第42話 衣笠組鍋騒動1

 その日、本所深川にある衣笠組は、朝早くから総動員で活動していた。若い衆は襷をかけてほうきや籠を持ち、気合い充分。窓や大戸をすべて開けはなち、あちらをパタパタ、こちらをパンパン。

 一体何事かと見に来るご近所さんまで、出る始末だ。

 そんな中。

「あ、寅吉、見ろぃ。埃が残ってらぁ。お絹さまの足裏が汚れる」

「へぇ……」

「心して掃除せよと親分に言われたろうが!」

「へ、へぇ……そりゃそうだけどよぅ……」

 ぱこん、と、兄貴分が寅吉の頭を小突いた。

 太一郎親分が昵懇の間柄である御家人佐々木家。今日はそこの紅一点お絹が、次男の英次郎と一緒に訪ねてくるのだ。

 御家人の奥方がやくざを訪ねてくるなど只事ではない──と考えるのが普通である。

「そのお絹さまは、何をしにこんなところへさ来るんですか」

「知るかっ!」

「ええっ!」

「俺に聞くなっ! 親分に聞けっ!」


 お絹の舅と亭主と嫡男は、金を借りるために何度も衣笠組を訪れているし、英次郎は仕事や遊びのたびに頻繁に顔を出している。

 だが、お絹自身は初めての訪問である。

 とはいえ、組の者はみんな「お絹かすていら」が大好物であるし、親分と衣笠組専属の菓子職人喜一がお絹を崇拝していることもあり、下へも置かぬ構えである。


 そんな中、ぽかっ、と痛そうな音がした。寅吉と呼ばれた鼻水をたらした少年がまた、頭を抱えて蹲る。

「いたい……」

 今回彼に拳骨を落とした相手は、月代も伸び放題、浴衣をだらしなく着崩した若い男だった。ひょろりと青白い彼は、寅吉と同じくらいの頃に太一郎に拾われて以来ずっと衣笠組で育っている。ゆえに、新入りの寅吉のことを何くれとなく気にかけている。

「寅吉、つべこべ言わずに言われたとおりに掃け」

「えええ、こんな三和土の隅っこ、誰も踏んだりしませんや」

「わかんねぇだろが、清めろっ!」

 再びのぽかり。

「三吉兄ぃ、横暴だ!」

「んだとぉ? おうおう寅吉、表へ出ろや……」

「のぞむところだ」

 この時互いに手にしていたのが匕首や包丁であればまだ格好はついただろうが、生憎彼らが手にしているのは、雑巾に竹ぼうきである。

 往来へ飛び出し、睨み合う。秋の気配が混ざってきた風がぴうっと吹く。

 互いに得物を掲げる。

 えい、おう、と互いに声をあげて威嚇し合うが、どこか迫力に欠くるためであろう、道行く人も足を止めることすらない。

「おう……寅吉、どっからでもかかってこい……」

「おうよ……」

 腰を落として摺り足になり、いよいよ額をぶつけあって睨み合う。

 と。

「……うるせぇてめぇら、どさんぴんが!」

 ばっしゃん、と、盛大に水が掛けられた。

 どうやら、汲んだばかりの井戸水が掛けられたらしい。

「つ、つめてぇ……」

「兄ぃ、なにごと……」

 だれでぇ、と怒鳴ろうとした三吉が慌てて口を閉ざした。

 なにせ、大きな盥を手にした菓子職人喜一が、憤怒の形相でそこにいたのである。

「あ、喜一兄ぃ……おいこら、寅吉、きちんと立て」

「へ?」

「喜一兄ぃがお怒りだ」

 そこへ並べ! と喜一が顎で軒下を指す。三吉が慌てて寅吉を連れて軒下に立つ。

「おめぇら……何遊んでやがる……」

 枯れ木のような喜一の痩躯からは想像がつかないほどに低い声。三吉がぶるりと震える。

「寅吉、おめぇは手習い塾と算盤だろうが! とっとと行け!」

「は、はいぃ!」

「いいか、師匠の仰ることはよぉっく聞くんだぞ」

「は、はい」

「それからぁ! 謝礼の金や食べ物を今度くすねたら……大川に浮かぶことになると思え」

「ひえっ……」

 喜一が寅吉を睨みながら、風呂敷包と油紙に包まれた金を渡した。太一郎の考えで、長屋から預かった子どもたちはみな、寺子屋や習い事へ通わされる。寅吉も例外ではない。荷を受け取った寅吉は、よほど喜一が恐ろしいと見え、がくがくと頷いた。

 その傍らでは、三吉が着物の袖を絞っている。

「三吉、おめぇも他人事って面ぁ、してるが……わかってねぇなぁ」

「え?」

「俺はおめぇに、命じたはずだぜ……鍋を見てろ、と!」

 やくざらしい立派な大音声ではあったのだが、その中身がいけなかった。鍋? と、三吉と寅吉が思わず互いの顔を見るし、通りがかったなにがしかの職人も「鍋?」と首をかしげた。

 凡そやくざらしからぬことばかりする衣笠組ではあるが──。

「鍋……ねぇ……」

 不釣り合い甚だしい。

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