい、そこに伏せて」
無言のまま、ぺたりと円の中央に伏せた。
「王子、君は円の外に出てね。それで、アイリーシャ、君はルルの側に」
「はい」
アイリーシャは、ルルの側に寄った。
「本来の儀式とは違うんだけど、今回いろいろイレギュラーだから。我、ちゃちゃっとやっちゃうんで、今後の参考にしないように」
手のひらを出すようにアイリーシャに命じる。素直に差し出したら、シャッと爪で手のひらを引っかかれた。赤く血がにじむ。
「あいたっ!」
「いたぁぁぁぁい」
ルルも肉球を引っかかれ、声を上げる。
「ちゃっちゃとやるって言ったでしょ、はい握手。ルル、お手!」
アイリーシャの手を下に、ルルの手を上に。手と前足が重なり合う。
(……こ、これは……?)
とくん、と胸が熱くなった。その熱は、体中を駆け巡り、どんどん温度が上がっていく。
「わ……あ……!」
ぐっと強く、ルルの方に引き寄せられた気がした。
身体を巡った熱が、頭の先から抜けていく。ぺたりとその場に座り込み、倒れこみそうになるのをルルの身体が支えてくれた。
「はい、おしまい!」
「アイリーシャ!」
円の外にいたエドアルトが、大急ぎで駆け寄ってくる。ルルの胸から、彼の腕に引き取られながら、こんな感覚を前も覚えたような気がしていた。
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