【書籍化】転生令嬢はご隠居生活を送りたい! 王太子殿下との婚約はご遠慮させていただきたく

雨宮れん

いきなり殺されかけるとか

 窓の外に漏れてくるのは、華やかなシャンデリアの光に、楽師達の奏でる音楽。談笑する人々の声も、夜風に乗って流れてくる。

ここ、アルタニア王国の王宮では、王太子エドアルトが十八の誕生日を迎えた祝いの宴が開かれているところであった。

――けれど。

そんな賑やかな会場から、夜陰に紛れるようにしてバルコニーへと逃げ出す人影がひとつ。


(……最低限の義務は果たしたし、もういいわよね)


 アイリーシャは、そっと肩にかかった髪を払った。今、まさに夜空に浮かんでいる月の色にも似た銀糸の髪が、さらりと背中に流れ落ちる。

見事な艶を持つその髪を飾るのは、瞳の色に合わせたアメジスト。

大きな目を二度瞬かせ、アイリーシャはバルコニーから庭園に降りる階段へ向かって静かに歩き始めた。

 足音一つ、ドレスの立てる衣擦れの音ひとつ聞こえない。

 シュタッドミュラー公爵家の一人娘であるアイリーシャが、王宮の宴から逃げ出そうとしている理由はただ一つ。

目立ちたくない、その一点であった。


(まったく……今回の人生でも、こんなにも人に囲まれるとは思ってもいなかったわよ……! モブキャラにしてくれって言ったはずなのにね!)


 可憐な容姿に似合わない毒舌を心の中で吐き出して、そのまま庭園へと続く階段を下りていく。

 途中ですれ違ったのは、王宮の使用人だ。けれど、アイリーシャには見向きもせず、そのまままっすぐに歩いていく。


("隠密"スキル最高……!)


 ちらりと振り返り、まったく存在に気付かれていないことを確信してから、心の中で右手を突き上げる。

 やはり、"隠密"スキルを使っていると、誰の目にも止まりにくくなるようだ。ほっとして息を吐き出す。


("聖槍の戦乙女"の世界だから、スキルが存在するのも知っていたし、がっつり修行してきたからそうそう見抜かれないとは思っていたけれど)


 実のところ、シュタッドミュラー公爵家の娘であるアイリーシャには、前世の記憶がある。

しかも、前世でもかなりのお嬢様だった。前世の名は、天花寺愛美。旧華族の流れをくむ日本国内でも有数の富豪、天花寺家の一人娘として生きていた記憶がある。

そんなお嬢様の割に、若干――いや、かなり――俗っぽいのは、高校から入学してきた外部生の親友の影響だった。

彼女のおかげで、ゲームにはまり、隠れてプレイした日々。

一度成績が急降下しかけて、慌てて家庭教師の講義の回数を増やしたもいい思い出……とは言えないにしても、ゲームを取り上げられないように頑張った。

 "聖槍の戦乙女"、それは、前世のアイリーシャが、転生先として望んだゲームだった。

 戦乙女という物騒な単語が出てくる割に、恋愛シミュレーションゲームである。

 プレイヤーは、世界を滅ぼす魔神に対抗するための戦乙女となり、戦いに身を投じる中で、様々な魅力的なキャラクターを知りあっていく。


(あとは、地味に目立たず……無事に、聖女としての役割を果たせばオッケー。三百年後の未来に期待っと……)


 ゲームの世界に転生したとはいえ、アイリーシャが今いるのは、ゲームが始まる三百年前。

この世界で義務を果たさなければ、望んだ立場につくことはできないという制約付きの転生なのだ。

その義務が、"聖女"としてこの世界を滅ぼそうとしている魔神と戦うことというのはどうかと思うが、こちらには神様がついているし、魔物を倒せるくらいの実力は身に着けた。

魔神が出てきたところでどうにかなるだろう。


(待っていてよ、モニカたん。私が、完璧に導くから……!)


にやり、と公爵家令嬢としてはありえない笑いを漏らしかけ、慌てて表情を引き締める。集中力を失ったら、"隠密"活動ができなくなってしまう。

それにしたって、"玉"に転生したつもりが、公爵家令嬢だなんてあんまりだ。前世といい、今回の人生といい、人目にさらされる立場というのは変わりないものらしい。

 だが、義務さえ果たせばあとは自由と転生させてくれた神様からもお墨付きをもらっている。

とりあえず公爵家の娘としての義務と、いずれ回ってくるであろう聖女としての義務さえ果たせばあとは自由。

ひそやかに歩き回っていたから気がつかなかった。アイリーシャの存在を察知した人間がいるということに。

 不意に背後から首に腕を回され、身体が凍り付く。背後から人が近づく気配は、まったく感じていなかった。


「なっ……な……」


 あまりのことに声が出ない。そのままぐっと後ろに倒され、気がついた時には冷たい地面が背中に触れていた。

両腕は、アイリーシャを押し倒した人間の膝に押さえつけられていて、身動きひとつできない。

恐怖のあまり、目はぎゅっと閉じたままだった。首に刃の感触が触れ、ちりっとした痛みが首に走る。


「こんなところで"隠密"を使うとは怪しいやつ。どこの間者だ?」


 耳を打つのは、低い声。

その声には聞き覚えがある。


(……王太子殿下?)


――けれど、なぜ。

今日の主役である王太子がここにいるのだろう。


「――姿を見せろ」


 首に押しつけられた刃の感触が、ますます強くなる。

どうして、なぜ。

なぜ、こんなところで、首に刃を突き付けられなければならないのだろう。


「――姿を見せられないというのなら……」


 もう少しだけ、首にあたる刃に力がこめられる。ちりっとした痛みが広がった。

アイリーシャ・シュタッドミュラー、どうやら、いきなり王族から処刑される運命が待っているらしい……。

 この世界に転生して十五年、いったいどうしてこうなった。

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