名もなき…
K.A
第1話
色褪せた記憶の中のそれと一寸も違わないように見える元町・中華街駅のホームは、平日の昼間だからかとても空いていた。
あの時はたしかこのホームの隅で待ち合わせをしたんだっけ。落ち合ったあとは…と、ホームの駅構内図からあの日歩いた道を探す。私の視線が中華街への通路を示す番号の上で止まった。
そうだ。この通路を四人で小走りに抜けたんだった。私は四人の中で一番足が遅かったから、彼女たちの背中を覚えている。学校では見られない解き放った髪の毛が大きくうねるあの後ろ姿。
図面をもう一度確認してから、他では見ることのない長さのエスカレーターに乗る。地下鉄独特の匂いを含んだ風が私の髪を揺らした。微かに潮の香りが混ざってるような気がしたが、それはさすがにこじつけだろう。
「ただいま、ヨコハマの街」
呟くと、それをかき消すように次の電車がホームに入ってくる。
大学入学後、バタバタ忙しかったのが落ち着くと同時に、ヨコハマ行きの電車に乗っていた。
大学生活は聞いていた通りに忙しかったが、聞いていたほどには楽しくなかった。だらだら退屈な日がひたすら流れるだけで、なんの意味もないように思える。いつの間にか楽しかった高校生の頃の思い出にばかり浸るようになってしまったのは、当然のことだろう。
あの頃はよかった。これから大学受験のために遊びに行けなくなるからともっともらしい理由をつけて遊びまわったあの頃が永遠であればいいのにと何度願ったかわからない。受験生の顔を貼り付けたメンバーが「受験が終わったらまた遊ぼう」と言い残して、順々に私の前に姿を表さなくなったのは、いったいいつ頃だったか。息抜きをしにひょっこり帰ってくるだろうと三人の帰りをしばらく一人で待っていたが、誰も帰ってこないまま私にもタイムリミットがきた。
なんて尻切れトンボな私の青春。
愚直に「受験が終わったら」を信じていたが、それはいつしか「大学に慣れて、落ち着いてきたら」に変わり、そしてそれは一向に訪れなかった。「大学に慣れる」のうちには新しい人間関係の構築が含まれていて、それが終了したら、私たちの友情は過去のものになる。わかっていたはずなのに、その約束に私は頷いて、ひたすら待った。友情が過去のものになってしまうなんて、私たちに限ってあり得ないと信じていた。
一番出口から出ると、すぐに中華街の大きな門が見えた。
「これなら迷わないで済むね」
「私たち方向音痴だもんね」
そう笑いあった幻が路上に立ち上がる。自分の位置を教えてくれる便利な地図アプリでさえ私たちを確実に目的地へ連れていけなかった。中華街の中で目的地にたどり着けなかったときは、観念して全員でどこかのレストランの従業員さんに聞いたような気がする。日本語が通じるか不安に思いながら、四人で手を繋いで、じゃんけんで負けた一人が「あのぅ」と切り出す。
私たちは何をするにも一緒だった。あらゆる不安にも、四人でいれば打ち勝てるような気がしていた。誰かが先生に怒られて泣けば、残りの三人で散々にその先生の悪口を言って泣き止ませた。仲間がいじめられていると知れば、私たちは加害者を徹底的に弾糾し、もし必要があればそいつと縁を切り報復さえしただろう。
私たちの友情はそれこそ山よりも高く海より深かった。結束は他のグループに類を見ないほど固く、私たちはそれが自慢だった。それが今、どこへ消えてしまったのかとても不思議だ。外に敵を作りながらも守り抜いた私たちの砦は時間が経てば消えてしまう蜃気楼でしかなかったのかと思うと、私は高校生活がどんなものだったのか思い出せなくなってくる。世界の中心は私たちだった。それがいともあっさりと瓦解してしまうとも知らずに。
思い出の幻たちが大きな門をくぐり、人ごみの中に紛れるのを見届けてから、私も歩き出す。
もうみんなは全て忘れてしまったのかな。私たちが友達だったことさえも。私がお揃いで四人分購入したキーホルダーは、もう埋立地の一部になっているのかな。きっとそうに決まっている。そうでなければ、きっと思い出が私たちを繋ぎ止めてくれたはずだ。あのひたすらに楽しくて輝かしい日々を覚えているなら、それを捨てていったいどこへ行きたいと思うのだろう。
中華街に入ると、間髪入れずに人波に揉まれた。いきなり別世界に飛ばされたかのような賑わいだ。イントネーションのおかしな日本語が左右から客を一生懸命呼び込んでいる。家族連れが多く、うっかりしていると冒険中の子どもたちを踏んでしまいそうになる。
途中何回か舌打ちされたものの、どうにか流れを横切って大通りの端に身を寄せると、私は事前にネットで見つけて印刷しておいた中華街食べ歩きマップを広げた。このマップを探し出すのには苦労した。私が求めていたのは裏路地の一本一本まで書き込まれたマップだったのに、ほとんどは大通りと有名店しか記載されていなかった。諦めて航空写真を拡大印刷するギリギリで見つかったのは幸いだった。
私が今通ったのは東門の「朝陽門」だ。私の指は中華街の最東端をなぞり、すぐに大きなマークがついているのを発見した。それから門から伸びる大通りを追う。
あの時は、この大通りをさも知っている道であるかのようにずんずん歩いて進んだ。大通りの店がどれも混んでいることに落胆しつつ、足を止めない。ついに中華街の果てにたどりついて、道端で困った顔を突きあわせたのだった。
「やっぱり有名どころはダメかぁ」
「平日だからなんとかなると思ったけど」
「さすがに甘かったみたいだね」
それから四人で自分たちの未熟さを笑って、
「横浜中華街、恐るべし!」
誰かが何か一つだけ食べたいものを食べて、中華街を出ようと提案した。私が小籠包を推したのに対し、他は女の子らしい甘くて可愛いフォルムの胡麻団子を推した。多数決であっけなく小籠包は「また次の機会にね」とあしらわれ、私たちはもう一度美味しい胡麻団子を探しにきた道を後戻りした。
そこまでは覚えている、と指がスムーズに道筋をなぞる。
「オネーサン、迷った?大丈夫?」
長い間地図と睨み合っていたからか、近くの店の従業員が私の隣にやってきて、マップを覗き込んだ。
「うわー、すごいね、これ。どこに行くの?」
突然の人懐っこい笑顔にたじろがないでもないが、せっかく心配してもらったから少し尋ねてみようと思って、マップのある地域をぐるりと指で囲んで見せた。
「この辺の裏路地の胡麻団子を売ってるお店、知ってますか?」
笑顔は怪訝そうな顔に変わり、マップではなく私の顔を見た。
「有名?」
「ううん、有名じゃないと思います。観光客がいないような細い路地の、小さなところなんです」
従業員は「わかんないね」とあっさり言い放つ。私も期待していなかったから、お礼を言って立ち去ることにした。
そこへ慌てたように声がかかる。
「オネーサン、うちにも胡麻団子あるよ。美味しいよ」
ああ、そう、この感じだ。あの頃の初心な私たちが気圧されて、怖くてたまらなかった商売熱心な中国人たち。でも、今の私の敵ではない。上手な断りかたを事前に調べておいたから。
「また後で来ます」
いつまでも追ってこられては困るので、その場を離れた私はすぐに人波に飛び込む。あとは、流されるまま進んでいく。あの頃から少しは背が伸びたと思ったのに、周りの人たちよりはどうしても小さいみたいだ。上を見るのをやめて、足元に目を落とすと、ヒールを履いた足が歩いているものだから余計悲しい。せめてあと三センチあれば、スニーカーで出歩いても恥ずかしくなかったのに。
段々と人波の密度が下がってきた。きっと主要な店を通り過ぎ、中華街の終わりに近づいているんだろう。
ここらで一度地図を確認してみよう、と私はまた通りの隅へ行ってマップを広げようとしたが、どうやらその必要がないことに気がついた。目の前にぽっかり空いている先の薄暗い路地に見覚えがあった。路地の入り口にある換気ボックスの側面に焦点を合わせれば、かつて私たちが大笑いした人気キャラクターの下品なステッカーの数々がボロボロになりながらも貼りついているのがわかった。間違いない。大通りの人混みに嫌気がさして、度胸試しだと言いながらこの路地に足を踏み入れたんだった。
「やっぱり、危なくないかな」
私が言うと、「暗いから怖いよね」と能天気な答えが返ってくる。
「そうじゃなくてさ、治安悪そうだよ」
人のいない薄暗い路地が、私には無法地帯に見えた。ここを一歩入れば、法律が私たちを守ってくれない気がした。
「大丈夫だって。心配性だなぁ」
そう言って一人が私に手を伸ばす。私は躊躇なくその手を握り、それを確認するとみんなは奥に進み始めた。自分の手が汗ばんでいるのが恥ずかしかったけど、手を離そうとは思わなかった。
「なんで怖くないの?」
前を行くあの子は答えた気がする。
「みんなと一緒だからに決まってんじゃん」
そう言われると俄然勇気が湧いてくるようで不思議だった。私に何かあれば絶対に助けてくれると確信したし、誰かが危険にさらされれば私だって自分の身を投じて助けてあげられる。
ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために。私たちのスーパーヒーローは私たちでしかあり得ない。
今は手を握ってくれる人はいないけど、と空中をさまよう手を降ろし、私も追憶に従って路地を進む。恐怖心が色濃い記憶があったが、実際に歩いているとそうでもない。地元の人たちが大きな声で中国語を話しながら昼間から飲み食いしている光景は迫力があるが、決して嫌な感じはしなかった。前方がカーブで視認できないような曲がりくねった細い路地をあるがままに進むと、やがてその小さな店は現れた。もうなくなってしまっていたら、と不安に思っていたが、杞憂だったようだ。
「すいません。胡麻団子、一つください」
迷いなくその店の前に立ち、暇そうな女店主に向かって指を一本立てる。彼女は客である私に露骨に不審者を見る目を向けてから、「あいあい」と返事をした。わざわざこの店に胡麻団子を食べにくる客など珍しかったのだろう。
ややあって、支えるのがやっと、という様子の爪楊枝に刺された胡麻団子が私に差し出された。
賑やかにおしゃべりをしていた四人はその大きさに気圧されたように黙ってしまった。私が「おっきいね」とほぼ無意識に呟くと、「なんだか得した気分」と誰かが言って、みんなで顔を見合わせてニヤリと笑った。
「熱いうちに食すのが通なのだ」
「何それ、何キャラ?」
「胡麻団子マスターに決まっとろうが」
「マスター、そう言ってるうちに冷めるけど」
過去の幻たちが私の周りに立ちあがって、賑やかに胡麻団子を食べる。
あの頃と変わらない大きさに爪楊枝だけでは心許ないので、空いている片手で胡麻団子の天辺を支えもつ。油分が人差し指にたっぷりついて、テカテカ光るが、そんなことは気にしない。「いただきます」と囁いて、恥を知らなかったあの頃を真似して人目を気にせずかぶりついた。じわりと甘さが口の中に広がって、唇についた油までもを思わず舐めとってしまう。鼻を胡麻の香りが抜けていくのが感じられた。
夢中で頬張っていると、店主が呆れたように笑って話しかけてきた。
「美味しい?」
大学生にもなってろくに返事もできないほど胡麻団子を口に入れている私は必死で頷く。店主はそんな私を見て今度は嬉しそうに笑った。私が頷いた瞬間に商売の至上の喜びを見出したと言わんばかりの笑顔だ。
自分の口で「美味しい」と伝えるために一生懸命胡麻団子を咀嚼していると、店主がふと首を傾げた。
「おねえちゃん」
「む、なんでふか」
「会ったことある?」
「前に…」
言いかけてから、最後の一口を飲み込み、唇の油を味わうように舐めとる。満足して一息つくと、急に幻たちが騒ぎだした。
「大満足!」
「大きかったからお腹いっぱい」
「うぅ、ちょっとまだ動きたくないかも」
「今からバス?」
「あかいくつバスでコスモワールドですな」
「それは勘弁。歩いて移動できないの?」
「バスは酔いそうだけどさ、歩くのも無理だって」
私は好きに騒ぐみんなの爪楊枝を回収して、まとめて店主に手渡した。店主は不器用に口角をあげて、「あいあい」とそれを受け取った。
「ごちそうさまでした」
「美味しかった?」
過去の私はもちろん答えた。
「美味しかったです」
店主に「どこから来た?」と聞かれると同時に、「もう行くよ」と背後から声がかかる。私は、店主に答えることができたんだっけ。
「前に、友達と来たことがあります」
爪楊枝を差し出しながら答える。
「あいあい、どうも」
店主の顔は記憶より老けていて、少ししか経っていない間の苦労が読み取れた。こんな裏通りの店は維持するのに莫大なエネルギーが必要に違いない。私の再訪まで続けてくれていてよかった。できれば、他の三人とまた来るまでやっていてほしいが、それは難しいかもしれない。
「たくさん来てた?」
「四人で来ました」
店主は目をつむって考え込むようなポーズをとりながら、「わかるよ」と言った。
「たくさん若いのが来るの、びっくりしたから、覚えてる」
「覚えてますか」
店主は頷く。
「女の子がこんなところに来るなんて、すごいと思ったね。怖くなかった?」
「怖かったけど、みんながいたから大丈夫でした。それで、このお店でみんなで胡麻団子を一つずつ買いました」
「そうだね。あと、最後に一人、海老煎餅、買ってたね」
「あ、それ私です。お土産にしました」
店主は大きく何回も頷きながら、当たり前の質問をした。
「今日は友達は?」
誘おうと思ってみんなの連絡先を開いたけど、結局何も打ち込まずに今日になってしまいました。用意した言葉は途中で迷子になる。
「予定が合わなくて。またいつかみんなで来ます」
言ってから、嘘をついた自分が恥ずかしくなって俯いてしまった。
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